過去との接続/得られるものは、自ら求めたもの/心の裏側系ブログ/金縛りを防ぐ

Posted at 14/01/14

【過去との接続】

このエントリは、丸善日本橋店のカフェで、初めてMacBook Airを使って更新を試みたもの。こちらからの転載。

先ほど欲しい本を探していて、何を読みたいのかと考えてはたと困った。正直なところ、特に読みたいものがないのだ。

書きたいこと、というか書きたいという意欲はあふれるほどある。何を書きたいのかと考えてみても、とりあえずこれというものがないのだが、これを書こうということを決めたらいくらでも書けそうだ。

ここのところ、ブログの過去ログから記事を広い、ブラッシュアップして更新することが続いているので、頭がそうなっているのだろうか。

いや、昨年読んだ本を見てみても思ったが、なんというかあまり自分の中に入力したいという感じがないのだ。

こんな風に、新しいものを導入して新しいものを作っていきたいという感じはある。しかしそれが、本を読んでそれについて書く、ということではないのかもしれない。

丸善にきて、結局買ったのは今年のカレンダー(フランク・ロイド・ライトの建築)と、別冊太陽の川瀬敏郎の生け花の特集。花の見方、いのちの流れのとらえ方、みたいなものをブラッシュアップするためにこういうものをみなければという感じなのだ。

今感じるのは、そういうブラッシュアップの必要性だ。自分の中の整理も完全には終わってないが、整理しながら感覚を新たにしていく必要性を感じている。

とりあえずこんな内容を書いて、初更新としてみた。

こういうモバイルによる更新に私はこだわってしまうところがあるのだが、それはどこかでも書いたけれどもずいぶん前になるがモバイルギアを買ってモバイル更新にトライした経験があるからだ。まだブログが出てくる前だから、10年くらい前のことだろう。結局あのガジェットは不便ですぐ使い物にならなくなってしまった。

どうもあのときのトラウマのようなものがあって、モバイル更新に今まであまりトライできないでいたのだが、MacBook Airはそのトラウマを解消してくれるだろうなと思う。もうそんなこと、普通のことになってしまったのだけど、技術が不十分なものが新しいガジェットに挑戦してヤケドする、そんな羹に懲りて膾を吹く結果になってしまった。失敗したのも滑稽だが、新しいものに手を出せなかったのも滑稽なんだよなあと思う。


【得られるものは、自ら求めたもの】

花に習う (別冊太陽)
川瀬敏郎
平凡社

久しぶりに、生け花の本を買って読んだ。『別冊太陽 川瀬敏郎「花に習う」』(平凡社、2007)。丸善で、何も買いたい本がなく、それでもいいかと思って立ち去りかけたとき、ぱっと目に入ってきたのがこの本だった。

以前少し生け花に凝った時期があって、とはいっても自己流なのだが、でもその時もきっかけになったのは川瀬さんの本だったと思う。白洲正子さんの対談で川瀬さんが何度か話をしていて、ああ、花を生けるということの本質に迫っている人なんだな、と思ったことがあった。

最近はずっとそういうものからは離れていたのだけど、ここの所新しいブログをいくつも作っていて、書いているうちにもっと書いていない自分の裏側というか、表に出していない方の本質というか、そういうものを書く場所をつくる必要があるかもしれない、と考えたりしていたのだ。

表が本質でないかというとそういうことでもない。人間の本質というのはどういうふうに光を当てるかで、表からと裏からでは違うように見えるだろう。もっと魂の奥にあるような衝動とか方向性のようなものをそのままぶつけたような文章を書かないといけないのではと漠然と思っていた。

この本を丸善のカフェで読みながら、ああ、いま心掛けるべきはそういうことだ、と思った。

得られるものは、求めたものだ、ということ。

だから何を求めるか、がすでにもう答えなのだ。

花で言えば、侘びを求めれば侘びの境地が得られる。喜びを求めれば華やぎが、厳しさを求めれば凛とした孤高の存在感が得られる。求めるべきは価値観だろうか。いや、違う。侘びは価値観ではなく、世界だ。求めるべきものは、世界なのだ。どんな世界がそこに現出すべきか。世界を、求めなければならない。望まなければならない。

陽春の椿の楽しみ方、それは一花三葉とか一花五葉とか、それなりの形があるようだ。次に梅。梅はその枝の形を喜ぶ。形の良い古い枝と、勢いよく伸びる若い枝。

そして次に語られるのが「凡庸な花」だ。凡庸な、という言い方に唖然としたのだけど、具体的には万作、花水木、木瓜などのことで、素朴で野暮ったい花や枝なのでそういう言い方をしているのだそうだ。そういうお花における「凡庸な」花をどう生かすか。それは「細工をし過ぎない」ことがいいのだそうだ。人のいい素朴な人を弄り回すとだめになってしまうのと同様、小さく切り刻まないで形の良いものを生かし、他の素材を使って引き締めることでそのおおらかな良さを楽しむ。いろいろな意味でなるほどと思う。

何を求めてブログをつくるのか。ブログをつくるのも、それがすでに答えなのだということを理解しておかなければならない。

(このエントリは、こちらに掲載した記事の転載です。)


【心の裏側系ブログ】

昨夜はすごく眠くて、しかし頑張ってとりあえずブログを6本更新し終えて寝た。今やっているブログはこの「Feel in my bones」と、amebaでマンガ・アニメ記事を更新している「個人的な感想です」、はてなで三つ「史読む月日」(時事・歴史)「私のジブリ・ノート」(そのまま)「Eyes and Wind」(アート、小説、音楽、映画)それからgooブログで今までTwitterの過去ログを「ついろぐ」的に掲載していたのに、どちらかというと好みが分かれる類の話(裏側系というか、たとえば自己啓発とか、東洋的身体観とか、神秘系とか)を書いていこうと考えている「Feel in my bones and Twitter」の6本になる。

これは、自分がここのブログで書いていることはあまりに多岐に別れるので、方向性を持ったブログに切り分けて行こうという考えで試みている。そうやって切り分けて行った結果、いくつもブログが出来たのに何か物足りない、書くべきものが書けてない気がして、それを考えていたら私という人間のSunnySideというか顕教系のものばかりになってしまって、私という人間の心の裏側、MoonySideというか密教系のものがないからだということに気がついた。

ただ正直言って、こういう内容はこのブログに書くと一気にアクセスが減るので、どうしたものかと思っていた。でも書くからには読んでもらえるのに耐えるものにしたいし、であるならばある程度は読みに来てもらいたいと思う。

ということで、今まで半分休止状態のようなものだったgooブログをそちらに充てることにしたのだ。そういう形で運用してきたとはいえ期間的には2005年からやっていて一番古い。また現在お読みになっているこのブログもgooの内容を移植したところから始めている。そんな歴史があるので常にある程度のアクセスがあり、これは生かしたいと思ったのだ。

何というか実際、この新しいブログでは「癒す・休める」、「元気にする・活性化する」、というような内容が中心になるだろうなと思う。そのために過去を蘇らせたり、未来像を描いたり、まあいろいろなことが起こることになるだろうと思うけれども。


【金縛りを防ぐ】

昨日はとにかく最後まで更新し、倒れるように寝たからか、しばらくして金縛りっぽい気配を感じたので、一度起きて改めて寝るときに枕元に小さい明かりをつけて寝た。その金縛りは私のどこかが深い暗闇を感じてそれに反応して起きているような感じがしたので、完全に暗くならないようにして寝たのだ。それは正解だったようで、起きたときには割合すっきりとおきられた。とはいえ、5時半に目を覚まして床を離れたのは6時になっていたのだけど。

モーニングページを書いて、ごみを捨てて、風呂に入り、朝食をとって、合間合間でブログを書いていた。川瀬さんの本について書いていて、そういえば私は別冊太陽で川瀬さんの本を買ったことがあったなということを思い出し、書棚を見てみたら全く同じ本だった。(笑)

この本は2007年刊なのだが、ブログで検索してみると2009年に買っている。それにしてもこんなに大きい本が印象に残らないものかと思うが、自分の中のいけばなブームの時期の、たぶん終わりごろのもう気が散り始めていた時に買ったんだろうなと思う。今読むと深い感銘を受ける記事がいくつもあるのだが、5年前にはまだそういうものが感じられなかったんだろうなと思った。

とりあえずこれは田舎に持って帰り、田舎においておいて折に触れて読むことにした。

ところで、いつでもこうすれば金縛りは防げる、というわけではないと思う。原因も様々だと思うので。ただもしなってしまったら、とりあえず頑張って声を出す、というのが今までの私の経験ではとりあえず逃れられる方法なので、まあ参考になるかどうか。

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