「いのちの大切さ」と「哲学的思考に対する不安感」

Posted at 20/11/07

「世界哲学史8 現代・グローバル時代の知」(ちくま新書)を読もうとして、最初の一ノ瀬正樹氏の「第1章 分析哲学の興亡」を読もうと思ったがどうも抵抗を感じ、その前に何かこの一ノ瀬氏の文章を読もうと思って探して「「いのちは大切」、そして「いのちは切なし」-放射能問題に潜む欺瞞をめぐる哲学的再考ー」をダウンロードして読んだ。

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf/Ichinose2015b.pdf

内容的には東日本大震災以来の福島の放射能問題をめぐる、「いのちは大切」という言葉の欺瞞性についての論考で、つまりは「いのちは大切」と言ってもそれは無条件絶対的に語られるべきものではなく、場合によっては相対的になるものだと断じ、「いのちは大切」と言って福島からの避難を強制するような言説によって多くの震災関連死を生みだしたことの重大性を告発するなど、うなずける点は多々あった。

つまり「いのちの重大性」と言うのは「全か無か」の問題ではなく、重大事故における救急医療のトリアージの問題に見られるように多かれ少なかれ量的に、ないし程度問題として考えなければならない部分があるものだということだ。これは「リスク」という概念の検討によってより明確化されているけれども、現在のコロナ禍で明らかになったように「感染のリスク」と「経済沈滞のリスク」は大きくトレードオフの関係になっていて、どちらかのリスクを限りなく小さくしようとすると他方のリスクが限りなく大きくなるという関係にある。そしてどちらのリスクも人を殺しかねないものであるから、どちらもゼロにすることはできないという宿命にある。

著者の書いている内容にはなるほどと思うところとそれはどうかなと思うところはあったのだが、基本的にはなるほど哲学と言うのはこういうふうに考え、問題の核心をえぐりだそうとするものなのだなと言うことは私なりに理解できたように思う。ただ、この文章の感想を書こうとして少し躊躇したのは、「そのように哲学的に思考することが本当に「良いこと」なのだろうか」、という疑問が浮かんだ部分があったからだ。

哲学と言うのは言葉を使って考えるものだから、言葉に大きく依存している部分がある。論理ももちろん言葉に依存しているものだから、論理は通っているのだけど、どうも何か納得がいかないという部分が出て来る。

実際に人間が生きる上で、こういう論理的思考はそういう感情的な、ないし情緒的・直観的不安みたいなものを断ち切るために使われる場面が多いように思う。私も考えていて、理屈は通っているのだがどうも納得しきれないというときに、「まあそれで行こう」になるために、特に集団で話しているときにはその論理的結論に従って合意するという方向で議論をリードしようとすることはままある。

ただ本当にそれでいいのかということに保証はない。結局のところ人間の知ることが出来るのは有限のことだし、人間の思考できる論理もおそらくは有限なので、それを超えたことなどいくらでも起こり得るわけだし、論理的にぎちぎちに詰めて策を練ったために帰って身動きが取れずに転倒してしまうことも珍しいことではない。

今まで実際の現場ではそういう不安や論理が貫徹できない状況に備えてある程度の冗長性を確保しておくことが普通だったが、最近の予算的枯渇によってその冗長性が確保できず、返って重大事故につながるケースもなくはないように思う。

そのような感じで、論理的思考とか哲学的思考とかにも、そういう罠があるように感じてしまうということなのだろうと思う。

先の「いのち」の例もそうだが、物事は実際にはオンオフや全か無かのデジタルで処理できることは少なく、量的な問題、程度問題が重要なことは多い。ただ人間は急進的になるとオンオフ的なデジタル思考に走りがちで、量的・質的・程度問題をスキップしがちになる。そしてその時の正当化に哲学や論理は使われがちで、そのためにこうしたものに対する警戒感が生まれると言う背景があるのだろう。

だから問題は哲学や論理そのものにあるわけでなく、実際には利用する側にあるということになる。これは核分裂そのものに善悪があるわけではなく、安易に利用して自分だけが利益を受け、他の人に被害を及ぼしてもかまわないという利用者側の倫理に善悪があるということにも通じる。

ただここで思い出すのは小室直樹氏の言で、仏教などの深遠な哲学を生み出し広い範囲で学習されたアジアは発展せず、ヨーロッパのみが発展した理由は何かという問題に行きあたるのだが、要はキリスト教的(一神教的)な善か無かの思想があるかないかだ、という指摘である。

全か無かの思想と言うのは言葉を変えて言えば二元論であり、全てを二項対立に還元する思考法だと言っていいだろうか。「我々」と「非我々=彼ら」に分類する思考であり、それは当然敵に対する容赦の無さにつながる。二元論の背景には本来は一元的思考があるはずだが、欧米人は不思議なくらい「我々と彼らは同じ人間」と言う思想よりも「我々と彼らは違う人間」という二元的思考が強い。東洋、特に日本では「一視同仁」だとか「草木国土悉皆成仏」などのように人間観でも、また人間だけでなく植物や無生物にまで同一視する思想が強いわけで、そのあたりの「境目の無さ」が思想的魅力でもあり、またある種の限界でもあるということはあるのだろうと思う。

私自身がそうした日本の思想、日本の考え方に魅力を感じてきているので、こうした二元的思想について学ぶことにおそらくは抵抗感がある、不安や恐怖を感じる部分があるのだということなのだろう。

ただまあ、そういうところを押さえた上でこういうものを読むということはおそらく意味のあることで、またそのあたりを含めて検討しながら「世界哲学史8」を読んでみたいと思う。




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