哲学というものについて考えてみた

Posted at 21/05/19

朝、車を運転して諏訪湖を一周してきたのだが、運転しながら昨日読んでいた「人間以後の哲学」について、読んだことや感じたことを考えていた。いくつも思うことがあったのだが、一つは哲学というものがなぜ生まれたのかということについて。

この著者は自分が感じていることをあまり前提無しに書いているので読んでいる私としてはまずこの人の立つ前提はどこなのかということを考えることから始めなければならなくなる。きっとこういうふうに考えるこういう人なんだろうという推測から始めるわけで、まあ書きながら考えてみるとこれは存外楽しい。

豪雨で電車が止まってしまうことにこんなに衝撃を受けているということ自体が驚いたのだが、こうした事物にいちいち衝撃を受けるのがある意味哲学というものなのではないかという気がした。デカルトもCogito ergo sumという考えに到達した時にずいぶん喜んでた感じだし、自然哲学のアルキメデスが浮力の原理を発見したときにEurekaと叫んだエピソードは有名だ。こういう衝撃を受ける能力みたいなものがある種の哲学者の能力であり、つまりはある意味まっさらな気持ちで世界を見ているということなんだろうなと思う。

ただまっさらと言ってもバイアスがかかっているわけで、そのバイアスがどういうものかというところを考えていかなければならないのだけど、「物自体」ということに拘っていることを読んでいるうちに少しわかってきたのは、これだけ言っているということはこの人は「物の存在」というものに不気味さを感じているんだということだった。

そして、それはおそらくその人だけの感覚ではない。つまり、哲学というものは「物」の存在というものに感じる「違和感」を探り、ある意味どうすればその違和感から、自分を取り巻く世界の不気味さから解放されるのか、どうしたらその不安から逃れられるのかを探究するための営為なのではないかということに思い当たったのだった。

逆にいうと、自分などはどちらかというと自分のいる世界は祝福に満ちている、という考えの方が割と強いわけだけど、これはまあ別に何か根拠があるわけではなくて、そのように考えるように自分を訓練した部分がある。つまり、ポジティブに考えた方が人間は生きていきやすいわけで、ある意味生きていくための戦略として「世界は祝福に満ちている」というテーゼを採用したということでもある。

このテーゼは例えば太宰治が「晩年」のなかで書いている詩。「生活」の中にも現れている。

生活

よい仕事をしたあとで
一杯のお茶をすする
お茶のあぶくに
きれいな私の顔が
いくつもいくつも
うつっているのさ

どうにか、なる。

この最後の言葉は「どうにかなる」という祝福を信じる気持ちとも取れるし、祝福にすがりたい気持ちとも取れるし、あるいは祝福を信じるという体をとって絶望を表現しているとも取れる。

祝福を信じるのが宗教であるが、その信仰が確立できていなければ人は迷いの中にある。しかし、祝福という概念がなければ、人にとって世界は不気味なその姿をそのまま見せてくることになる。そしてつまりその世界の、物自体の不気味さを克服するための概念が「物自体」という概念なのだろう。

これはザインとゾルレンという概念についても言える。ザインは存在、ゾルレンは当為であるが、人間がこの世に生まれて何も知らない時に、ある種の祝福に包まれた状態で世界を見た時、世界はこういうものだという祝福を否定するような現実が目の前に残酷に立ち現れるわけで、むしろ人間にとっては現実よりも想いの方が先に、つまり存在よりも当為の方が先にあるということが前提になっているのかもしれないと思った。

私は基本的に理系ファミリーで育っているせいか、人間にとっては観念よりも観察の方が先にあるという刷り込みがあるのだが、それは必ずしもそうではないのではないかということを考えていて思えてきた。つまり、観察が先にあるということを前提として物自体に対する理解を組み立てたのが科学であり、観念が先にあり、その観念にそぐわない現実、物、存在、空間と時間といったものをどうにかして観念的な世界で理解しようとして組み立てられたのが哲学である、ということなのではないかと思ったのだった。

私自身の幼い頃の記憶を振り返ってみると、一番古い記憶は一人で勝手に家を抜け出して近所に遊びにいき、ガキ大将みたいな子供たちにいじめられて泣いて帰ってきた、という記憶である。まあ、「家の中」はある意味祝福に満ちた世界であるわけだが、「近所」は自分には理解できない、祝福の外の人外魔境である。成長するにつれてその人外魔境も段々にある種の秩序が存在する世界であるということを理解して俳句が、やはり自分の感覚にとって「そうあるべき世界」であるとは感じられない。私は空想癖のある子供だったが、それは「こうだったらいいのになあ」ということを常に考えていたということでもあるなと思った。父は容赦なく(まあ父にとっては別にどうということでもなかったからだろうけど)現実というものを観察させ、あるいはそれに晒されることを強要(というほどでもないが)していった感はあるが、それは父が理系的世界観、存在から当為へという感覚の教育方針を持っていたからではないかと今考えると思う。

しかしこう考えてみると私自身は元々、当為とか祝福というものを前提として持っていた子供だったのだなあと思うし、それがそれを肯定的には捉えてくれない「現実はキビシイ」という教育方針、あるいは教育以前の世界のありようとしてそういうものの中で育てられて、まあこういう人間になってるんだなということを思ったりした。

仏教的世界観というものは空論にしても縁起説にしても結局は「物」というものからの発想を重視する即物的な部分が強くあるわけだけど、もちろん観念論も巨大に発達しているのでそんな単純なものでもないのだが、ただ仏教とか科学とか観察というものを前提とした世界の見方を叩き込まれる方向で自分が成長してきたということは確かだなと思う。

しかし、どうも最近そういう考え方自体に違和感が出てきたというか、現実を観察しそこから作戦を立てればうまくいくはずという考え方自体がどうも自分に合ってないのではないかという感じがだんだんしてきているところがあり、ここしばらくの全般的停滞が恐らくはそこに起因するものだということが今考えていてわかった。

この著者の「豪雨で電車が止まってしまったことに対する衝撃」というものが滑稽に思えたのは、逆に言えばそこに自分自身を理解する端緒が見えたからなんだろうなと今では思う。

ただまあ、この著者の考え方は当為からする発想が強すぎるなとやはり思うのだけど。

この著者の書いていることから考えると、我々のいる「世界」というのは「人間の作った秩序」のことをどうもさしているのだなと思う。つまり、人間が居住している世界は人間が秩序建てたものだから、その意味安心して生きられる。元々混沌とした、理解できないものに囲まれていた人間が自分たちの街を作り文明を作ることによって生活圏を広げ、より生活を便利にし、その意味で「物自体」や「存在」の不気味さに触れないでも生活できるようにしてきた。「世界が終わる」というのは、その秩序が崩れ去り、「物自体」や「存在」の不気味さ、逃れてきたものと否応なく接触する、場合によってはそれにより自分自身の生存が失われる可能性と直面するということなのだなと思う。

人間は営々と秩序を築いてきたわけだから、当然ながら「世界は進歩している」わけで、「進歩していることが当然の前提」であるということになる。つまり、「人新世」などという新しい概念が出てきたのは、人の世がもう進歩しないのではないかという不安の現れということになるのだろう。

世界がもう進歩しないかもしれない、というのは、それを前提として組み立ててきたリベラリズムの思想にとってはかなり痛手だろう。「今あるものを守る」「より少なく失われる」ことを目指すなら、リベラリズムよりもある種の保守主義の方が当然ながら有効になってくる。私は感覚はともかく思考としては存在の観察から作戦を立てて世界を建て直していけばいいと思ってきたから、リベラリズムや官僚組織がその前提としていた当為に対して「バカなんじゃないの」くらいの感覚があったわけだが、そういう物自体ないし現実を見ない思考形態、「今の理想をそのまま維持していけばいい」という考え方があまりに日本では強すぎるというのはこのコロナ禍において強く感じさせられた。

「理想を維持することが困難になる危機」というものを前提としない思考というものがあるんだということ自体を発見した驚きがあるわけだが、これはつまりこの著者の「豪雨で電車が止まることに対する衝撃」というものと共通するものなんだろうなと今書いていて思った。

そういう意味で言えば日本は怪しげな理念で動いているカルト国家みたいな感じもあるが、もともとが「現実に対応する力」を指していた「やまとごころ」「やまとだましい」が何故か「根性出せばなんとかなる」みたいになってしまったあたりに何か原因があるんだろうなとは思う。

フェミニズムが混乱してきているのも「男女は平等であるべき」というゾルレンから出発した思想が「女性の現実」「女性性という物自体」みたいなものからの発想が入ってくることによって起こってきているのだろうなと思う。BMLとかLGBT運動の混乱や暴力性のようなものもこの辺の「人間性という物自体」「制御できない人間というものの現実・不気味さ」みたいなものとの折り合いの付け方、もっと言えば哲学的な基礎がまだ形成段階にあるということでもあるのだろうなと思う。

まあ私はザインから考えることのみが正しいという考え方だったなと思うのだが、自分自身の内実をもう少し形のはっきりしたものにするためには、ゾルレンからの考え方みたいなものをもう少しきちんとやってみた方がいいなと考えながら思ったし、世の中の人の滑稽に見える考え方もその辺りからもう一度考え直してみたら理解も納得もできることが結構あるのだろうなと思ったのだった。


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