文章の書き方について考えている:「言いたいことを書く」という書き方/「党派性に基づく言いたいこと」は「本当に言いたい」ことなのか

Posted at 22/09/15

9月15日(木)晴れ

4時過ぎに起きているのに、いつも思ったよりいろいろできていなくて困るのだが、その分いろいろと思考は行っていてコピー用紙のメモがかなり増えているのだけど、それは直ちに文章にして公開できるという段階ではないので、ブログもまだ書けていないという状態ではある。

何を書くか、ということを考えていて、何を、というよりは書き方についてなのだが、一つには「言いたいことを書く」というのがある。

言いたいこと、とは何だろうと考えてみると、Twitterを読んでいて、「みんなもう少し調べて考えて書いたらいいのに」ということは「言いたいこと」だなと思った。

これはまあ自分自身にも結構跳ね返ってくる言葉ではあるが、何かが起こったり何かの意見が提出されたりすると、それに反射的に反応する人がTwitterでは多い。もちろん少し考えて嫌味を書いたり揶揄を書いたりする人もいるが、これは反射的に出てきた自分の意見をどう表現するかについて考えているだけで、意見の出どころが反射的であることには違いはない。Twitterというのはこういう揶揄や嫌味の修辞がある意味豊富で、その嫌味の面白さを味わうのが一つのTwitterの面白さではあるのだが、まあこういうのはいわば「麻薬」のようなもので、本当の意味での「醍醐味」ではないだろう。

「言いたいこと」というのを「何を言いたいかな」と考えてみると、「そんな過激派表現をするな」とか「めちゃくちゃ一方的な言い方だな」とか「この人は党派的な反応しかしないな」とか「いつまで経っても自分の恐らくは間違っているスタンスを微塵も疑わないな」とかいろいろ「言いたいこと」は出てくるのだけど、よく考えてみると結局どれも「常識的」なことだなと思う。

あえて過剰に過激なことを言おうとしている人たちに、常識的に「それは言い過ぎだよ」と言ってもよく考えてみたらあまり意味がないのだが、それが我を忘れて言い過ぎてしまっているなら「ああそうかも」と思ってくれるかもしれないが、過激に挑発しようという底意地の悪い人に対して常識的な「言いたいこと」を言ったところで「挑発成功♡」と思われるだけで特に意味がない。

そして、この常識的な表現を繰り返していると、自分が何か常識から少し外れた表現をしたいときに、無意識にブレーキをかけてしまうという副反応もある。

「常識」というのは自分を守るための盾でもあるが、反撃のための矛でもあるので、自分自身が放った言葉が自分を傷つける可能性はある。これは「常識的なことを言っていれば大丈夫」みたいなことを考えがちな人にとっては割と驚いてしまうことで、しかしそういう発言でさえ諸刃の剣なのだ、ということは理解しておく必要はあると思う。

「言いたいことをいう」というのは、いわば「誰かに向かって意見する」ということなので、当然ながら一つの攻撃であるという認識は必要だ。ここで間違わない方がいいのは、「攻撃は常に悪ではない」ということなのだけど、ただ「常識的な意見」も人を傷つけることがある、という前提は押さえた上で攻撃を行った方がいいということだ。逆に言えば何を言っても傷つく人はいるので、それはその事実を引き受けるとともに、自分が人の言葉で傷つく危険性も常に意識しておいた方がいい、というふうにも言える。

「Twitterぐらい言いたいことを言いたい」というのはそれもまた理解できることなので、ただその言いたいことが人を傷つける可能性と、それが自分に返ってくる可能性を意識し、そしてそれでもいうべきだと思うか、ということは考えておくと良い、ということなのだろうと思う。

違うパターンで「言いたいことを書く」ということについて考えてみると、Twitterでよくみられるのは「党派的な意見」だ。

頭の中がある党派の思想が大きく浸透している場合、その党派の意見に疑問を呈したり否定するような発言を読むと、頭に血が上って反応する人がいる。これが本当の意味で「言いたいこと」なのかどうかというと「その党派の思想に言わされている」ような感じがあり、カント的な感じで言えば「その人が本来言いたいことではない」というような感じはするけれども、ただそういう発言も近代社会においては責任ある個人から発せられる言葉だと解釈されるので、それにおいて責任を逃れられるわけではない。

私の場合は、こういう発言はその思想や党派に入れ込んでいるときは割と熱くなって言い過ぎてしまったりすることもあるけれども、後になって割と客観的に、冷静になったりしたら虚しい感じがすることが多い。それは恐らくは、「本当に自分が言いたいことではなかったなあ」と思うからだろう。

安倍元総理の国葬の件などをみていても、党派的な反対意見の表出、つまり「反対のための反対」になっている人が多く、こうなるとどういうわけか「自分の本当の意見」を言っている時よりもより過激に、より常識を逸した行動を取る人が多くなる傾向があるように思う。

国会議員などでも自分宛の招待状に対し「欠席」と丸をつけた写真をTwitterなどにアップしている人が何人もいるが、そういうことは常識的に考えれば大変失礼な行為であり、それが「政治的信条による反対意思の表明」という枠組みを与えられたことで「常識を逸脱して失礼なことをしても良い」となってしまっているわけだから、後になって冷静に振り返ってみると夜中に背中に汗をかくような思いをする人もいるのではないかという気はする。

ただ政治的なこういう行動というのはどうもカタルシスがあるようで、やった後にさらに盛り上がってしまうことがあるのは自分の経験からもわかる。だからその行為を自分の常識的な倫理の面から自己点検しないと、「あのときは楽しかった」で終わってしまうわけだ。今Twitterでよく語られている学生運動に対する批判も、元々は「常識に考えたらとんでもないこと」を「楽しかった充実した思い出」として語っている団塊の世代が多いということが、下の世代の嫌悪感、忌避感を呼んでいるということなのだと思う。

彼らは「学生運動はいいぞ」と「自分の推し」を「布教」しているわけだが、その布教の仕方があまりにも雑だということなのだと思う。

まあ「言いたいことを書くこと」というテーマについて書いているうちに自分の言いたいことを書いてしまった感があるが、言いたいことを書くことがさまざまな反応を呼び起こすのはそれが攻撃性を持っているからであり、そのことに対してセンシティブな人にとっては読みたくないことであるけれども、それに共感する人もあるし、批判に怒る人もあるけれども、一理あると冷静に受け止めてくれる人もあるので、これはいうべきだと思った言いたいことというのは個人の責任において発信していくことは、民主社会の発展にとって意味のないことではないと思う。


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