「鎌倉幕府はなぜ滅びたのか」を読んでいる

Posted at 22/04/23

4月23日(土)曇り

問題が一つ何とかなるかなという感じになってきたのだが、もう一つ考えるべき課題のようなものがまた出てきたので、まあ仕事は続くよどこまでも、という感じだが、まあぼちぼちやっていこうと思う。

昨日は10時半に寝て今朝は4時半に起きたので6時間は寝ているのだが、この時間になって眠い。6時前に家を出てガソリンを入れに行き、ついでにデイリーによって塩パンを買って帰ってきた。

昨日はいろいろと読めたのだが、「鎌倉幕府はなぜ滅びたのか」について少し書こうと思う。

***

永井晋「鎌倉幕府はなぜ滅びたのか」(吉川弘文館、2022)読んでいる。(52/230)面白い。というか、いろいろ知らなかったことが多くて、買ってよかったなと思う。


 

読んで印象に残ったのは、1308年に始まる延暦寺と東大寺の強訴合戦のところで、六波羅探題は延暦寺の強訴を止められず神輿の入京を許し、幕府方の完敗に終わって延暦寺の要求が朝廷に認められた。武士は神仏を恐れないから力を伸ばしたとかいうのもこのあたりになると怪しいのだなと。

しかし延暦寺の強訴の激しさはちょっと驚いたので、Wikipediaで強訴の記録を読んでみると、平安中期から戦国末までずっと続いていることを知り、自分の中のイメージでは院政時代に白河法皇を悩ましたのは知っていたがその後は政治を左右するほどではないと思っていたのでかなり意外だった。

そしてこの記録の最後が、比叡山が朝倉方についたための織田信長による比叡山焼き討ちで終わっていた。鎌倉時代以降も比叡山は相当武力を振るっていたことがはっきり認識できて、こんな状態だと信長も焼き討ちするしか手がない感じにはなるだろうなあとは思った。

寺社権門の実力行使とはつまり強訴だったわけで、それは「神輿に手を出さない」という約束事で成り立っていたわけだからそれを「無視」したら圧倒的な武力を持っていたら武家の方が勝つわけだが、信長以前は権力者によって「神威」「仏罰」を無視したものが罰せられていたということはあるのだろうと思う。婆娑羅の時代でも院を犬呼ばわりした武士は罰せられたわけだし、武家の側もそうした伝統的・宗教的権力の力を認めていたということになる。

「織田信長は言われているほど革新的ではなかった」というのが最近の流行だが、やはり信長のやった延暦寺焼き討ち」の持つ意味は大きいなと改めて思った。もちろん松永久秀による大仏殿の焼亡など先駆的な出来事もあるが、「国家の世俗化」つまり「世俗権力による宗教権力の圧倒」という意味は評価すべきではないかと思った。

「鎌倉幕府はなぜ滅びたのか」で延慶の強訴合戦の顛末を読んでると「嘘っ・・幕府弱すぎ・・・」とか思ってしまうのだが、六波羅探題は伝統的に北条氏が独占してきたのだけど、だんだん割の合わない仕事になってきたというのが興味深かった。

特に蒙古襲来後の神国思想の高まりで権門寺院大衆の強訴が活発化して、赴任希望者が少なくなったというのはへえっと思った。蒙古襲来はなまじ神風が吹いちゃったがために寺社権門が活発化したというのはへえっと思った。頑張ったのは御家人たちなのだが。

このように延暦寺が鎌倉幕府を恐れなかったのは、承久の乱の際、延暦寺は後鳥羽上皇の加勢の要請を断ったが参加した者たちはいて、勢田での戦いで北条時房を苦戦させた。乱後の処分においても、延暦寺の僧たちも重い処分のものは少なく、鎌倉幕府に屈したという感覚を持っていなかったというのはへえっと思った。間違った。


 

坂井孝一「承久の乱」も今必要に応じて読み返すとすごく面白い。これも「鎌倉殿の13人」の予習にもなるし。ちなみに承久の乱の決戦は2箇所、瀬田と宇治で、つまり宇治川を挟んでの戦いが重要だったわけだが、瀬田を攻めた大将が義時の弟の北条時房、宇治を攻めた大将が「鎌倉殿」では生まれたばかりの北条泰時で、彼の子息の北条時氏(時頼の父)も参加している。

この時幕府方が強かったのは直前に和田合戦という鎌倉初期最大の幕府内の内戦があったからだという指摘はなるほどと思った。実朝政権の時。

いずれにしても、延暦寺の武力は侮るべからずで、巨大な集団だけに内部抗争が起こりやすいが、朝廷への強訴などの際は「満山の合意」が成立しやすく、この場合では軍記物で「数万」の単位で軍勢が動員されるという。六波羅探題が通常動かせる軍勢は数千の単位だということで、鎌倉からの援軍や時間をかけた軍勢催促が行われない限り、六波羅探題には延暦寺を制圧できる武力はなかった、というのは鎌倉幕府末期の京都の情勢の認識が全く新たになった感じがあった。

この延慶の強訴の際に鎌倉から送られた六波羅探題は北条(金沢)貞顕だったが、金沢家は北条の各家の中で成立が比較的新しく(貞顕の祖父の実時が実質初代・「北条時宗」でピーターさんが演じたことが記憶に残っている)、幕府内で出世するためには六波羅探題を経る必要があったから、という指摘もへえっと思った。

鎌倉幕府の滅亡は建武の新政側から書かれているものしかほとんど読んでこなかったので、幕府の側から書かれたこの本はとても興味深い。またその経緯を北条高時の元服(1309年)から書き起こしているが、上記の延慶の強訴は1308年であり、幕府滅亡(1333)より25年、四半世紀も前から書き起こしているのでとても読み応えがある感じがする。この時代を知るには「承久の乱」(中公新書)と並んで強く推せる本だと思う。

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