会える人には会える時に会っておけ/「ふつうの軽音部」87話「春浅き日々を思う」を読んだ:春浅き日々の甘酸っぱさからの急展開と「さまざまなふつう」に逃げずに向き合うこの作品の凄さ

Posted at 25/11/23

11月23日(日・勤労感謝の日)晴れ

今日は勤労感謝の日、戦前であれば新嘗祭。昭和と令和における一年最後の祝休日。明日はその振替休日で三連休、ということだが。

昨日は仕事の後、高校(転校後・地元)時代の友人に誘われて数人で飲んだ。私と彼とは同じクラスなのだが、その同じクラスの人がもう一人と、その人の奥さん。それから同じクラスの人の部活仲間、というたまたまできたセッションみたいな飲み会になった。最初は奥さんといろいろ話していたのだが、彼ら夫婦が今障害者福祉の支援をいろいろやっているという話で、やはり母を入所させて自分が当事者家族でもある高齢者福祉に比べると障害者福祉についてはあまり知らないなと思う。グループホームというのも認知症の人たちのものはもちろん知っていたが障害者のグループホームがあるとかそういうことは初めて知った。なんだかこちらがあまり知らないので取り止めのない内容になってしまったが。

二次会では旦那の方と喋っていたのだが、AIとかゲノム分析の話になって(彼は東工大卒)、ゲノムの解読が完成したというがそれはどういう意味なのか、情報がわかったということか再現ができるということか、同じ遺伝子情報を持っていても例えば一卵性双生児であれば遺伝子情報は同じでも違うパーソナリティになるとか、そんな話をなんとなくしているうちに終わったという感じ。私も今日は車で東京へ行くということもあり11時には解散するという健全な飲み会だったが、最近は10月末に大学時代の演劇仲間と、8日に転校前の高校の同窓会、15日に母の卒寿祝いで一族、昨日は高校同級生と、と週末ごとに自分の人生のいろいろなステージで付き合った人たちと会っていて、来週末は教員時代の人たちと会う。

会える人には会える時に会っておけ、と思う、というのは昨日の同じクラスの人との飲みも結構久しぶりで、それはクラスの中心で飲み会とかも呼びかけていた人が亡くなったからで、会いたいと思う時には相手はなし、みたいなことは常にあるのだよなと思っているということもある。昨日会った人たちはみんな現役でいろいろ活動をしていて、やはり同じ世代が頑張っているというのはこちらにとっても力強くはあるよなと思った。

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https://shonenjumpplus.com/episode/17107094912231080099

ジャンプ+で「ふつうの軽音部」87話「春浅き日々を思う」を読んだ。

同時に来月4日に発売の単行本9巻の書影も明らかにされた。こちらは順当にプロトコルのドラマー、遠野なのだが、スティックを回してイキっていて実に遠野らしくて良いと思った。

https://amzn.to/49G1dap

Amazonではまだ書影が出ていないようなので、一つ上のリンクから今週の更新に飛んでいただくと見ることができます。以下今回の内容に触れていますので、気になる方は上のリンクから先に本編をお読みください。

今の展開は鳩野たち谷九軽音部とレイハの通う七道高校軽音部との合同ライブが始まっているというところである。

鳩野と同じ中学ながら中学の時にはほとんどつながりがなかった水尾・レイハと、幼馴染の川上純とのエピソードは、谷九高校の軽音部仲間の野呂が純に絡まれている場面に鳩野と水尾が遭遇した、というところから合同ライブ編の重要な背景として通奏低音のように響いていた。

先週合同ライブに遅れてやってきたレイハは理不尽なほど不機嫌な様子で、谷九のあまり上手くない1年生バンド・トゲトゲピーナッツの演奏をディスる。そしてそれを鶴に咎められ、一触即発の状態、というところで1週休み、となっていた。

https://shonenjumpplus.com/episode/17107094912077655973

先週はだから本編は進まず、ただ少年ジャンプ本誌に出張掲載されていた新入生説明会で中学生の前で「曇天」を歌う回が更新されていて、これがとても良かったので毎日「曇天」を聞いていた。

https://www.youtube.com/watch?v=n5TG3Fxzft0

今週は鶴とレイハの対決場面からだったが、「青春以外全部ゴミ」と言い切る鶴にああ、こいつには何言っても無駄だな、という顔をしたレイハが「了解っす!すいませんでした!」と謝って相手をするのを打ち切る。そこに鳩野がきて自分たちのライブを聞いてくれ、というのだがレイハは自分の演奏が終わったから得るといい、そこに鷹見が絡んできて「全部見てから帰れよ」という。鷹見としては、谷九の軽音部をバカにされてそれで帰られるのが我慢できないということで、彼としては筋が通っているのだが鳩野はそんな鷹見の意図はわからない、というか自分の演奏をレイハに聞いてもらうことしか考えていない、いわばやや自己中なノリになっていたから、「なんか鷹見が急に絡んできた。何こいつ怖・・・」となる。しかしレイハは鷹見を見て「ハルくんのバンドの人だよね。ハルくん今日はライブするの無理かもね」という。

それを聞いて鷹見と鳩野は「えっ?」となり、彼らの会話を聞くでもなく聞いていたカキフライエフェクトの野呂もどうした?という顔をするし、他のプロトコルメンバーの田口と遠野もあまりに水尾が来ないので探しに行こうと話をしている中、ページラストのコマで顔を覆ってベンチに座り込む水尾が描写されていて、只事ではないことが起こったことが暗示されていた。

この辺の深刻な表現に、レイハの一見傍若無人な振る舞いを絡ませてくるのが絶妙だなと思う。

場面は15分前に遡り、前86話で「何かあったんか」という水尾に「言いたくないから言わない」というレイハの会話の続きが描写されていた。

「聞かない方がいいと思うよ」というレイハに「教えてくれ、頼む」とたたみかける真剣な水尾の表情。レイハの「言わない方がいいと思うけど仕方ない」という表情の後、レイハは衝撃の事実を告げる。

野呂を殴り倒すほどぐれていたレイハと水尾の幼馴染である川上純が、特殊詐欺の受け子で逮捕されたというのである。暗い顔で水尾に「わかる?あいつ犯罪やって逮捕されたんだよ」というレイハに、最悪のことを聞いてしまったと呆然とした顔をする水尾。この水尾の表情の、特に目の周りの描写がすごい。これは鳩野が鷹見の演奏を聞いて「この勝負は私たちの負けだ。でも私はお前に負けることを許さない」という表情をした時の描写と同じで、鉛筆のかすれた塗りのような線が使われていて、場面にとても合っていた。

「もうあいつは私たちと生きてる世界が違うんだって。私はもうあいつのことは考えないようにしたから、ハルくんもさっさと忘れた方がいいよ」というレイハだが、落ち込む水尾に背を向けて歩き出すレイハの表情は「残酷なことを告げてしまった」という後悔も感じられて、驕慢だとしか描写されてこなかったレイハの思いがけず真摯な心のひだが描写されていてとても良かった。

レイハには、自分の告げた内容が水尾を心の底から動揺させるということがよくわかっていた。だから「今日はライブするの無理かもね」と言ったのだということがここで明らかにされたわけである。

そこからは過去編、純と水尾とレイハの小学生時代からの「春浅き日々」が描写されていく。寡黙で孤立しがちな子供時代の水尾に常に声をかけていたのが純だった、ということが明らかにされ、そこにレイハも加わり、仲良し三人組が形成されていく。中学時代には常に一人だった水尾が純に誘われてバレーを始めたことを、レイハは「でもハルくんなんか変わったな。明るくなった気がする。全部純ちゃんのおかげだね」と思っていることが描写されていて、水尾にとって純がどんなにかけがえのない存在だったかがわかる場面では、つい涙ぐんでしまう感じになった。

中学生になった仲良し三人組が一人の女子をめぐってどちらと付き合うのか、みたいな感じになっていたさなか、純の事故が起こる。病院に駆けつけた二人の前で純は気丈に振る舞うが、

というところで今回は終わりになった。

その純が、犯罪の片棒を担いで警察に逮捕され、犯罪者になってしまったという事実は、水尾にとっては自分の足元が崩れていくような衝撃だったことがよくわかる。

***

この作品では、今までも様々な「ふつう」が描写されてきた。主人公自身鳩野自身の生い立ちや両親の離婚、陰キャなのにバンドを始めたことによって起こる様々な困難。桃が性的マイノリティ(Aセク)であるが故に起きた友人との行き違いと諍い。コンプレックスを克服するためにギターを練習したものの鷹見の地雷を踏んで振られ、さらにヤケになった彩目。同性愛者であるために引っ込み思案でいろいろな縁が切れていき、自分を守る壁を乗り越えるためにバンドを始めたたまき先輩と、バンドに打ち込むしかない生き方しかできない兄に憧れたのに兄を傷つけるようなことを言ってしまってそれをずっと引きずっている鷹見など、さまざまな「ふつうの高校生」が描写されてきた。

この作品の良いところはそうした現実の高校生たちが抱える様々な困難を社会問題を炙り出すというようなスタンスではなく、全て「ふつうの」ことだと言ってしまっているところにあるのだと思う。

ただ、それにしても今回のように、「犯罪に手を染めてしまうふつうの10代の少年」が描かれるとは思わなかった。少年犯罪の描かれ方というのは「ギャングース」のように、もうそこでしか生きられない少年たち、社会から疎外された存在である彼らを、市民社会とは「別の世界」として描くという感じが多かっただろうと思う。

これからもさまざまな「ふつうさ」が描かれていくだろうとは思っていたけれども、ふつうに生きてきたふつうの少年が「グレてしまい」「犯罪者になる」というのはやはり彼らの世界にとっては大事件なわけであるけれども、そのセンシティブさを乗り越えてこれを取り上げるというのは、「ふつうの」と題した作品としてはやはり冒険的なところがあるとは思う。

ただ、コメント欄に「ふつうに犯罪に手を染める奴なんてたくさんいるのにこれで「ふつう」とはどういうことだ」というなんて、よほど恵まれた育ちなんだろうな」みたいなものもあったのだけど、ある界隈においてはそういうことは結構ふつうだったりするわけである。

私も教員をやっていた経験があり、底辺校と言われる学校にも勤務したことがあるから、彼らの日常と犯罪との距離が自分のそれまでの常識では考えられないくらい近いことは感じたことがあった。

マンガというものは、ジャンルがある。学園ものとかバンドもの、犯罪者もの、警察もの、それぞれ別のジャンルで、別の正義がそこにあったりする。だから、そのジャンルを一般的な枠を超えることは違う正義の領域に入ることであり、それこそ日本的な民主主義的正義と、中国の大国主義的な正義が衝突する場面に入るような困難さがあるわけである。

しかし、現実の高校生活というものは学園ものみたいな展開ばかりがあるわけではなくて、やはりそうした衝撃的なことも起こったりはするし、その中で「ふつうに」生きていく生徒たちの姿もあるわけで、この「犯罪を犯してしまった友達との関係」というかなり困難な話に逃げずに取り組む姿勢、「さまざまなふつうに逃げずに取り組む」ところが、この作品の凄さだと改めて思っているところがあるわけである。

今までの展開では、鳩野の歌がそれらの困難を乗り越えていく大きなきっかけになることが描かれてきたわけだけど、こういうことをどのように扱い、どのような展開でこの場面を切り抜け乗り越えていくのかは甘利想像がつかない。ただ、レイハのもたらした衝撃の情報に対してレイハは「忘れることにする」という対応を取ると宣言したわけだが、水尾や彼のバンドメンバーである鷹見たち、また水尾に対する恋心込みの友達である鳩野や、純絡みで仲良くなった野呂たちがここにいるということは、鳩野だけの活躍によってこの場面が乗り越えられていくのではないだろうということが暗示されていて、その辺りも気になるわけである。

以降の展開がより楽しみになった「ふつうの軽音部」だった。

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by Luke Peterson

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