「勇者ヒンメルならそうする」と「ヒンメルはもういないじゃない」/ロードサイド文化にみられるコモディティ化の意義と評価/「やりたいことをやる時期」と「自然にやる」時期

Posted at 24/01/17

1月17日(水)晴れ

1月17日、と書いて今日が阪神大震災29周年だということに気がつく。あれから多くのことがあったが、今も同じように被災している能登の人々がいるということに、日本列島に暮らすということのある種の宿命を感じさせられてしまう。被災し、復興し、防災し、それでも繰り返し訪れる災害。日本の人々は、そうやってこの国で生きてきた。そのエネルギーがあるからこそ、まだ日本は日本であるのだろう。多くの失われた命、失われた記憶や失われた風景は、もう完全に戻ることはないけれども、新たな荒野を沃野に変えて、我々は生きていくしかない、と改めて思う。

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昨日は「自然 深い息をする」ということをテーマにしていろいろなものを片付けていったが、それなりにやらなければいけないことは片付けていけた感じがする。手紙を出すとかを結局今朝まで引っ張って、宛名を書いて切手をはって、みたいなことを起きてからやってから車で出かけて郵便局で投函し、ついでにセブンイレブンまで車を走らせてマガジンとサンデーとカフェラテを買って帰ってきた。

「やりたいことをやる」ということをテーマにした方がいいときと、「自然にやる」をテーマにした方がいい時があるなと思った。高潮期・自分が動ける時はやりたいことを極力やるようにしていくと良いが、低潮期・思ったよりぐっすり寝られたり休息やコンディションの回復を身体が求めている感じの時は、より自分の感性に沿って自然に過ごすように心がけるのが良いと思った。一人の人間の目標と過ごし方というのは一つに決めることが多いけれども、人間は波があるものだし、その波をうまくつかまえて自分らしく生きる・自分らしく過ごすためには、やりたいことばかりをやっていても難しい。自分にとって自然な波を捕まえて、それに大きく乗っていくような考えが必要な時もあると思った。

それに「やりたいこと」をしばらく続けてやっていると、それが一つの日常というか自然な感じになってきて、突き進むような力がない時でも「自然に」それをやっていくことはできるようになる感じがする。調子のいいときに自分のできることの範囲を広げるのは良いことだが、調子が悪い時でもこれくらいは自然にできる、ということを地固めしていくというか、そういう感じかなと思う。これはまあ、受験の時に身につけた「調子の悪い時でも最低限これくらいは得点できる」ということの応用の、一つの「過ごし方のテクニック」ではあるのだけど。

午後仕事に行く前に作業場で音楽を聴きながらマンガを片付けたり本の整理をしたりする、というのはしばらく習慣にしようかと思う。ミニコンボのCDプレイヤーの調子が悪くて開閉がうまくできない時があるのがちょっと玉に瑕ではあるのだが。

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車を走らせながら「勇者ヒンメルならそうする」という言葉について考えていた。これはアニメ(マンガも)「葬送のフリーレン」に出てくるセリフで、いわば「ONE PIECE」の「海賊王に、俺はなる!」のような、作品を象徴する言葉の一つである。

https://twitter.com/FRIEREN_PR/status/1747102333086183732

これは、「自分らしくない」善行をするときに、そのためらいを振り切るために使われることが多い。僧侶ハイターが死のうとしていた少女フェルンを助け、育て上げたことをフリーレンに「らしくないじゃない」と言われ、「勇者ヒンメルならそうしていました」と言われて「そうだね」と答える。もともとフリーレンの第二の旅は「10年ともに旅をしたのにヒンメルを知らなかった」という後悔から「人間を知る」ために始まっていることなので、「勇者ヒンメルならそうする」と自分が口にすることは、それだけヒンメルを、つまり人間を知ったということになるわけである。

これはツイートで、子どもに宿題をしなさいと言って、「勇者ヒンメルならそうするよ」と言ったら子供が納得して、「勇者ヒンメルならそうするよね」と言って宿題を始めた、というエピソードから特に今ネットで話題になっているようだ。

「良いことをする」ということには何か抵抗がある。それを思い切ってするための言葉として、「勇者ヒンメルならそうする」というのは良い言葉だなと思う。同じように、「自分らしくない善行」をすることを励ます言葉として、だいぶ古いけれども「しない善よりする偽善」という言葉があった。たとえ偽善だと思っても、あるいは思われてもしないよりはした方がいい、と自分を励ます言葉で、おそらくは2ちゃんねるなどで広まった言葉だと思う。

この言葉に励まされてボランティアに行ったり寄付をしたりした人も多いだろうから、この言葉はこの言葉としての価値はあっただろうと思う。

しかし、この言葉にはどうしても衒いがあるわけで、それは「偽善だとわかってるけどいいことしてるんだぜ!」という屈折である。それに比べると「勇者ヒンメルならそうした」というのはヒンメルというキャラクター、ヒンメルという人格に対する愛がその後ろにあるわけで、この言葉が広まったのにはそういう理由もあると思う。

これと対照的なのが、魔族「断頭台のアウラ」がフリーレンに言い放った「ヒンメルはもういないじゃない」というセリフで、これもTwitterではよく呟かれるセリフである。首のない兵士たちの魔法を解除してアウラの兵力を減らそうとするフリーレンに対し、「なぜそんな回りくどいことをするの?」と聞かれて乱暴な戦い方をしていて後でヒンメルに怒られたから、と答えるフリーレンに、それならそんなことをする必要はないじゃない、「ヒンメルはもういないじゃない」と答えたわけである。

それに対してフリーレンは「やっぱりお前たち魔族は化け物だ。容赦なく殺せる」と言って圧倒的な実力差を見せつけるわけだけど、ここでフリーレンがそう言ったのは、「ヒンメルを、人間を知るために旅をしている」自分に対して「死んだものなど関係ない」、つまり「お前のやっていることは無意味だ」と言い放ったに等しいわけだから、フリーレンは起こったわけである。

もちろん魔族である断頭台のアウラにとってはそんなことはとばっちりだし、このセリフの秀逸さもあってアウラはTwitterでも圧倒的に多く取り上げられている魔族なのだけど、このセリフは例えば「キングダム」の(李)信のセリフ、「人の本質は火だ」という言葉を思い起こさせる。信と共に戦った多くの戦友、あるいは敵とさえ、その「思いの炎」を受け継ぎ、自分がそれを大きくして、自分は「天下の大将軍」となり、秦王嬴政の中華統一を実現させる、というテーマである。

つまり、人の思いを受け継ぎ、それを守っていくことは、「人間が人間である本質」だという考えがあり、それが魔族である断頭台のアウラにはない、ということが魔族は化け物だ=人でないという怒りにつながっていくわけである。

1000年生きているエルフの魔法使いであるフリーレンは、自分で粘り強く一つのことを何百年でも研究し続けられるから、人に何かを受け継いでもらったり人から何かを受け継いだということに鈍感になりがちだけど、人を知るということはその思いの豊かさを知るということなんだ、というテーマが、そこにはあるということなのだと思ったのだった。

https://amzn.to/4b2RFo7

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もう数日前になってしまったが、全国資本のコモディティ化したチェーン店の進出に見られるロードサイド文化の進行と地方伝統文化の衰退が地方の生活の豊かさの喪失を招き、それによって若年人口流出が起きている、という趣旨のツイートについての議論があった。

このことはいくつかのテーマが複合しているので、いくつかのテーマに分けて考えた方がいいように思った。先日は少し自分が新自由主義をどのように捉えているかという話を書いたけれども、今回は自分がロードサイド文化をどのように捉えているか、ということを少し書きたいと思う。

ロードサイド文化というと非個性的な全国資本の制覇による全国各地の非個性化、資本力による地元資本の衰退の招来と地方の個性的魅力の喪失、また地方色のあるものに対する否定的な考え方の醸成という方向からの現代資本の演出する文化のみを良しとする思想的傾向の強まりと「全てを金銭的価値に換算する傾向」を相関したものとみなし、その意味で金銭的成功を至上価値と考える思想の新自由主義的傾向(これは古典経済学以来の「経済人」思想が再度有力化していると考えても良いが)をもたらしている、という批判があり得るだろうと思う。

私自身としては、「経済人思想」というか「経済人思想に同化した人間」については端的にダサいと思うところがあるので、まあ全体的に否定的にこういうものを見ているわけだけれども、そのダサさということについてはもう少し考えるべきところはあるだろうと思う。

この辺りの、「地方の伝統文化からロードサイド文化へ」という移行に関しては、一つには消費の中心がバブル期あたりのような自分の地位の誇示を狙う「衒示的消費」からより実質を求める「コモディティ的消費」、言葉を変えて言えば「コスパ主義」に移りつつある、ということはあるのではないかと思う。

文化というものにはもともと「展示的価値」と「礼拝的価値」があるというベンヤミンの議論があるが、「文化を重視する」という考えの人はその文化自体が持つ価値、つまり「礼拝的価値」を重視するのだけれども、経済的に言えば恐らくは「展示的価値」=「衒示的消費」、つまり人に見せて人の評価を上げるための価値の方が重要になってくるだろうと思う。

地方の独自文化というものには、それを支える地方有力者による衒示的要素は当然あったわけで、それはつまり地方における階級文化の表れで、そうした階級性はある意味文化の一つの本質でもあるだろうと思う。

だから(地方)文化に対する反逆というのはある意味階級闘争でもあるわけだけど、日本の特徴はその経済的社会的進展と同様に、上流階級の文化に下層階級の文化がとって変わるというのではなく、ひとしなみに無色化しコモディティ化することによる「一億総中流化」、みんな平等のある種の究極の方向性である「無階級化」へ向かっている感じがする。

ただ実際には長期不況によって階級分化は進んでいるわけで、都市上流階級の衒示的消費はなくなったわけではなく、より国際化した形で国外移住やリゾート居住というような形でグローバル化しているということはあり、地方上流階級も地方独自の衒示的消費を支える力は失っても都市上層階級(いわば上級国民)により同化していく形で同じような消費を求める傾向が強くなっているのだろうと思う。そうした衒示的消費は地方文化の振興という喜捨的な方向ではなく、より換金性のある有価証券やダイヤモンドや金やマンション、現代美術、定番ブランド、高級時計、などの土地と遊離しても生きていけるような資産の増殖に励むようになってきているのだろうと思う。

これは「金銭的価値のコモディティ化」とも言えるし、また例えば「大企業に就職して数年後により給料の高い外資に移る・資格を取ってよりコスパの良い仕事につく・給料に見合った婚活をして見合った結婚をする」みたいなものも自分の労働力や自分の人生のコモディティ化とも言えるので、コモディティ化それ自体は上下の階級差を問わないと言えなくはない。


ロードサイド文化に戻ると、全国資本のチェーン店と言ってもそれらは実はほとんどが東京発ではない。逆に、東京資本のものは「東京的なおしゃれ感(これは京都なども同様だが)」を出そうとして、地方ではむしろスカしたものとして敬遠される傾向があり、成功するのは地方的個性も都市的おしゃれ感も脱色した「無色の使い勝手のいいコモディティ」に特化したものであって、その最も典型的な成功例が山口県の企業であった(今でも本社は山口市にある)ユニクロなのだろうと思う。

他にも札幌本社のニトリや東広島本社のダイソーなど多くの「地方企業」が全国チェーン化に成功し、そういう意味では大きな法人住民税や法人事業税を地元にもたらしていることになる。(これらの税の分割は事業所ごとの従業員数にほぼ比例するので本社所在地の総取りというわけではない)しかし本社には全国の支社からの往来や近隣との交際などもあって地元により多くのお金を落とす可能性はあるだろう。

こうした企業の成功は、「東京っぽさ」ではない。当然、東京の人たちもそれらの店に行って東京っぽさを感じているということはないだろう。逆に他に何もない地方にいるとそれらの店舗で都会らしさを感じるから、東京に行ってもそうした馴染みのチェーン店が使われるということはあるかもしれない。

これらのロードサイドの全国チェーン店は、消費者の衒示的消費からコモディティ消費のコスパ主義への収縮、いわば日本的な「縮み志向」の現代的表れであり、そういう使いやすさの徹底的追求という点でグローバル化しやすい要素を持っている。それらはむしろそうした傾向によって現代的なオシャレであると見える可能性はあり、特に国外展開においてはそのキッチュさこそがオシャレであると捉えられる可能性はあるように思う。

私は基本的に食器などでも作家の一点ものを買い求めるような意味での個性嗜好やアート志向を持っているので、あまりこうした傾向を魅力的に感じる方ではないし、そういう意味で地方の伝統文化のようなグローバル化やコモディティ化に押し流されないものたちが生き残ってほしいと思う方ではあるけれども、現代ではあまり主流ではないなという感じはしている。

まあ私がロードサイドに感じる「ダサさ」というのはそのコモディティ化の徹底というところに恐らくはあって、私は紳士服の量販店などに行っても「奇をてらって仕入れては見たものの案の定売れ残った」みたいなものの中から自分の趣味に合う服を探すというのが好きだったりはする。生意気な東京人や文化志向の強い人がロードサイドを嫌うのも、恐らくはその「オシャレさが徹底的に削ぎ落とされた(オシャレ要素さえコモディティ的に付け足されていたりはするが)」感じがいやなんだろうと思う。

私も田舎にいる時はスターバックスに時々行くが、東京にいる時によることはほとんどない。「シアトルみたいな田舎のコーヒー屋に入ってられるか」みたいな感覚もあるのである。まあそこまでいけば偏屈ではあろうけれども。

だからまあ、ロードサイドのチェーン店は私には趣味はあまり合わないけれどもそれらを支持する人たちは多いだろうし多くの可能性を秘めてもいるところもあるようには思うので一概に非文化的であると否定するのは公平性を欠いているだろう。

地方文化の振興や若者の人口流出防止策については、また改めて考えてみたい。


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