表現における公と私

Posted at 20/06/08

いろいろと忙しいので、朝のうちに更新。

一昨日ツイッターで書いたことがだいぶRTされて広がったのだが、忙しくて自分でも何が論点だったか忘れてしまっていたのだけど、言いたいのは制作意図は公のもので批判の対象になるものであり、作り手の趣味嗜好それ自体はプライベートなものなので批判したりあげつらったりするのはよくない、ということを言いたかったのだった。ただ、もし自分の趣味嗜好それ自体を制作した作品に反映するとしたら、それは公のものになるので、表現物それ自体は批判の対象になり得る。ただ、それを製作者個人の趣味嗜好やその人の育ち、文化背景等を根拠にして批判するのは妥当ではない、ということを言いたかったのだ。制作物に関してのパブリックとプライベートの境目はそういうところにあると思う。批判ないし議論されるべきは制作意図および制作された作品そのものであって、趣味嗜好や製作者のプライベートな背景ではない。

ただ公になった制作物を批判し議論するのは自由だけれども、それを公的な圧力を使ったり動かしたりして押さえこもうとすることには慎重であるべきだろう。ただ、「公然・隠然双方の、公的機関による、あるいは社会的批判としての形での権力による表現の規制」というものが現に存在する以上、そこでどのように規制されるべきかは議論されなければならないだろう。政治的なレベルでの問題や表現者の表現意欲・受け取り手の求め・社会的な容認のそれぞれのレベルにおいて現状がいかなるものかということは議論され、また検討し直されていくべきだが、現在はどちらかというと社会による規制の圧力が強まりつつある時期だなと思う。それは現状認識としてだが、今回はそれが言いたい主目的ではないのでこの点についてはここまでにしておきたい。

月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday