大黒屋光太夫と平田篤胤

Posted at 23/03/10

3月10日(金)雨/曇り

昨日は午前中松本に整体に出かけ、午後は少し休んで仕事。近くにできた古書店に行って、いいかなと思った写真関係の古雑誌を買って、仕事場に戻ると嬉しい知らせが届いていた。少し話をして、仕事。

時間が少しある時に断片的にいくつかのものを読んだのだが、面白かったのは台風で遭難しアレウト(アリューシャン)列島に漂着してロシアの援助を受けて帰国した大黒屋光太夫の話と、平田篤胤の話だった。これらは「方法としての国学」の星山京子さんの論文での生田美智子さんの論文の引用から。

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江戸時代の日本でロシアのイメージを変えたのは大黒屋光太夫の帰国だったというのが興味深かった。それまでは脅威や貿易の観点から見られていたが、それ以降は「憧れ」の要素が出てきたと。「北槎聞略」がそれだけ流布したということだろうか。

「北槎聞略」は帰国した光太夫と磯吉からの聞き取りだが、聞き手は蘭学者の桂川甫周なので、自分の知識で誤りを訂正したりしているというのは凄い、というかそういう人がいなければ誤りをそのまま記録することになった(もちろんそういう部分もある)のだなあと思ったり。

いまウィキペディア参照して面白いと思ったのは、光太夫がペテルブルクで娼家に行くと娼婦たちから訪問のたびに逆に金品を贈られたという話。いかにもロシア人ぽい。

それが今日の状況になるところがまたロシア人ぽさでもあるわけだけど。

大黒屋光太夫については「おろしや国酔夢譚」の映画を見たのと、あとはみなもと太郎「風雲児たち」で読んだ知識が大きいのだが、いろいろな話があるのだなあと思ったり。

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平田篤胤(1776-1843)は蘭学を吉田長淑(1779-1824)に学んだのか。ということは高野長英(1804-1850)と同門ということになるなあ。篤胤の方が長淑より年長だが。この辺りの同時代性を掴むことで見えてくることもあるのだろうなと思う。以下Wikipediaで読んだことが多い。

平田篤胤は「宣長没後の門人」を称して本居春庭に入門したことは有名だけど、篤胤の死後には「篤胤没後の門人」が1330人いた、という話は最初は笑ったのだが、もっと深い意味があったようだ。

平田篤胤の私塾「気吹舎(いぶきのや)」のには多くの門人が集まってきたのだが、その半数以上は豪農や地方の神官で他の国学塾に比べて庶民性が高かったので「草莽の国学」と呼ばれたと。確かに篤胤は真淵や宣長に比べて妙な大衆性があるよなと思っていたが、そういうこともあったのだな。

特に門人には信濃国の人が630人もいて最も多く、伊那谷は386人もいたという。「伊那の国学」というのは聞いたことがあるが、平田派だったわけか。

最初の話に戻るけど、篤胤の養子の平田銕胤は新たな入門者を自分の弟子という扱いにはせず、「篤胤没後の門人」としたというのはちょっと渋いなと思う。しかし彼はそういう意味では謙虚だったが篤胤の学問を広めること、あるいは久保田(秋田)藩士として幕末の情報を収集することにはずいぶん精力的だったらしい。

また気吹舎は出版社でもあり、篤胤の著書だけでなく門人の農書が多数出版されたというのも面白い。『気吹舎日記』には出版年や部数まで記録されていて、江戸後期の出版事情を知るための好資料であるとのこと。

この気吹舎は明治初年まで続いたが、銕胤の長子として活躍した延胤が父に先立って明治5年に亡くなったことや、文明開化に舵を取った明治政府から平田派が概ね追い出されたこともあって勢いを失ったとのこと。

平田篤胤の学問は国学を全ての学問を総合するようなものにしようという野心があったから非常に幅広いものを含んでいたわけで、その辺は諸学の総合という度々語られる理想の一つの形だったのだなと思うけれども、スピリチュアリティもあるし平田神道=復古神道としての意義は後世に残ったが、広い情報収取も恐らくは明治維新には生かされているのだと思うけれども、明治以降にはヨーロッパ直輸入の学問や言説、技術には敵わなかったわけで、ある種過渡期の存在でもあったのだなと思う。

ただそういうものは後世にはなかなか記憶されないことだから、今こういうことを知れたのは良かったなと思う。


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by Luke Peterson

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