「見捨てられてきた東ヨーロッパ」と「ロシア×ウクライナ戦争」/日本および日本人への信頼感/江戸時代のサロン的私塾文化と「保守」の醸成

Posted at 23/03/11

3月11日(土)晴れ

今日は3月11日で、2023年だから2011年から12年、つまり一回りということになる。あの年も卯年だったのか。あの災害は今でも日本に深い影響を残しているし、分断も深めているなあと思う。災害・事故・疫病、そして戦争。世界は危険に満ちている、というか安全神話が壊れ続けた12年だったが、原発事故への不安やコロナ対策への不満、ウクライナ戦争での言説の対立など、「それがなければ起こらなかった対立」が起こっている、とも言えるし逆に言えばそれらを表面化させるような形でそれらの事件は起こったということでもある。

こうしたことで残念に思うのが、いわゆる「日本人らしさ」、みたいなものが失われつつある感じがすること。もちろんフェミニズムや新自由主義などをめぐる分断のようなものは以前からあったけれども、科学技術や経済政策、戦後政治の弱点の是正といった課題がポジティブにではなくネガティブに日本という共同体に作用し、分断が起こってきているという面があるような気がする。ただ、90年代やゼロ年代に起こったいくつかの猟奇的な事件、理解がしにくい事件というものはその表面上はまだ平和な社会の、奥底にある緊張感みたいなものが犯罪という形で起こったものだとするならば、対立が表面化してくることで活動家的な方向にそういうエネルギーが注ぎ込まれていっているのかも知れない。

まあ相模原障害者施設殺傷事件のようにそういう事件が起きなくなったわけでもないのだが、いかに極端な主張であってもそれに共感する人が意見表明ができる、というようなツールは以前より拡充していることによって昔なら表面上は雲散霧消したような対立もいつまでもネット上に保存されていく、というようなこともまた時代の硬直化を生んでいるような感じもある。

たまたまかも知れないけど、「最近は日本に対する愛国心が薄れてきた」「多くの日本人に共感できなくなってきた」みたいな言説が増えていて、どういうことかなという気はするのだが、自分にとっては自分の国である以上自分の国を嫌う動機は特にないのでまああまりよくわからない。どの民族や国家社会も理不尽なこと、あるいは理不尽な人はあるしいる。ここ数年で何が変化したのかとかもよくわからないが、それがその人自身の変化であれば周りからはわからないということもある。

ただ、例えば日本のアカデミズムとかそういうものに対する信頼感がほとんど地に落ちてきているとか、そいうことは自分の中でもあるわけで、まあ「総入れ替え」「総取っ替え」して欲しいものだとは思うけれども、「日本」というレベルにおいて絶望するとかいうことは特にないし、まあなんだろうな。

自分としては日本というものの価値を高めていきたいと思っているので、そういう言説も気になる、ということなんだろうと思う。まあそういうものを気にするよりも自分が感じている日本の良さを高める工夫をした方がいいんだろうなと思う。

じゃあ自分が感じている日本の良さとはどんなものかというと、多分「なんでもあり」なところなんだろうなとは思う。世界中の食事がタブーなく楽しめるのは日本の特徴だ、という話もあったし、いろいろ規制が強まっているとは言え表現規制は他の国ほどではない。ネット見てたら本当に言いたいことを言ってる人がたくさんいるし、まあそれがある程度平和共存してればいいけれども、火種を持ってウロウロしている人たちもたくさんいるので一度発火するとかなり大変なことにはなる。

まあ平和共存がいいとは思うけれども、「話し合い」をして無理矢理表面上の平和共存「感」を演出して現実を糊塗していくのがいいかと言えばそんなのダメだという意見も当然出てくるわけで、イジメはあるのに学級会で話し合って「イジメは良くないと思います」みたいなコトで満足して現実には野放し、みたいなこともままある。コラボ事件とかも結局は「表現を平気で焼く(=気に入らないものを虐める)奴ら」に対する批判が始まりだから「話し合い」で解決できることではない、という側面はあるわけで、特に現在のように「マイノリティに優しい社会ですよ!」みたいな風潮のもと、「マイノリティ切り捨て」ならぬ「マイノリティ以外全部切り捨て」のような風潮がどんどん進行している中では当然そういう動きが起こってくるだろうと思うし、「いじめた方が悪い」「いじめられた方にも問題がある」みたいな問題が延々と繰り返されていくんだろうという気はする。

***

思ったより上の話を長く書いてしまったが、書きたいことはあと二つある。一つは「方法としての国学」で読んだ平田篤胤が創設した「気吹舎(いぶきのや)」に関連した話。古典落語を聴いていると遊郭をはじめとした庶民の遊びみたいな話がたくさん出てくる。美人の長唄の師匠に習いにいって鼻の下を伸ばす、みたいな話もよくあるが、こういう「学ぶ」「教えてもらう」こと自体が結構娯楽として成立していたんだなと思う。その辺は今のカルチャー教室文化と似ているが、現代のそういうものの担い手は主に女性だが、江戸時代には男性の方が主だったということなんだろう。

落語に出てくるような階層よりは少し上の階層の人々、町人やある程度の豪農、僧侶や神官、あるいは江戸詰の武士たちなどの間で、平田篤胤のような私塾を開いている人のところに学びにいくというのは一種のサロン文化であり、そのネットワークは全国に広がっていたという話が面白かった。これは昨日書いた、Wikipediaで調べた話とも共通するのだが、江戸勤になった武士がさまざまな師匠の元を訪れて話を聞いたり友達ができたりしているのは同時代イギリスのティールームの文化であるとかフランスのサロンの文化と共通するものがあるなと思う。こういうのは例えば1920年代のケンブリッジの文化などとも共通しているわけで、オークショットのいう「対話」「社交の文化」みたいなものがそこにあるのだろうなと思う。

国学者と狂歌作者は結構重なる、という話も面白いと思った。つまり共通の文化基盤の上に国学と狂歌が成立していたということなわけだ。

そういう意味ではそういう文化そのものが一つの「保守の基盤」になるのだと思うし、これが現代のSNSなどでも成立するといいのだが、今のTwitterはエコーチェンバーもなくはないが最初から他流試合みたいなところがあって、「都市サロン」というよりは「道場破り」みたいな感じになっている。著名な学者に噛みつきにいく、みたいなことが以前に比べて躊躇なく行われているような感じになってて、その辺りはサロン文化にならないので残念なのだが、そういうのはTwitter以外の場所で目指すべきものなのかも知れない。

この中で寅吉という超自然的なものを見る少年が出てきて、平田篤胤が強引に自分の元に引き取っていろいろと話を聞き出し、ついには「仙境異聞」という著書にまで結びついたというのが面白いのだが、まるで現代のマンガのネタである。この少年が成長後どうなったのかは気になるところだが、篤胤が少年の機嫌を取ろうとみかんを与えたり、一緒に遊んだりするというのが本当にマンガのようで面白いと思った。その「遊び」が現代にまで残る著書を書くためのものだったというところもまたマンガのようである。

明治以降になると「千里眼事件」みたいに結局インチキでした、みたいな話になってつまらないのだけど、コナン・ドイルが「心霊術」に凝ったりするのと同様、面白いというところで止めておいてくれればなあ、みたいな感じはある。まあ謎の少女シンガー森田童子は実はなかにし礼の姪でした、みたいな無粋な暴露が起こってしまう現代でもあるので、虚実被膜というもののある種の貴重さというものも改めて感じたりはするのだが。

こういうのを読んでいると現代に起きている奇天烈なことなども実は何かにつながるものなのかも知れないし、まあそういう意味で世の中は面白いのだよなとは思う。

***

もう一つ、鶴岡路人さんと細谷雄一さんの対談が面白かったので書いておきたい。

https://www.fsight.jp/articles/-/49600

今回のロシアのウクライナ侵略に関しては、ロシアの側に原因を求め、ロシアの側の動機を研究する論点がどちらかというと目立っているが、ヨーロッパの側からみてのこの戦争の意味というものについて議論しているのが新鮮だった。

なるほどと思ったのは、「この1世紀、東ヨーロッパは見捨てられてきた」という話。ミュンヘン会談によってチェコスロヴァキアが解体され、ズデーテンがナチスドイツに併合され、第二次世界大戦の勃発とともにバルト三国がソ連に併合されポーランドがドイツとソ連によって分割され、第二次大戦後も東ヨーロッパはソ連の衛星国に編成されることになってしまった。

ハンガリー動乱もプラハの春もソ連の軍事介入を結局は「西側」は黙認し、ソ連崩壊後でさえロシアのクリミア併合やグルジア(ジョージア)侵攻に軍事的に支援するということは起こらなかった。

そういう立場に置かれた東欧諸国にとって、国際法とか国際的な信義のようなものには信頼を持てない、という指摘は全くその通りだと思った。

安全を確保するためにはロシアとの関係を切り、国連に加盟するだけでは十分ではなく、EUに加盟しNATOに加わり、強国と軍事同盟を組むしかないというリアリズムに東欧諸国は走った、というのはまさにその通りだなと思った。そしてウクライナへの侵攻によってスウェーデンやフィンランドもその方向に舵を切ったわけで、まさに彼らは歴史に鑑みて行動を選択している、というのは本当にそうだなと思う。

まだ「鶴岡路人×細谷雄一|「ロシア問題」にどう向き合うか ウクライナ侵攻から一年 #1」しか読んでいないので、#2 #3も読んで感想を書いていきたいと思う。

この戦争をロシア・ウクライナ戦争というべきか、ウクライナ・ロシア戦争というべきかは難しいが、今のところロシアが「攻め」でウクライナが「受け」であることを考えれば(何を言っているのか)「ロシア×ウクライナ戦争」というべきかも知れないと思ったりした。もしこの戦争が「ロシアのウクライナに対する狂った愛情」が原因だと考えてみれば、この命名もある種深い含蓄があると言えるのかも知れない。


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