キモチップとナルシシズム

Posted at 19/05/24

全国的には暑いらしいのだが、あまりそうは感じず、今も暖房をつけたり消したりしている。日中も、セーターを着たら暑いけどベストだと少し腕が寒い、というような感じ。割と不思議な気持ちで初夏の猛暑のニュースを聞いている。

とはいえ季節は移ろい、花も次々に盛りを迎えては、次の花にその艶の盛りを譲っていく。そろそろ花菖蒲が美しい季節になってきた。郷里の方では、そんなに花菖蒲が見事な場所はないのだけど、東京に行けば近くの公園に見事なところがあるので、それを楽しみにしたいと思う。

昨日はどうも朝に自分のペースを失うようなことがあって、そのあといちにちうまく回転しなかった感じだったのだけど、今朝は昨日のことを考えて、なんでそんなにアワアワしてしまったのだろうと思ったりしていた。やりたいことがいまひとつやれてない感じ、というか疲れが出た感じがしていたこともあって、このところ自分が持っていたビジョンに頼ってしまう感じがあって、そのビジョンそのものを揺さぶるような出来事があったのでどうもなんだかアワアワしてしまったのだろうなと思う。体調もイマイチだったのもあるし。

今朝はやや睡眠時間は短い感じがするが、割合スッキリと起きられて、多分まあちょっとまたペースが変わったのだろう。今日は松本に出かけて体を見てもらうので、そういう気持ちと体の整理の仕方ができているということもあるのだろう。

夜、ネットを見てたら「キモチップ」という話題で私のタイムラインが沸騰している感があり、色々読んでみて思ったのは、ナルシシズムというものをどのように扱うかという問題だなということだった。20年くらい前か、「ナルシシズムという病い」という本を読んでから、ナルシシズムというものは自分にとって一つの自分を見つめるテーマになっているのだけど、自己肯定感が変な方向に行くとそうなる場合もあるし、また自己評価が極端に落ちている場合に反転してそうなってしまう場合もあり、要は「イタい」とか「キモい」と後から自分でも思うような状態になる場合がある。それが自己認識だけならいいのだけど、ネットでものを書いているときにそういうものが表に現れたりすると多くの人にそのヤバさが伝わったりしかねず、そのあたりは自戒しなければと改めて思った。




自己表現を仕事にする人には、多かれ少なかれナルシシズムはある場合が多いし、場合によっては反転して自虐的な形でナルシシズムを表現しているんだろうなあと思うこともある。ただそのことを自分でどこまで自分を見られているか、自己を透徹して見つめられているかというのは結構重要で、それができていないと本当にただキモいだけ、痛いだけになってしまう。

作家で強烈なナルシシズムを感じる人といえば私は石原慎太郎さんなのだが、ただ、彼の場合は自己に対する深い絶望のようなものも感じられて、それが彼の表現を表現として成立させている部分が大きいように思うことがある。何が自分の表現を成り立たせているのかを自覚しているかどうかが表現が強靭であり続けるためには必要なことなのだと思う。

村上春樹さんの場合は、村上龍さんの場合は、またそれぞれの新しい人たちの場合は、と考えていくと色々あるが、歴史物を書く人達とかにしても、結局そのあたりの自覚が中途半端な人の作品は、あまり読んでいて面白くない。

まあそんなことを考え始めると自分の表現を成り立たせているものは何か、というかまああんまり成り立っていない気もするが、成り立たせることができるとしたらどういうものが根拠になるのか、みたいなことを考えてみたくもなってくる。

まあそんなこともまたそのうち書いてみようと思う。

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