堀越二郎『零戦』を読んでいる:昭和12年の日本と宮崎駿の「戦前」/「生きねば」というメッセージをどう考えるか:個人が生きることと日本が生きること

Posted at 13/07/26

【堀越二郎『零戦』を読んでいる:昭和12年の日本と宮崎駿の「戦前」】

アニメージュ 2013年 08月号 [雑誌]
徳間書店

『風立ちぬ』についていろいろな批評が出ている。評価が大きく割れているのがこの映画の特徴だと思うが、ツイッターで「普通の人」の感想を見ているとおおむね好評だ。そしてこの映画に関しては、自分の評価に固執しようとする人がかなり多い感じがして、必然的に自分と対立する意見が「凄く多い」と感じているのではないか、という感じがする。

それにしてもずいぶん怒ってる人が多い。しかし怒ってる人特有の現象で、何を言っているのかよくわからない人が多い。何を言ってるのか分からないのはこちらの理解力の力不足もあるのだろうけど、自分が理解できないものを何をどう批評すればいいのか分からないし、分からないまま批判するのも礼儀違反だろうから、個別の批判に対して反批判をするのは今の時点ではやめておいた方がいいのだろうと思う。まあ大体、私は怒ってる人の怒りってよく理解できないことが多いのだけど。その割には自分も腹を立てるのだが。自分の怒りに対しては理解できるのかというと、それもあんまりよくわからないからあとで分析したりはするんだけど。人のはともかく、自分の怒りくらいはもう少し理解しておきたいとは思うが。

ということで、昨日書いたように私は『風立ちぬ』を大変良かったと思っているので、自分が理解できない理由で批判されているのを見るとやはり腹が立つ。断片的にいろいろ理由を拾い集めてこういうことかなと批判される理由を考えてみるのだが、何だかどう考えても妥当とは思えず、裏に何かあるんじゃないかとか変な方向に考えてしまうので分からないことは分からないとしておいた方がいいのだろう。『赤毛のアン』の何が面白いのかいまいちわからないということと同じで、批評は避けよう。

ただまあ、それでほっておくのは何なので、とりあえず自分がなぜこの映画をいいと思ったのかについて、もう少し掘り下げて見るといいのかなと思った。まあ人の意見は、結局は自分の考えを深めるためにしか役に立たない。こういうことで腹が立つと、いろいろ考えたり書いたりしようとする動機にはなるので、たぶんありがたいことなんだと思う。

まあ腹を立てるのはその対象になる現象の問題というより腹を立てた本人の問題であることが多いし(私も含めて、というか私は特に)、それを見ている人が理解できないことが多いのはまあ仕方がないと言えば仕方がないのだけど。

その前に日常雑記。

フラムスチード天球図譜
恒星社厚生閣

朝は6時ころ起きて古楽の楽しみを少し聞いたりしながらモーニングページを書いた。そう忘れていた、昨日『フラムスチード天球図譜』が届いたのだ。かなり大きいものを想像していたのだが、実際にはB5より大きくA4より小さい大きさの見開き。実物を3分の1に縮小してあるのだという。これはちょっと残念。星座の名前がフランス語で書いてあってあまりピンと来なかったりするのだが、元版もフランス語なんだろうかと思って調べたら、どうもそのようだった。おとめ座がLa Viergeと書いてある。ラテン語か英語ならわかるのだが、当時は外交用語がフランス語になった時期だし、そういうこともあるのかなあと思ったり。そう言えばこれが発行されたのは今話題のジョージ王子の直系の先祖、ハノーヴァー朝のジョージ1世の治世が終わろうとしている頃だった。

そう、そんなのを読んだり見たりして、草を刈ったり、職場に出てごみを捨てたり、サークルKで週刊漫画タイムズを買ったり。朝食後、紫蘇とパセリの周りの草取りをしたり、ゴミを捨てたりして、部屋に戻って少し休み、10時過ぎに出かけてコーヒーを飲んで、書店に行った。

アゴを引けば身体が変わる 腰痛・肩こり・頭痛が消える大人の体育 (光文社新書)
伊藤和磨
光文社

書店で目についたのはまず伊藤和磨『アゴを引けば身体が変わる』(光文社新書、2013)。これは先日、丸善の日本橋店に行ったときに面白そうだと思ったが買わなかった本なのだが、ちょっと読んだ方がいい気がしていたので買った。読んでみると、著者は元Jリーガー、つまりプロのサッカー選手だったのだそうだ。それがトレーナーの資格を得て13年活動しているということで、いろいろと書いていることが実践的で面白かった。まだ読み始めたばかりだが、アゴを人差し指で押して姿勢をよくするという話が面白く、実際にやってみてなるほどと思った。

零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)
堀越二郎
角川書店(角川グループパブリッシング)

次に目についたのが堀越二郎『零戦』(角川文庫、2012)。これはもちろん、『風立ちぬ』に関連して書店に並んだ類の本だろう。しかし実際、上にも書いたように『風立ちぬ』に関連してはいろいろ考えなければならないことが多いと思ったので、まず実際にモデルになっている堀越二郎について知る、特に本人が書いた本があるとは知らなかったので、それを読んでみるというのは意味のあることだと思った。

読み始めて見ると、これがなかなか面白い。書いてあることは航空工学的なことが多いがやはり70年前の技術なのでそんなに難しくはないし、むしろ航空工学を知るためのある種の入門書としても読めるのではないかと思った。零戦の開発命令が下ったのは昭和12年で、その前に彼が作った傑作96式艦戦が日華事変の現場で使われる中、物凄く高度な要求を伴われて上がってきた命令だったようだ。いま読んでいるところではまだその時点なのだが、昭和11年の2・26事件に続いて日中戦争がはじまり、実際に戦闘機が使用されて行く中で世界最高の飛行機を作るという課題を課せられた堀越の重圧と高揚がすごく感じられた。実際、日本の航空機技術は世界に先駆けているとはいえなかったのだが、彼の設計した96式艦戦で一気に世界水準に並んだのだという。それを超えるものを作れという命令は、つまり世界にかつてないものを作れということだったわけだ。

そういう高揚感も面白いのだが、それだけではなく当時の日本がいかに国際関係の最前線に近いところにいたかということも興味深かった。彼の記述によると制空権という概念は日中戦争の中で生まれ、太平洋戦争でその重要性が認識されて行ったものらしい。残念ながらそれに対する理解は日本よりもアメリカの方が最終的に勝ってしまったわけだが。ヨーロッパでは基本的にその重要性が理解されたのは大戦末期だったらしく、軍事技術とは言え日本が戦略上の最先端にいた時代があったというのは覚えていていいことだと思った。ただ、零戦というもの自体が物資も燃料も足りない日本だからこそ生み出されたものだという理由と同じことで、やはりどう考えても背伸びし過ぎであったとは思うのだけど。

うちに帰ってきて『零戦』を読んだり、つらつらものを考えたり。そう言えば、と思ってジブリの広報誌『熱風』7月号(特集の原稿4本はこちらから見られます)を本棚から出してきた。特集は憲法改正。この中の発言で宮崎駿が領土問題について「半分に分けるか共同管理にする」ということを言っていて、ネトウヨさんたちから総攻撃をくらっていた、ということがあった。『風立ちぬ』がゼロ戦設計者を主人公にした映画だということが韓国のネトウヨさんたちに知れて宮崎攻撃がはじまると、日本のネトウヨさんたちは「韓国人にも攻撃されてやんのwwww」的な反応で大いに盛り上がっていて、何とかは死なないと直らないなあと思いつつ、まあ近視眼的な、つまり作品を深い射程で見ようとしないという意味では彼らと変わらない人たちはたくさんいるよなあとも思う。

まあこのインタビューを読んでみると、宮崎駿は「普通の70代」なんだなと思う。つまり、「68年」以前の世代、「団塊」よりも上の世代で、人間というものを幅広く見る力が世代として残っていた世代の人なのだ。インタビュー記事の題が「憲法を変えるなどもってのほか」と書いてあるので最初から読む気をなくしていたのだが、これはけっこうミスリードで、「どさくさにまぎれて、思いつきのような方法で憲法を変えようなんて、もってのほか」なのだ。内容をちゃんと読むと、ずいぶん印象が違った。

私の両親が大体その世代なので、自分の子どものころの認識はだいたいそんなものだったが、どうも世間ではそうでもない人も多かったらしい、ということを認識したのは大学に入ってからだった。『朝鮮の文化と社会』という少人数のゼミに出て、戦前の朝鮮史の授業で朴烈だとかいろいろ面白い人を取り上げた授業があったのだが、私が担当したのは殖民学の東大教授だった矢内原忠雄だった。一生懸命調べて授業で発表し、レポートを出したらAを出す、ということだったのでさらに調べて、「日本の植民地支配が批判されているけれども、どういうふうに統治をおこなえばもっと理想的な統治が出来たのか」という観点で一生懸命書いてレポートを出したら、郵送で帰ってきたレポートには「何も理解していない。Aを出したことを後悔している。」という辛辣な切って捨てるような評価で滅茶苦茶落ち込んだことがあった。あれはそれ以上朝鮮のことを勉強しようという気力を失わせるのに十分な仕打ちだったが、まあ今考えればなぜ教師がそういうことを書いてよこしたのか理由はわかる。つまり「植民地統治自体が悪」だから、植民地統治そのものをメッタメッタに批判するレポートが来るつもりで読んだら「理想的な植民地統治とはどういうことか」について一生懸命書いたレポートが来たら悪夢だろう。向こうも相当ムカついたに違いない。

しかし私にしてみれば、植民地統治はデフォルトで開くであってそれは疑ってはいけない金科玉条だという前提での授業なんだとはどこにも書いてないのにレポートの段階になってそんなことを言い出すのはあと出しじゃんけんだよと思った。まあ私は当時はもう西洋史学科に進学が決まっていたし、イギリスやフランスの植民地支配のそれぞれの特徴とかアラブ諸国における帝国主義国と地元勢力の虚々実々の駆け引きみたいなものが面白いと思っていたこともあったから、日本の植民地支配もそういう諸国のものと比較して優劣を述べることに意味はあると思っていたから、そういう反応をする心の狭さにちょっとびっくり仰天したというのが本当のところだったのだ。日本における西洋史・東洋史・日本史というものは同じ歴史でも本当にそれぞれスタンスが違うので、そういう文化摩擦が起こりやすいということは今ではわかるのだが。

まあこのことはあとで書くことにもつながるのでこのくらいにしておこう。

まあ、「戦前の日本はデフォルトで悪」という信条は私にはまったく共感できないし、実際高校の社会科教員時代もそういう組合側の教師としょっちゅう意見が衝突していたが、戦前の教育を実際に知っている人たちは、おおむね私の側に好意的ではあった。もうその世代は学校現場からは完全に退場してしまったのであとは結局観念でしか戦争のことを知らない人たちだけの現場になっているだろう。宮崎はぎりぎり、そういう戦前(というか戦中)のことを実際に知っている世代で、軍需工場を経営していた父の生きざまを実際に知っている人だから、そんなデフォルトで悪みたいな単純な理解ではない人なのだ。発言的にはそういうことを言うけれども、このインタビューでもPKOでペルシャ湾に行って粛々と掃海して帰って来た海上自衛隊に感動した、と言っているし、非武装中立は現実にはあり得ないと言っているし、いわゆる観念的な団塊の世代以後の戦後民主主義者ではない。私はその点を誤解していて、実際にはもっと早くジブリの作品を見ればよかったと後悔しているのだが、まあつまり彼の作る作品に共感できる部分が多いのはそういうことなんだろうと思う。


【「生きねば」というメッセージをどう考えるか:個人が生きることと日本が生きること】

作品に即して言えば、『風立ちぬ』の「生きねば」というメッセージについてどう考えるか、ということがあるようだ。私はまあこのメッセージは思想というより当たり前のこと、当たり前の前提として受け取ったのだが、「生きねば」ということ自体が不安定になっている人が多い現代の日本においては、凄く意味のあるメッセージだと思う。まあ私も「生きる」ということ自体が不安定になることがある人間なので(だからと言って死のうと思ったことは一度もないが)「生きねば」というメッセージに意味があるということは納得できる。私は「死ぬまで生きる」ということを私の生きるもっとも基本と考えているけれども、それは生まれたからには生きるエネルギーを使い果たして枯れたように死ぬまで生き続けることがあらゆる生まれたものには課せられている、と思うからで、逆に言えばそういうふうに考えを決めておかないと生がゆらゆらする、ということでもある。まあ信念というのは弱さの裏返しであったりもする。

「生きねば」は思想として認められない、という考え方は理解できるが、しかしまず生きなければ生かすことだってできないわけだし、まず生きて初めて生かすこともできる、ということではないかと思う。そして、「生きること」自体が困難な時代が描かれているのだ、ということ抜きにはこの映画もこのテーマも語られるべきではないと思う。それに正直言って、現代だって本当はデフォルトで容易に生きて行ける時代ではないと思う。そんなふうに見えているだけで、実際には多くの子どもも、多くの大人も、生きるか死ぬかで生きているんだと思う。

実際に多くの人間は苦い思いを抱えて生きているわけで、生きるのが嫌になったことのない人間はいないだろう。人を犠牲にして自分がのうのうと生きて、砂を噛むような思いで毎日を過ごした経験がない人はほとんどいないに違いない。この作品に描かれた堀越二郎はその苦さを抱えたまま生きている。しかし、生きなければならない。それは、「俺がこの世に生まれたからだ」、で『進撃の巨人』につながるわけだが、まあそれはともかく、どんなに苦くても生きなければいけないと思っているからこそ、多くの人はこの作品を見て「そうだよな」と思ったのだと思う。善人なおもて往生をなす、いわんや悪人をや、であるが、そう考えてみるとこの親鸞の言葉も相当苦い。

それは、個人だけでなく、日本という国、あるいは民族もまた、同じなのではないかと思う。つまり、独立自存の国家として自信を持って国際社会を歩まなければ、国際社会を活かすことはできないのだと思う。現実の日本は、アメリカに対して敗者としてのコンプレックスを持ち、中国や韓国に対して加害者としてのコンプレックスを刷り込まれている。私は基本的に、これらのコンプレックスは解消されなければならないと思う。

私はもともとは、中国や韓国に対してきちんと謝罪・賠償をすることによって対等の立場に復帰し、またアメリカから軍事的に独立して対等の立場に立つことでそのコンプレックスは解消されると思っていた。しかし実際には、日本がコンプレックスを感じているということ自体がアメリカや中国、韓国にとっては国際関係上・国内統治上の資源であり、彼らは永遠にそれが解消されないように日本にも工作し、国際世論上もそう誘導しているということが理解できてくると、なかなかそれはそう簡単な問題ではないと思うようになってきた。

しかしその方法が通用しないとなると、結局は国際関係上、より優位な立場を彼らに対して取ることしか実質的な解決はない。しかし中韓は、それを許さないことに相当力を入れているので日本が道義的に悪だという宣伝はしつこいほど行われていて、人権問題などにリンクすることでその固定化が図られている。

結局、日本がそういうコンプレックスを解消し、精神的自立を図る、つまり「普通の国になる」ためには、軍事力を含めたあらゆる面で国力を回復するしかない、という判断に傾く人が増えているのだし、そういうコンプレックスの迷路からいい加減脱したいという本来極めて健康な志向がその背後にあるのだと思う。

こういうレッテル張りをされた国民の鬱屈というのは酷いもので、ドイツでは若者の自国の歴史に対する関心がかなり低いようだし、セルビアではエスニッククレンジングというアメリカの広告代理店が張り付けたレッテルが成功しすぎて、同じように残虐だったはずのクロアチア人やモスレム人に深い恨みを抱くという結果になっている。それは、「政治的正しさ」の精神的暴力が吹き荒れている東アジアから見ても、やはり解決すべき状況のように思われる。

まあそれはとりあえずは彼らと彼らの周辺の人々が解決すべき問題であり、我々は日本とそれを取り巻く問題をまず解決しなければいけないのだが、最終的にはこうした「政治的正しさ」がある国民に対する抑圧としてのみ働き、対立する国民の外交的資源として活用されるという状況は、変わっていくべきだと思う。

まあ話を日本に戻すと、日本はコンプレックスを解消したうえで憲法に謳われているように「国際社会で名誉ある位置を占める」ように世界に貢献するように努めていくべきで、やはりそれはまたまず「生きる」ことが先にあって「生かす」ことがそれに続く、という構造であると思う。

安倍首相が吉田茂以来の総理大臣再登板をなしとげたのは、やはりそういう国民の期待がかなり広範囲にあったからだと思うし、アベノミクスの今のところの成功でさらにその期待は高まっている。日本は「生きる」ことが出来る、と。

憲法を改正して自前で軍隊をもつというのは独立国として当然のことで、その上で日米同盟でも日中同盟でも結べばよいが、(結ばない方が上手く行きそうなら結ばなくてもよい)このことに関しては基本的に安倍首相は対米従属姿勢であるように見える。ただやくざに恫喝されていても自分に応援がない時点で下手にやくざを怒らすことが得策でないように、安倍首相はある意味心にナイフを持っているように感じられるところがあり、たぶんその辺が小泉元首相とは違ってアメリカに不安を感じさせるところなのだろう。まあ基本的なスタンスとそれを成し遂げられるかは違う問題だしその辺のところに不安がないと言えば嘘になるが、基本的には姿勢として安倍首相は支持したいと思う。

日本は、正直言って、今でも本当には豊かではないと思う。まだまだ成金の豊かさ、つまり心の貧しさを引きずっていると思う。そして実際に、その貧しさに対するコンプレックスを引きずっているところがあると思う。飽食などは結局そういうことだと思う。

また、「日本は遅れている」という意識が『風立ちぬ』の中で、つまり昭和10年代の日本で非常に強かったことが描かれていたが、そうした意識も結局現代でも解消されていないと思うし、「失われた20年」でますます深まっていると思う。

結局日本が国家(あるいは国民)として解決すべきコンプレックスは、敗れたこと(つまり弱さ)・加害者であったこと(つまり道義的正しさに欠けていること)・貧しさ・遅れ(つまり劣っていること)と、かなり複合的にあって、太っているとか醜いとか頭が悪いとか体力がないというコンプレックスを刺激し金を絞り取る産業をコンプレックス産業と言うそうだが、国際的なコンプレックス産業にかなり金を絞り取られている現状があると思う。

結局そういうコンプレックスにいつもイライラして揺れているから正確な判断がきちんとできず、焦って変な失敗をしてしまう傾向が日本という国にはあるのではないか。結局第二次世界大戦に巻き込まれたり(引き起こしたと言うべきだという意見もあろうが)慣れない植民地支配に手を出したりして失敗したのも結局はそういう妙な焦りが原因だったという面もあるのではないかと思う。

まあコンプレックスという点では、それはやはり日本だけの問題ではない。やはり中国にとっては近代に重ね重ね日本にやられたということは相当屈辱的な、トラウマになるほどのコンプレックスであっただろうと思うし、韓国にとっても植民地支配を受けたということは気が狂いそうになるような屈辱でありコンプレックスであることは、われわれとしても思いを致さなければならないところがあるなと思う。そう考えてみると韓国サイドに立っていた教員が「よりよい植民地支配」について書いたレポートに激怒したのも分からなくはないなとは思うが、まあやはり西洋史目線で考えると不思議だという気持ちは拭えない。ただ、彼らもコンプレックスを持ってるということは理解しておくべきことだとは思うし、恨まれているということもまあ仕方がない。それをうざがっても、日本人自らが似たようなコンプレックスを解消しきれてない以上、ご同病ではあるということは覚えておいた方がいいかもしれない。まあ簡単に言えば、欧米から見れば大差ない、と思われているということだ。

だから結局、コンプレックスはもちろん解消した方がいいのだけど、それに拘泥しすぎているよりは、日本人の良さを発揮して日本が活躍することの方が、より日本をして世界を生かさしめることになるだろう。日本人が日本人の良さを発揮して「生きる」ことがより世界を「生かす」ことになるはずだ。

そういう意味で、大事なのは日本人が世界の一線でより活躍して行くことであり、またさまざまな分野で世界が良い方向へ行くように貢献して行くことだと思う。

そしてグローバルスタンダードのレベルで活躍して行くと同時に、日本にしかない、日本人に独自の境地を深めていくこともまたオルタナティブとしての選択肢を世界に与えることであり、世界の動きに動じず日本にあるさまざまなものを深めていくことも大事なことだと思う。

私は作品を作るとき、基本的に何を書いてはいけない、誰を取り上げてはいけない、ということはないと思う。堀越二郎が作ったゼロ戦は美しい飛行機であると同時に兵器でもあった。日本人の誇りの結晶であると同時に「敵」の恐怖と憎悪の対象でもあった。『風立ちぬ』には、その高揚と苦さが二つとも描かれていると思う。堀越二郎が描かれるべきでないなら宮本武蔵も描かれるべきではないし、毛沢東もスターリンもアフリカの独裁者も描かれるべきではない。人を傷つけたことがある、人を害したことがある人間が描かれるべきでないのなら、描ける人間はいなくなってしまう。

確かに、戦勝国のグローバルスタンダードが支配し、それが日本においても浸透しつつある日本において、堀越二郎を取り上げることは「政治的正しさ」において微妙であるという判断はもちろんあるだろう。ただ、人が生きることの苦さ、それでも生きていくべきであるというメッセージを届けようとするとき、そうした超えることのできない矛盾を抱えた人間が描かれなければ、十分深く人の心に届くことはないのではないかと思う。

少なくともこの映画を見た少なからぬ人が、自分の抱える苦さと向き合い、それでも生きるということの意味について、考える機会があったのではないかと思う。もしそうであるならば、この映画がつくられた意味は十分にあったのではないだろうか。

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