身体の中の虚空/taffy:意識が絡め取られるサウンド/Trickster Age : センスのいい雑誌は新しい才能の活動の結節点になる/ふみふみこインタビュー:周りに合わせる自分への嫌悪

Posted at 13/07/03

【身体の中の虚空】

「快楽」は体にいい: 50歳からの免疫力向上作戦 (新潮文庫)
帯津良一・幕内秀夫
新潮社

まだ万全とはいえないが、体調はだいぶ良くなってきた。月曜日の夕方に日本橋に出かけて買ってきた帯津良一・幕内秀夫『「快楽」は体にいい』(新潮文庫、2013)を読む。簡単に読めて、そう新しいことが書いているわけではないけど、ホメオパシーやプラシーボについて少し考えることがあった。でも自分にとって一番インスピレーションを受けたのは身体の中には何もないスペースがあるという、考えてみれば当たり前のことだった。その空間に満ちている気、というのがすごくイメージがはっきりする感じがして、自分の中に虚空が存在する、という感じが具体的に物質的な根拠を与えられた感じがした。頭というのは基本的に脳が詰まっているけれども、身体の中にはある意味さまざまなものが自由に動くスペースというか虚空のようなものがあり、それが人間の外にある大きな虚空とつながっている、というイメージが、自分の身体に対するイメージをより豊かなものにしてくれる感じがした。


【taffy:意識が絡め取られるサウンド】

Caramel Sunset
taffy
Club Ac30

昨夜仕事を終えて帰って来るとイギリスで活躍中の日本人バンドtaffyのアルバム、『Caramel Sunset』が届いていて、寝る前に聞いた。すごく広がりのある音で、聞いているとわくわくして来る。プラスチックスとかヒカシューとかの音を思い出す部分もあり、最近のアンジェラ・アキのある種の曲を思わせる部分もあり、全体に不思議なドライブ感があるのがいいなと思ったのだが、今朝車で出かけるときにかけていて、聞きながら「これはまずい」と思った。何というか、音の中に全体的に包み込まれてしまって、車を運転しながらトリップしてしまう。車を運転するのにちょうどいい音楽というのがあって、それはどちらかというと高音中心でのびやかな気持ちの良いカリフォルニア系の曲とかバロックとかということになるのだが、taffyのサウンドはそういうものではなく、幅広い音域からこちらに攻めて来るので、特に低音と中音の間の厚みのようなものに、意識が絡めとられてしまう。グレゴリアン・チャントなどをかけていると音楽を楽しみながらも運転に意識を集中できるのだが、taffyの曲は聞いていると運転などどうでもよくなってしまう感じがあり、これはカーステには向かない曲だなと思った。侮れない音だ。


【Trickster Age : センスのいい雑誌は新しい才能の活動の結節点になる】

今朝は先に懸案になっていた仕事を片付けてしまおうと役所に提出する書類を書いたり銀行に行っていくつか事務的な仕事を済ませたり、代金を支払いに隣の街まで車を走らせたりして、帰りに本屋で週刊誌を立ち読みしたり、朱肉と押印のためのゴムシートを買ったりした。立ち読みした週刊ポストで一番おもしろかった記事はジュリ・ワタイというフォトグラファーの記事で、つまりコスプレをして自分で撮った写真を作品にしているのだが、キュートでキッチュで何か繊細な新しいセンスを感じた。

Trickster Age Vol.3 (ロマンアルバム)
徳間書店

それからあるかなと思って探してみた『Trickster Age』(徳間書店)という雑誌がツタヤにあったので買った。これはふみふみこのインタビューが載っているということをふみふみこさんのサイトで読んだので買ったのだけど、音楽雑誌かと思ったらそれに限らず、「新しいアーティストが生み出す新しいエンタテイメント」と銘打ってあるように、バンドもマンガもコスプレイヤーもニコ動活動家もひとことで分類できないことをやっている人たちもいろいろ取り上げていてそれぞれがかなり面白い、魅力的な雑誌であることが分かった。

以前なら、というか私がこういう雑誌を主に読んでいた80年代なら、記事を読んでも実際にどんな活動をしている人なのかそれ以上知ることはできなかったわけだけど、今ではその人の活動を簡単にウェブで知ることが出来るというのは大きい。実際に聞いてみて、見てみて、それがどんなものかを自分なりに判断することが出来る。そういう意味ではすごい時代になったと思うのだが、逆にそうであるからこそ、こうした雑誌がそういう人々の結節点として働く働きは無視できないものであると思った。われわれが80年代に読んでいたそういう雑誌は何号か出てすぐ休刊廃刊、ということが多かったしこの雑誌も一体いつまで続くのかは分からないがなにしろ国民的コンテンツを生みだすスタジオジブリを抱え、年齢性別に限られない読者層を対象にしている『コミックリュウ』を出している徳間書店であるだけに、何か考えられないような面白い展開が起こる可能性もある。

シラカミマシロという人の作ったボカロ曲のMV『始まりの庭』を見たり、農業とヘヴィロックの融合した「大凶作」というバンドのPVを見たりしていると、それぞれに面白く、魅力的で、ああ、現代の才能というものはこういうところにいるのだなあと思う。オーソドックスなシーンでももちろん新しい才能はいなくはないのだけど、こういう混沌としたものの中からさまざまなものを拾い上げる雑誌というメディアは、いまだに侮れないものがあると思った。

見ていると本当に、きらめくような才能をただ惜しげもなく蕩尽している、そんな感じがする。われわれのころだと開かずに終わったんじゃないかと思われるような一人の人間の音楽的才能・美術的才能・文学的才能のようなものがそれぞれ惜しげもなく自由に野放図に玉石混淆で形になって行く、ただそれだけにそれが溢れただけで育たずに終わるという一片の危惧もまた感じさせるのだが、そうした贅沢な輝きが現代という時代には溢れているのだなあと思う。


【ふみふみこインタビュー:周りに合わせる自分への嫌悪】

ふみふみこさんのインタビューは、これもまた期待以上。すごくイメージの湧いてくるものだった。ふみふみこさんの作品世界の人間同士の距離感というものは、基本関西的な、人と人との間が近い感じというのがすごくあるのだけど、そういうものは伊藤重夫の『チョコレート・スフィンクス考』を読んだときに感じたものに近い。伊藤さんは神戸、ふみふみこさんは奈良だけど。

周りに合わせている自分が嫌で学校に行かずに大阪環状線を何周もしたとか、ブックオフで一日過ごしたとか、そういうのはすごくよくわかる。女の子らしくなるのが嫌で制服の下にトランクスをはき、ブラジャーをしないでバンドエイドを貼ったり、髪型もスポーツ刈りみたいに短くしたりしていたのだという。恋愛対象は男でレズビアンでもなく、つまりは「求められるような女の子」像を演じている自分に耐えられない、という感じはすごくよくわかるなと思った。私も常に自分の見られ方から少しずらす立ち位置、少しずらすファッションを好んでしていたし、状況が許さなかったから女装をしようとまでは思わなかったが、そういうことに対する関心は常にあった。それは女の子になりたいとかそういうことよりも、男子だからってこうしなければいけない、ということ、子供は子供らしく、男の子は男の子らしく、みたいなことにどうしても納得できないものがあったからだと思う。

「ぼくらのへんたい」ではじめてマンガを書いていて楽しいと思った、というのも少し意外ではあるけどそうだろうなあ、とも思った。『女の穴』も面白くはあったけど少し緊迫感があり過ぎで、書いていて消耗する種類の作品だろうと思ったし、「こういうものを面白いと思っている読み手」に合わせて描いていたんだろうなと今にして思う。『女の穴』は読んではいたけど、ものすごく好きということでもなかったのだけど、『ぼくらのへんたい』はやはりもうどうしようもなく好きな部分がある。インタビューによると『ぼくらのへんたい』は恋愛マンガであり、「かわいい男の子たちが悲しんでいるファンタジー」なのだそうだけど、まあそのまんまなんだが、でもやはりそれに収まらない何かがあって、その収まらなさがふみふみこさんの作品の力であり魅力であり特徴なんだと思う。

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by Luke Peterson

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