歴史の中の循環的なもの:例えばタリバンの復活や疫病の流行

Posted at 21/08/19

生活をしている上で、循環的なものと片道的なものがあることを考える。

循環的なものというのは「〇〇家の四季」みたいな感じの話で、農事暦みたいなものというか、「ベリー公のいとも豪華な時祷書」というか、春になったらこうして、夏になったらこうして、秋になったら収穫、冬は準備の期間、みたいな感じの一年の循環、また朝起きてご飯を食べて仕事をしてご飯を食べてお風呂に入って寝る、みたいな1日の循環がある。

また、月初の仕事はこれ、給料日はいつ、月末に締めは何日まで、みたいな月毎の仕事のサイクル、火曜日から働き始めて土曜日まで仕事、日曜と月曜は休み、みたいな1週間の仕事のサイクルもあるが、それは多分に人為的なものだ。一日のサイクルと一年のサイクルは自然が避けようもなく繰り返し、人間の身体もそれに合わせて活動したり休息したりするようにできているが、1日と1年の間の差があまりに大きいので、というのは地球の自転速度と公転速度の関係がたまたまそうなっているというに過ぎないのだが、月の公転速度を利用した1ヶ月というサイクルや、聖書の記述という宗教的なサイクルを利用して、人間の活動の区切り方をより使いやすくしているということだ。

日本に1週間という制度が導入されたのは明治以降だが、それまでは五十日といって毎月五と十のつく日に休みにする、みたいな考え方もあった。現在でも会計や集金の締めをそのような日とする風習は残っているので、その日は銀行や道路が混雑したりするという現象も起こっている。それらは全て、人為的な取り決めの問題である。

片道的なものというのは、人が生まれ、育まれ、成長し、大人として活動し、家庭を構え、子供を育て、年老い、死ぬという個人にとっての単線的・片道的な時間の流れである。ただ、これも人間の種として考えてみれば、生から死までが一つのサイクルであり、それが何世代も、何百万年間も繰り返されてきた、とみることもできる。個体として考えれば片道・単線だが、種として考えればこれも一つの循環だと言えるかもしれない。

文明というものも、現代ではどちらかというと単線的なものと考えられていて、人間はどこまでも進歩していくというような感じに思われていると思うが、前近代ではそうではなく、文明や国家も勃興・繁栄・衰退・滅亡のサイクルを繰り返すものと考えられていた時期も長い。実際のところ、文明によってそのタイプの違いはあるが、栄枯盛衰を経験しなかった文明・民族はないだろう。

ただ、現代文明は記録の積み重ねにより過去になかったことがプラスされて知識は増える一方であるという観念に支配されている。そういう意味では、「記録や公文書等は文明にとって重要である」ということが比較的徹底されている文明だと言えるだろう。

そのようにして試行錯誤してきた歴史を現代文明は持っていて、だから滅びることはない、という感覚が広く共有されており、文明は循環はせず単線的に進歩していくと考えられているのだけど、だから逆にいうと歴史のなかの「循環的なもの」が現れるとそれに違和感を感じたり恐怖を覚えたりする感覚があるのだなと思う。

それは例えば「タリバン」の存在だろう。90年代にアフガニスタンを支配していたタリバンは、「テロとの戦い=文明による野蛮の掃討」により過去のものとなったと思われていた。それが20年の時を経て復活し、再びアフガニスタンを支配下に置いた。過去の亡霊、テロリズムの悪夢、原理主義の迷妄などさまざまな過去の亡霊が復活したように感じ、そうした歴史の循環への呪いがテキスト的にも溢れている。

こうした歴史の循環的なものを人が恐れるのは、つまりは「人は結局は進歩しないのではないか」という思いを抱かせ、単線的な人類の文明の進化に対して疑念を抱かせるところにその恐れの根源があるのだろう。

私自身は、人類はいずれ滅びるし文明もいずれは滅びると思うし、人間はそう簡単には「進歩」などしないし、未来を考えるだけでなく常に過去との対話が重要である、と考える方なので、「タリバンの復活」も一つのイベントにすぎず、人々がそれを恐れていること自体が現代文明の進歩信仰の現れだなと思うのだが、タリバン復活それ自体は循環的であってもこの20年の世界情勢の変化は単純な世界全体の繰り返しでないことは確かだと言えるだろう。

ただ、環境主義の「持続可能な成長」というイデオロギーやフェミニズムやポリティカルコレクトネス重視派の「人権は拡大していくべき」というイデオロギーもつまりは進歩主義思想の一つの現れであって、こうした歴史の循環的な部分の表れに対しては危惧を抱くのだろう。

また現代の新型コロナの流行も、過去に何度も繰り返されてきた疫病の流行という循環的な現象であり、欧米で「mRNAワクチン」という画期的な技術が開発されて接種が進み、ひとまずは流行を低減させられたことを殊更「人類の進歩の勝利」のように祝福するのも、そうした「歴史の循環からの解放」、「人間の業からの解脱」みたいな捉え方が背後にあるからなのだろうと思う。

保守主義の思想というのはつまりはそうした「進歩への夢」みたいなものを「ある種の妄想」であると切り捨てるものでもあるから、進歩派にとっては癪に障るものであろうし、「進歩への敵」のように認識されやすいものだろうと思う。

しかし、人類の時間は否定すべくもなく循環的なものに支配されている側面はあるわけで、それを見ようとしないこともまたある種の迷妄であると考えるのがより客観的な見方ではないかというふうには思う。

文明の大収縮は起こり得る。しかし、それを例えば「少子高齢化」の問題のように矮小化し、またそれを利用して緊縮政策を行なって格差が拡大する社会を作っていくという考え方は現代取るべき方策ではない。現代に生きる人々がより人間らしく生きられるようにすることが政府の役割なのであり、そうした観点から政策を実行していくべきだと思う。文明の大収縮が予想されるからといって、起こる前から身を屈めておく必要はないのであって、そうしたカタストロフの中でもいかにすれば人は人間的に生きられるかどうかを追求していかなければならないのだと思う。


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