幸福というもの

Posted at 21/10/26

夜中にはかなり雨が強く降っていて、今朝はどうなるかと思っていたが、もう大体上がったようだ。西の空が明るくなってきている。いろいろやることがあって忙しいのだが、天気によってやることが変わる部分もあり、しばらく晴れてくれるとありがたいのだけど。

昨日は積み残しの仕事をなんとか片付けて少し遠出をしようと思ったのだが、結局疲れてしまって割合近いところに出かけただけで済ませた。どうも疲れが残っていてついだらだらしてしまうところがあり、休みの日にはそういうところを解消したいのだが、仕事が残ってしまうと十分に休めないのだよな。

Twitterのタイムラインを見ていてフーコーとかについて議論されていたのだけど、私はどうもフーコーの哲学は何がいいのか分からないというところがあり、ただフーコーに影響された思想家や学者、またアーティストなどが多いのも確かで、そういう人たちの書いたものや作品の中には面白いものもあるのだけど、自分自身がフーコーに近づきたいかというと割と遠慮しておきたい感じがあって、まあなんというか彼の説くものに魅力を感じないということなんだろうなと思う。

自分はなんだろう、思想というものには人類を幸せにするというのがテーマにあるものには惹かれるけれども、あまりそうは感じられないものにはあまり惹かれないのだなと思う。それでは幸せとは何かということになるけど、とりあえずは「食うに困らずそれなりの生活ができる」ということからではないかと思う。政治の目標もそういうものであった時代が長かったと思うのだが、冷戦が終わった頃から「頑張った人が報われるべき」という新自由主義につながる思想が強くなってきて、「誰もが食うに困らずそれなりの生活ができる」ということに対して視線が冷たくなってきているなと思う。

「頑張った人が報われる」というのは悪くはないけれども、それよりも先に「誰もが食うに困らずそれなりの生活ができる」ということがあった方が良いと思うわけで、まあそういうものを政治の目標にしてもらいたいとは思う。

思想というものはドグマ化し、それによって同じ思想を持つ人たちの集団はカルト化しやすいわけだけど、「幸福」とかが思想の核にあるとよりそうなりやすいという傾向はある。保守思想というのは現実的であるぶんある意味醒めているのでそうなりにくいという面はあるけど、そこに他者に対する敵愾心のようなものが入ってくるとそこもある種の核になって人を惹きつけやすいという面はある。「敵を作るという方法」はマルクス主義からネット右翼、フェミニズムや小泉改革まで有効な方法として機能してきたけれども、そうした方法は社会や世界の分裂の種になりやすいという面もあるのでほどほどにした方がいいとは思う。

まあしかし幸福というものはこれが幸福だと定義すると陳腐化するものではあるので、まあ永遠に未定義状態のものなんだろうなとも思う。

月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday