古典の実用性とか表やグラフの実用性とか

Posted at 19/09/28

忙しくて書くことがないときは日常雑記になりがちなのだが、日常雑記はプライベートに関わることや仕事の一つ一つに関係してくることが多いから書いていいことと良くないことの区別が難しく、創作とか政治的な議論とか書籍の内容の感想とかに比べて書きにくい面も多い。そういう意味では書こうとしているうちに世知辛い苦さみたいなものがこみ上げてきてそれで凹んだりしないようにしないとこういうところで文章を書く意味がなくなるのでちょっと面倒な面はあるよだよね。

昨日人と話をしていて(まあこのくらいまで状況をぼかさないといけない、みたいな感じだね)、自分がいつグラフとかを理解したか、ということを思い出していたら、小学校2年か3年の時に数学の初歩の子供向けの本があってそれを読んでいて、新幹線(当時新幹線は東海道新幹線しかないので新幹線といえば東海道新幹線だった)のダイヤグラムの話が出てきて、こだま号とひかり号の動きをx軸に時間、y軸に距離をとって駅の距離を時刻表で調べてグラフに落として(というか当時はx軸とかy軸とか認識していなかった)、(そういえば駅をy軸上に表せるということ自体に感動した覚えがある)各列車のスジを引いていく(ダイヤを書く人をスジ屋というのもその時知ったのかな)と、こだまが各駅に停車するのにひかりは東京から名古屋までノンストップなので、時刻表をただグラフにすると駅の間でひかりがこだまを抜くことになるが、下り線は一本しかないので駅の間で抜くのはおかしい。で、ひかりの速度(つまりグラフ上では傾き)を途中で変えて、新横浜までと新横浜からの傾きを変えるとちょうどこだまが駅に停車しているときに追い抜くということがわかり、実際にそうなのか国鉄に電話して聞いてみたら、「ばんざい、その通りでした!」とあって、へえ、そういう風にしてダイヤが組まれているのか(ダイヤグラムという言葉もその時知った)と感動した、ということがあったという話をした。

中学生になってからグラフに出会って(小学生でも比例と反比例はあるか)、それでまごつくことが多いみたいだけど、小学生から体感的にわかっていたらそうならなくて済むね、という話なのだけど、相手の人はやはり小学3年生くらいの時に作曲をしたいと思い、メロディ中に和音に属する音階と不協和音になる音階がどのくらいの割合で出てくるとどういう印象になるかという音楽理論から比例や関数を知った、という話を聞いて、やはりグラフや表の実用性を認識できているかどうかがグラフや表を積極的に書こう、使おうと思うかどうかの違いなんだなという点で話が一致した。

なんでもそうだが、役にたつかたたないかということは結構大きいことだなと思う。

ツイッターで古典が学校教育の国語教育の中で必修にしておく必要があるかないか、という議論を読んでいて、私などは必要に決まってるじゃないかと思うのだが、それはなぜかというと「古文書が読めるから」という「必要性」にだいたい還元されるなと思った。古文書を読むためにはもちろん歴史的仮名遣いや昔の感じの書体、ちゃんと読むためには変体仮名や散らし書きに至るまで、勉強しなければならないことは多く、それは高校の古典の範囲を超えているけれども、でも高校で古典をやってなければそのための勉強のスタートも切れない。

私が古典に属するものを最初に読んだのは、子供向けの翻案だけど古事記に出てくる神話の話で、ウガヤフキアエスノミコトとかヤマトトビモモソヒメノミコトとか不可思議な人名や神の名が出てくる話が好きでもっと理解したいと思ったのが初めだった。これは読んでいくうちにいくら勉強してもそれを理解するのはなかなか難しそうだとわかって興味は移り変わり、小学校の図書館になぜかあった漢文の和綴じの「史記」に目をつけ、開いてみると漢字だらけだが、返り点と送り仮名を使って読めば読めるということを発見して興奮し、その時点で「漢文なら読める」と思ったことが大きいなと思う。まあもちろんそれは子供の理解なのだが、「読もうと思って頑張ればこの漢字だらけの本が読めるんだ」と知ることはとても大事なことだったと思う。

国語教育にしても英語教育にしても、語学教育の究極の目標の一つは、「この世にある文書はどんなものでも読むことができる」と思えるようになることだと思う。つまりそういう意味での実用性だ。ビジネスに役立つとかそういうのもいいけど、それ以前に「ちゃんと読める」ことが大事なわけで、その辺の大前提をみんな軽視しすぎなんじゃないかと思う。

まあそういう意味で、すべての教育は「実用性」のある教育だし、人間が人間としてできることを増やしていく、人間が生み出し作り上げたものを読み取り受け継ぎさらに発展させていくのが教育の本旨の一つなのだから、古典教育なんてもっとも人類にとって必要なものなんで、あって当たり前だとは思う。

やはりツイッター上で、完了の助動詞の「つ」は能動的、「ぬ」は受動的に使われる、というツイートがあってこれはなるほどなと思った。ちゃんと理解してなかったが、そう考えると助動詞が二つある意味がわかる。

森鴎外の「舞姫」の書き出しに「石炭をば早や積み果てつ」という表現があり、なぜ「ぬ」でなく「つ」なのかという疑問がずっとあったのだが、自分でやったわけではないにしろ誰かがやったんだ、という感じで能動になってるんだなと考えれば意味が通るなと思った。

まあそんな感じで、すべての学習は実用性の問題は絶対あると思ったという話です。

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