「人新世」という概念を巡って考えたことなど

Posted at 21/05/18

篠原雅武「人間以後の哲学」(講談社選書メチエ、2020)を読んでいる。




まだ第一章の初めの方を読んでいるのだけど、前提となる世界認識が自分とは全然異なることにまず驚いた。しかしこれは、著者よりも私の方が世界認識がより前近代的、私の「自然と人間とでは自然の方が強くて当然」という世界観が、現代においてはよりマイナーな立場であるのかもしれないと読みながら思ってはいた。

著者はそれでも「人間が生きる場所としての世界」と「人間がいなくてもある場所としての世界」とを対峙させて、巨大災害や温暖化などにより前者の意味での世界が終わろうとしているときに、世界が終わった後でもそこに人間が生きていくための場所をつくるための哲学みたいなものを構築したいというのを目標にしているようだ。

人間がいなくても世界は成立している、というのは当たり前のように思えるし、人間の作った世界もいつかは崩れていくし人間の世界の外部からそれを崩しに来るものがあるというのはあまりに当たり前のように思えるのだが、著者はそれらをすべて哲学的課題としてとらえているように思った。

人の世界そのものを含め全てのものは結びかつ消える、みたいなのは仏教で言う空、縁起論で既に語られていることであると思うのだが、そちらの方には話は行かないようだ。

また、人の手によって地球環境が変えられているという考えに基づき、それらの傾向が強くなって後を地質学年代的に第4紀「完新世」に続く「人新世 Anthropocene」ととらえるという考えが提出されているようで、このことばは現代にマルクス思想を生かそうという「人新世の資本論」などという本の書名にもなっているわけだが、このあたりのところも私には強い違和感がある。

地質学的な年代、たとえばジュラ紀やカンブリア紀などが訪れ、そして終了したのはもちろん人間の影響では全くない。これからでも人間とは関わりの無いところで地球に彗星が衝突したりあるいは太陽活動に異変が起こったりして大変動が起こることは十分にあり得る。

だから一人人間活動の影響のみを取り上げて新しい地質学年代を立てようなどと言うのは非常に人間主義的な、ある意味神をも自然をも恐れぬ所業であるように思える。逆にいえば、その考え方自体が非常に強いイデオロギー性を持っていると言うべきだと思う。

チャクラバルティの議論を紹介しながら、この完新世の終わり、人新世の始まりの時期において、未来には人間は存在しないかもしれないという「終わりの感覚」の中で、しかしそれでも人間が生きているこの端境期の時空間をいかに理解するかが問題になる、とする。

これは我々の世代には記憶に新しい「終末論」の復活の感触があるわけだが、ノストラダムスの大予言やローマクラブの地球滅亡3分前などの「終末意識」と、「バイオレンスジャック」や「北斗の拳」を初めとする「終わりの後の世界」についての作品群をすぐに想起する。

これら、仏教や20世紀終わりの終末論とは異なる新しさがこれらの議論に本当にあるのか、ちょっと今のところ分からない。

立ち位置は全然違うが、なぜこんなことを議論するのかということ自体に強くひかれるものがあるので、どこまで緊張感を持って読めるかは分からないが、とりあえず読み始めた時に感じたことを書いておきたいと思った。

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