宮崎駿と小林よしのり/『風立ちぬ』とダーク・ツーリズム

Posted at 13/07/25

【宮崎駿と小林よしのり】

『風立ちぬ』についていろいろ書きたい、という感じがすごくあるのだが、しかしながら書く材料が不足している、という感じもある。また、まだ公開間もなく見ていない人が多い段階で書くべきでないということもかなりあるし、この意見は納得できないという多くの意見に対しても、はっきりと見解の相違みたいなこともあって、そうなるとその背景の立場の違いのようなものを書かなければ意味がなくなるから、そう軽々には書けない、ということもある。逆に言えばそれだけこの作品の射程が長いということで、語られるべきことがもともととても多いということなのだ。

かなり多くの部分は、現代の日本人、ここ数十年の日本人が見ないようにしてきたこと、知らないふりをしてきたことを、もう一度思い出した方がいいのではないか、本当は昔の日本人の方が、今のわれわれよりも美しかったんじゃないかということにあって、おそらくはその評価に対する戸惑いというものがあるのだろうと思う。つまりあの宮崎駿が、たとえば小林よしのりみたいなことを言っているという戸惑いなのだ。

もちろんこの作品で、宮崎は小林のように昔の日本人をストレートに称賛しているわけではない。しかし何も言わない、主張しない普通の人々の、そのあり方の美しさ、たたずまいの美しさ、心根の美しさを描いているのだから、思想的に言っていわゆる左翼の側に属する人々の、強力な心の支えのひとつだった宮崎を、どうとられていいのか分からなくなっている人は多いのではないかと思う。

しかし思い起こして見れば、日本の左翼というのはもともとある意味矛盾に満ちた存在で、自由平等民主は唱えても天皇は尊いものと考えるのはまったく珍しいことではなかった。宮崎本人が天皇制についてどう考えているのかは別にして、彼はそういう古いタイプの、新左翼出現以前のオールドリベラリストの系譜を引く表現者だと考えるべきなのだと思うし、彼が実はこれだけ多くの国民の支持を得ているということは、日本人が最も支持したい心情的な思想はオールドリベラリズムであったと考えるべきなのではないかと思う。

オールドリベラリズムは、思想的には洗練されていないし、何というか半分日本の土着の思想みたいなところがあって、68年の世代から徹底的に攻撃を受けて壊滅して行った、もう残滓のようなものだと思ってはいたけれども、でもやはり私はそれをとても好ましいと思う、そう言う思想なのだと思った。

私は長い間、宮崎駿を戦後民主主義の表現者だと思ってきていて、そういう意味で敢えて見て来なかったのだけど、一度見てしまうとその言説はともかく、作品内容はそんな甘いものではないということは理解できた。しかし今まであまりよくその本質は分からないできたのだけど、言わば戦前的な自由主義思想が彼のベースにあると考えるといろいろなことがとても了解できる気がする。

日本が豊かだ、というのはある意味虚飾であって、日本は貧しい国だという本質が、たぶんそんなに大きくは変わっていない。ただ彼が描くのは『火垂の墓』のような陰惨な貧しさではなく、ひもじくとも人に恵んでもらうことを拒否する、そういう誇り高い貧しさだった。その貧しさの中で生きていた人々は、生きていること自体が奇跡であり、恵みであり、いつ死ぬか分からないことがデフォルトの中で、その許された短い時間の中で、(作中でも生産的な時間は10年だとか、結核の菜穂子が私たちには時間がない、という場面がある)いかに懸命に、自分が最大限納得できるように生きるかというテーマが示される。その中で生きている人々は、間違いなく美しい。

こうした匂いを感じさせるのは、たとえば白洲正子がそうだった。彼女は旧華族家の跳ね返りでどうじたばたしても生きているという実感をつかめずに、親を驚かせる結婚をしたり、女性で初めて能舞台に立ったり、自分が本当に生き切るためにはどうしたらいいのか、悪戦苦闘を続けていた。それが小林秀雄ら文学者との出会いで生きる道を獲得して行くわけであるが、戦中の彼女が、隠棲していた鶴川の武相荘に人が訪ねて来る度に、「この人と会うのはこれで最後かもしれない」と思い、自然に和やかな雰囲気になった、ということを書いていて、特に菜穂子と二郎の間にあった思いは、常にそういうものだったのだろうと思った。

生きるということは、生きてるということは、まず「死なない」ということであって、でもそれは、「死ぬかもしれない」という紛れもない現実に裏付けられている。だからこそ、ただ生きるのでなく、よく生きようとする。それはソクラテスの思想であるけれども、その「よく」というのをどう解釈するかは、その民族性・国民性によって違うのだろうと思う。日本人の場合は、より美しく生きたい、と思った人が多かったのではないだろうか。

より正義を実現するために、より勇気を持って勇敢に、よりこの世を楽しんで、というさまざまな基準と同じように、「より美しく生きる」ということもまた「よりよく生きる」行き方のひとつだろう。そして、より勇敢に生きるという思いもそれを人に押し付ければ迷惑であるように、より美しく生きる、ということも押し付けるべきことではない。人は自分の生き方を自分で決めるべきであって、であるからそこに必然的に伴って来る苦さもまた、引き受けなければならない。

そしてそれは、当然傷つくことだろう。宮崎駿が庵野秀明を二郎の声にした理由を、宮崎はアニメージュの対談で「現代で最も傷つく生き方をしているから」と説明していた。

アニメージュ 2013年 08月号 [雑誌]
徳間書店

私もそういう目でこの役を見ていたので、見終わってからネットで「二郎はロボットみたいで感情が感じられない」という批評があったことにびっくり仰天してしまった。

その認識の齟齬がどこから起こったのかについては岩崎夏海がツイッターで分析していたが、やはり「世の中にはいろいろな人間がいて、いろいろな生き方をしている」ということが分からない、受け入れられない人が増えている、ということが一番大きいんだろうと思う。

正直私などは、二郎以上に人間的な人はなかなかいないんじゃないかと思って見ていた。よくわからないけれども、感情の奴隷として生きているような人間が人間らしいと評価されるような時代に私たちは生きてるのかなとも思うし、ただそういう人が声高なだけで、多くの人は寡黙な中に、菜穂子への愛をもって、自分の作りたい美しい飛行機を作るためにただひたすらに邁進して行く二郎というキャラクターに人間らしさを感じることが出来る人の方が多いだろうとも思う。

小林よしのりは思想家だから(と言うと彼は否定すると思うが)、在りし日の日本人の美しさをベースにしてこの日本を立て直すべきだと主張するし、小林に反対する人たちは戦争の意図やさまざまなものと十把一絡げにして昔の日本人のあり方そのものを否定しようとする。宮崎はクリエイターだから自分が美しいと思うものをそのまま描きだし、そしてそれが大きな苦さの源になることもまた、引き受けようとする。


【『風立ちぬ』とダークツーリズム】

チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1
ゲンロン

思想家は、苦さを苦さのままにしていてはいけない、と考えるのだろう。悲しさを悲しさのままにしていてはいけない、と。高橋源一郎が朝日新聞の論壇時評に『風立ちぬ』を見ることは、東浩紀や津田大介が行ったチェルノブイリ原発へのツアーと同じ、「ダークツーリズム」だ、という言い方をしている。戦後の世界に生き、東日本大震災後の、福島原発事故後の現代に生きる私たちは、多くの意味で「苦い思い」を共有しているだろう。それを必死に無視しようとしたり、振り払おうとしたり、なかったことにしようとしたり、見ないようにしたりしている人たちもいれば、それを過剰に恐れ、恐怖している人たちもいる。しかし、どういうポジションでそれに向かいあうかということ以前に、「苦い思い」を共有しているという事実を、押さえるべきだという考え方は理解できる。

しかし、やはりそれでは『風立ちぬ』の見方としては痩せ過ぎなのだ。美しいものを美しいものとして描きだし、つくりだして行く。その人間の営みは誰にも止めることが出来ないし、苦いのは決して戦争だけではなく、原発だけでもないのだ。

この映画は、「福島後」という現実を踏まえて作られた作品であることは間違いないけれども、だからと言ってそれだけのために作られたと考えてしまえば射程が短すぎる。人一人にとっては人生とはそういうものだということを知ることそのものがその射程であり、社会的にはよりよい生き方を求めて苦闘し、なおかつ苦さをも引き受けなければならない、本当に多種多様な人間がいて、批判も共感もその深さから発することでこれからの未来を構想して行く、そこまでの射程を持った作品だと私は思った。

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by Luke Peterson

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