「気に入らない表現の排除」に対するヴォルテールの意見/「俗流歴史本の一般の歴史理解への影響」について/など

Posted at 22/06/07

6月7日(火)晴れてきた

昨日はなんとなく燻ってしまったのだが、午前中に雨の中母を歯科医に連れて行った。普段は総合病院へ行くので濡れないようにエントランスに車を横付けし、そのまま車椅子で中に入るのだが、通っている歯科は段差もあるし駐車場から玄関までは濡れるので、雨が降ると大変なのだが、比較的小降りの時間に当たったので少しは楽だった。午後は浴室のタイルが剥がれてしまったのを補修を試み、見かけ上はうまくいっているけど実際どうなのかはよくわからない。それでもちゃんとついていてくれたらとりあえず安心だ。夜はインドの友人から電話があってインドの大学についての話を聞いたりしていた。いろいろ大変なこともあるようだ。

夜は10時ごろ寝たのだが、起きたら3時過ぎ。やはり5時間以上眠るのはなかなかうまくいかない。それでも布団の中に4時ごろまではいたのだが、起き出して入浴したり洗い物をしたりその辺りを片付けたり。少し仕事のメモをしてゴミをまとめ、車で出かける。セブンでコーヒーを買おうとしたら前の客がなんだかいろいろごたごたしていて少し時間がかかったが、コロンビアを買って車に乗り、このところの周回コースを運転して帰ってきた。

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寝床の中で考えていたことの一つは、このところかなり目が疲れていて、それは液晶画面を見ている時間が長いからだなと思う。iPhone、MacBookAir、iPad、仕事用のPCなど結局液晶画面を見てしまう。気分転換をしよう、と思ってスマホゲームとか始めるのは本当に良くないなあと思うのだが、ついやってしまうのも困る。

日常的にネットを使うようになったのは1999年ごろからで、それまではWin3.1のPCにしてもワープロ専用機にしても、ほぼ「文章を書く」という用途以外に液晶画面を見ることはなかったよな、と思う。だから機械の前に座ると自然に文章を書く気持ちになっていたのだけど、ネットに接続するようになってからは読む時間が増えた。それでも最初の頃は書くためには読まないといけない程度の感覚で読んでいたのが、いつの間にか書くわけでもないのにネットに接続するようになっていて、やはりその変化が目に影響が大きいのだろうなと思う。この辺りは初心に帰ることを意識した方がいいのではないかと思った。暇つぶしや気分転換にネットを見るのは、適度にしておいた方がいいと思う。まあそれは何度も思っていることではあるのだが。

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朝はいろいろと邪魔の入らない時間なので有益に使いたいのだけど、つい今でなくてもできることをしてしまうのがもったいない。ものを書き始めるのは早くても6時、今朝は7時を過ぎてしまい、書き終わった頃には8時を過ぎているのが普通で、9時になることもある。せっかく早く起きてるのにもったいないなと思うのだが、なかなかその辺の習慣が変わらないのだけど、毎日新しいことを書こうとしているからそのためのウォーミングアップに時間がかかるのだよなと思う。村上春樹さんが朝起きてコーヒーを入れたら小説の昨日書いたところを読み直してすぐ書き始める、みたいなことをインタビューで言っていて、そんなふうに書けたらいいなと思うのだけど、「続きを書く」タイプの文章でないとなかなかそうはできないなともったり、それでもまとまった物を書くためには構想を練るようなタイプの長めのものを書かないといけないなと思ったり。

今読んでいる本は「下野足利氏」「鎌倉幕府はなぜ滅びたのか」の日本中世史、「現代ロシアの軍事戦略」「NATOの教訓」のロシアによるウクライナ侵攻関係のもの、ヴォルテール「ルイ14世の世紀」とエイヤー「ヴォルテール」のヴォルテール・フランス(ヨーロッパ)近世史関係、の3系統になっているが、どれも進んだり進まなかったりでほんとに読書力は落ちてるなと思うのだけど、とりあえずどれを読もうかと思って一番手を取る気になるのが「ルイ14世の世紀」であるのは割と面白いなと思う。

ルイ十四世の世紀 (1) (岩波文庫 赤 518-3)
ヴォルテール
岩波書店
1958-05-26

 

なぜそうなんだろうと考えて思ったのは、本というものは全然知らないことを知るのが楽しみではあるのだけど、自分の中の琴線というか、知りたい何か、考えたい何か、言葉にしたいけど言葉になかなかならない何か、みたいなものを釣り上げることができないと、その書籍に対する関心そのものが急速に薄れていく感じがある。日本中世史は最近活況を呈していることもあって関心はあるし、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見ることでその辺りが掘り起こされやすく、登場人物の名前を見ても「これは鎌倉殿に出ていたあの人物の子孫か」というような発想ができる面はある。

また現在のロシアとウクライナの攻防も今後の世界史の命運を左右する重要な戦争だと思うのだが、ロシアの軍事戦略もNATOの重要性もこの戦争における一要素に過ぎないわけで、考えるべきことはどんどん変わっていくから本そのものに対する関心がなかなか続かないところがある。

フランス近世・近代史というのはもともと私が修士課程の時に論文を書いたということもあってそれなりに知識はあるということはあるけれども、一番読む気を掘り起こしてくれるのは、ヴォルテールが書いていることが現代に通じる面がある、同時代性を感じる、「古くて新しい内容」であるということが大きいのだろうと思う。

昨日Twitterに書いたことでいえば「良い趣味とは、感覚が素直なこと、理知が均衡を保って速やかに働くこと、この二つの結びつきに他ならない。」であるとか「アンヌ・ドートリッシュは宮廷に粋の中にも高尚で誇り高い空気を醸し、これにしとやかさ、優しさ、度を越えぬ大胆さを加えたが、前者はスペインの気質であり、後者はフランスにしかなかったものである。」であるとかは、気品とか趣味とか振る舞いなどについて現代でも通じるものを感じて引用した。

今朝はルイ14世の有名な言葉「朕は国家なり L'État, c'est moi.」について、その言葉が発せられたとされている状況を少し見ていたのだけど、これは1655年4月13日、ルイ14世の勅令を審議しているパリ高等法院に狩猟姿のルイ14世が乗り込み、「勅令に関する審議などやめるように」と要求した際の言葉だと一般にされている。それを諌めようとする高等法院側に対し「私こそが国家だ」と言って感銘を与えたということになっているが、「ルイ14世の世紀」を読んだところではそういう記述は今のところ見当たらない。(高等法院に乗り込んだ事件については第2巻の25章に出ている)

こういう有名なエピソードはいわゆる「俗流歴史本」みたいなものでいかにもその人が言いそうなセリフとして生み出されていくわけだが、シェークスピアのような有名な作家が書いたものだと典拠がはっきりするが、誰がいつ言い出したのかわからないようなエピソードも結構ある。ヴォルテール自身も「私は君の意見に反対だが、君がそれをいう権利は命に換えても守る」という「名言」の主と仮託されているけれども、これもいつ誰がヴォルテールのセリフとして仮託したのかとかは近年研究がされているようだ。つまり長い間誰がそういうことにしたのかわからなかったわけだ。

これは日本史などでもそうだけど、そういう俗流歴史本や大衆向けの歴史文学みたいなものでの歴史上の人物の振る舞いなどがイメージとして一般に定着するということはよくあることで、歴史学者にはそういうものを目の敵にする人が多いけれども、それはそれとして国民の間に育まれた英雄像であるわけだし、もちろん国家や寺社によるプロパガンダという面もあったりはするけれども、そういう面も含めて目を三角にせずに取り扱っていけばいいことだろうと思う。

まあそれはそれとして、カルヴィニズムの影響を受けたカトリック教会内の改革派であるジャンセニストの、特にその厳格主義についてヴォルテールは何度も取り上げているのだが、彼らはルイ14世時代に盛んになった演劇について、「観劇しただけで地獄に堕ちる」などと非難していたらしい。それについてヴォルテールは「ルイ14世の世紀」25章で「改革を企てる人間はそれだけで厳格な態度をとりたがる。往々愚にもつかない意見を認めさせるために国を覆すのも憚らぬような連中が、大都市に必要な罪のない娯楽や国の名誉に寄与する芸術を蛇蝎視するのである。」と書いている。

この辺りは「宇崎ちゃん」「温泉娘」「戸定梨香」などと言ったキャラクターに対するフェミニズムの攻撃を思い起こさせるし、名作とされる絵画まで公開禁止にするような常軌を逸した動きも連想される。そしてそういう人間精神の自由な発露について、寛容を説くのがヴォルテールなわけだけど、300年近く経っても自分の気に沿わないものを排除しようとする人間の業のようなものは変わらないのだなと思わされた。

ヴォルテールが何度も読み直されるのは、まだ民主主義社会が成立する以前から、人間の世界に存在する普遍的な問題について論じている面があるからだなと改めて思ったのだった。




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