マンガの歴史とがんばれ雑誌/いいと思ったことを書く/「小説の毒」と「書きたいこと」/光野桃『おしゃれのベーシック』

Posted at 13/06/01

【マンガの歴史とがんばれ雑誌】

梅雨に入ったが、ここ数日は晴れの日が続いている。今日から6月。本格的に夏が近付いてきたはずなのだが、今年はカーディガンやベストが手放せない。さすがに袖のついたウールは着るのが野暮ったい感じもあってベストにしているのだが、一枚あると安心するという感じはまだまだ抜けない。本当にそれらが手放せるようになるのはいつになることか。

前回の更新以来、買った本はマンガ雑誌が2冊、マンガ単行本が二冊、本は1冊。雑誌はモーニングと週刊漫画Times。モーニングは「Giant Killing」の新展開が興味をそそる。週刊漫画タイムズは「10歳からの家族計画」が面白くなってきた。

BARレモン・ハート(28) (アクションコミックス)
古谷三敏
双葉社

マンガ単行本は古谷三敏『BARレモン・ハート』第28巻(双葉社、2013)とみなもと太郎『風雲児たち 幕末編』第22巻(リイド社、2013)。これはともに、1980年代から買い続けているシリーズで、レモンハートは確か第6巻のあたりが平成元年だった。ということは1年1巻以下のペースだが、とにかく連載が続いていることがすごい。今でこそ酒の蘊蓄マンガのようなものは巷に溢れているが、おそらくはこれが元祖だろう。もう何というか酒の新しい知識を広げるために読んでいるという感じでもなく、伝統芸能を味わっているという感じになっているのだが、せっかくだから買っておきたいという、そういう感じのシリーズになっている。

風雲児たち 幕末編 22 (SPコミックス)
みなもと太郎
リイド社

『風雲児たち』の方は連載が始まったのは1970年代だと思う。だからきっと、そろそろ40周年になるのではないか。本篇が30巻で一応完結し、『雲龍奔馬』という坂本龍馬を主人公にした作品が4巻くらい、それが打ち切られて改めて幕末編という形で始まりそれももう22巻だから合計すれば56巻という超大河ドラマ的な作品になっている。『あぶさん』や『美味しんぼ』は100巻を超えていてこちらも凄いのだが『こち亀』なども含め週刊誌や隔週誌の連載であり、月刊誌連載でこれだけの巻数になっているのはすごいと思う。もうすぐ横山光輝『三国志』の60巻に届かんとしている。考えてみれば『三国志』を読むために買っていた『コミックトム』の連載で初めて読んだ『風雲児たち』が面白くて買うようになったので、こういう関係というのは続いているんだなあと思う。

それを考えてみると、2000年が過ぎてからコンテンポラリなマンガを再び読み始めたのは諸星大二郎『西遊妖猿伝』の連載がモーニングで始まったことがきっかけで、それを読んでいて他のマンガも読むようになり、『ピアノの森』や『Giant Killing』にはまり、『宇宙兄弟』その他も読むようになったのだった。

マンガの歴史というのももちろん戦後すぐの手塚治虫や貸本系から出て来た水木しげる、さいとう・たかをなどの人から始まって、60年代のマンガ週刊誌の刊行、70年代のアニメブーム、80年代のマンガルネサンスの時代があり、そこからさまざまに枝分かれし発展して現在に至っているわけで、60年代と70年代のマンガを子どもとして読み、80年代のマンガを座右の銘とし自分たちの時代のアートとして読んでいた私が、いつからか新しい作品に興味を失っていて、2000年代になってから再び読み始めたことでまた今のマンガシーンについて自分なりの見方を持つようになっている。いまだに読めない種類のマンガは読めないのだが、こういうものが面白いというアンテナのようなものは、以前よりは働くようになってきていると思う。

そういう意味で考えてみると、私はマンガに接したのがテレビマンガと並んで雑誌がはじまりだから(最初は小学館の学習雑誌、『小学一年生』だった。手塚治虫「不思議なメルモ」や「ドラえもん」、朝日新聞に連載されていた「サザエさん」(確か私が1年生の時にテレビ放送が始まった)など、その作品目当てで読んでいたわけではないけど載っているから読む(子どものころは手当たり次第に全部のマンガを読んでいた。本に対してもそんなものだったが)ということで出会ったマンガが多く、雑誌こそがマンガ文化の原点だと思う(雑誌が確かサンデー80円だったのに、単行本は200円くらいはした)のだけど、今では雑誌が売れず、みな単行本を買って読む時代になっていて、それでは新しいマンガにどうやって出会うのだろうと思うのだが、ネットで見ていても「私は単行本派」と自称する人が多いのは、たまたま同じ雑誌に載っていたから読むという、アナログな関係が鬱陶しくなっている、自分の好きな作品だけ読めればいいというデジタルな感覚で育ってきているからなんだろうなと思う。英語の辞書でも紙の辞書ならその前後の関係のない単語のところを読んだりするけど、電子辞書だとその単語のところしか読まないし、ウェブで検索しても関係のある記事しか出て来ないというのが当たり前になっている人が多いのだろう。

そう言えば『夜明けの図書館』に描いてあったが、最近は書棚の間をうろうろして面白そうな本を探す(これをブラウジングというらしい。ウェブのブラウザというのももともとはそういう意味なんだろう)人が減っていて、目当ての本に直行してそれを借りて速攻で帰る人が増えているのだという。そういうデジタルなタコツボ的な効率性を求めて、アナログ的な深い教養の育みの機会をみすみす見逃している人が多い時代になったので、なんだか余裕のないつまらない社会になってきたのではないかなという気がしないでもない。

そういう意味では、マンガの発展においても(考えてみれば、私は作家でも週刊文春とかの雑誌でコラムとかを読んで興味を持って読むようになった作家がけっこう多い気がする)そのほか文化の発展にとっても、雑誌というアナログな、横につなげる力を持つ媒体が持っている力というのはまだまだあると思うので、雑誌には頑張ってほしいなと思うのだった。


【いいと思ったことを書く】

ある意味かなり眠いことを書くのだがご勘弁願いたい。

ここのところどういう文章を書くのかということに関してかなり煮詰まってきているところがあった。しばらくずっと小説をメインに書こうとしてきたのだが、まあ正直言ってなかなか読んでほしいところを読んでもらえずにいて、ちょっと自分として何を追求して行けばいいのか、道に迷ってしまったところがあった。

自分としては絞り出すように自分がいいと思うことを書いていても、その自分が読んでほしいところまで興味を持ち続けて読んでもらうことがいかに困難かというのが、小説において難しいことなのだということがようやく分かってきたと言えばいいのだろうか。

しかし正直言ってテクニックを極めようという道は、どうも私にはダメで、全然やる気が起こらないというか、文章を書こうという気にもならないのはどうしようもない。

とにかく、自分がいいと思うことを書く。おそらくは私の道はそれしかないので、まずは徹底的に自分がいいと思うことだけを書くということを続けるべきだと思った。

それは必ずしも小説でなくてもいいわけで、どんな文章でも私自身がこれがいいと思ったことが読む人に伝わればそれでいい。とにかく伝える力みたいなものを獲得し、強化して行くことがまず第一だと思った。そのためには「いいと思うこと」自体を感じる力を取り戻し、認識することがなければならない。方法論的には結局は"The Artist's way"になるのだが、「いいと思うこと」を探し、それに触れていかなければ、その感受性自体が鈍っていくのだということを思った。

調子の悪いときというのは、SNSやWEBにつかまってしまい、そこから離れられない。今面白いと思うものばかりに集中し、新しいものを感じようとしなくなる。そしてSNSやWEBに書かれているのは、自分にとって必要な情報ばかりではない。むしろ、読まなきゃ良かった、知らなきゃ良かったと思うことばかりが溢れている。そしてそういうものを読んで腹を立てたり、腹を立てないまでも批判したり、本当に関心もないのに意地になって議論したりするようになってしまう。

そういうことが本当の意味で時間の無駄なのだと思う。

本当に読みたいと思うのは、読むと心が浮き立つようなもの、わくわくするようなもの、何かをしたくなるようなもの、読めば読むほど続きが読みたくなるようなものだろう。一読して口の端を歪めた笑いを漏らし、反射的な反応を書いて送信ボタンを押したくなるような文章ではないだろう。

面白い、読みたい文章ばかりを読むのはそんなに簡単なことではないけれども、面白くない、書くだけ時間の無駄のような文章を書かないでいることはできないことではないし、自分がいいと思うことだけを書いていくこともまたできないことではないはずだ。

考えてみれば、自分が写真を撮ってついっぷるや携帯百景に投稿するのは、これはいいなとかこれはきれいだなとかこれは素敵だなと思った時だけなので、結局文章においてもそれは同じなのだと思った。

そういう中で、いいと思うものに触れるのに、一番興味を持てるものはなんだろうと思いながら、書店の書棚をブラウジングしていた。そして見つけたのが光野桃『おしゃれのベーシック』(文春文庫、2009)だった。

おしゃれのベーシック (文春文庫)
光野桃
文藝春秋

確かに、お洒落とかファッションというものについては、私はすごく好きだ。残念ながら男性は女性に比べてファッションに対して保守的であるべきだという既成概念が強いのでなかなかそう突飛な服装もできない(まあそんなに突飛な服装が好きなわけでもないのだが)のだけれど、出来る範囲で工夫したりすることも好きだし、自分が着ないまでも人の来ているものを観察したりするのも好きなので、こういうものを読んだり写真を見たりしていると和んで来るところはある。

しかし、いわゆるファッション雑誌というのはわりと苦手なことが多い。それはつまり写っているのがモデルで、その背景にその人の人間性みたいなのが見えない(見えない人間性を持ってる人間が写っていると言ってもいいが)のが気持ち悪かったりするからだ。

だから逆に女優のファッションブックみたいなものはけっこう好きだし、マンガ家の描くファッションイラストなどはかなり好きだ。イラストレーターのイラストはある意味モデルが来ているファッションみたいに見えるけど、マンガ家の描くイラストは書かれている人物にキャラクターがあるから、そこに人間性が見えるからだろう。

それは例えば、歌手の歌う歌よりも俳優の歌う歌の方が好きだという傾向とも重なったりもするし、たとえばスタジオジブリの宮崎駿監督がプロの声優でなく俳優や全くの素人を声として使ったりすることとも重なるだろう。『となりのトトロ』のお父さんの声が糸井重里だったり、今夏公開の『風立ちぬ』の男性主人公の声が庵野秀明だったりするのは、さすが宮崎駿といえなくもないが、それよりは声の生活感・あるいは人間性のようなものが彼にとっては大事だということだと思うし、それは私が感じていることと同じことなのだろうと思う。

洋服というものはそれだけで独立して存在するものではなくて、着る人間が来て初めて力を発揮するものだから、(まあそうでないものもないことはないが)私はその写っている人間まで含めてファッションだと思うのだけど、なかなかそこまで撮れている雑誌はあまり多くない。

『おしゃれのベーシック』では、そういう人間性を持ったファッションの例として小林麻美があげられていて、そうなんだ、と思った。当時はなんというか凄く軽い表面的なイメージで見ていたのだけど、読んでみるとなるほど彼女がいかに考えて洋服を選択し、スタイルを考えていたかがよくわかる。それは今となっては80年代的なちょっと力が入り過ぎの、下手をすればややバブリーなものではあるけれども、当時はそれがカンフル剤的にも一番かっこいいものだったのだということが、読んでみると理解できるというところがある。

私は基本的にはジェーン・バーキンとかが好きなので、まあちょっと違うところはあるのだけど、考えてみると白洲正子とかが好きなのも、同じようにファッショナブルなところなんだなと思った。何だろう、白洲正子の場合は服装が、というよりは考え方がファッショナブルだと言えばいいのだろうか。ここのところはきちんと折り目をつける、ここはこういうふうに言うべきことはいい、ここは人間性の弱さとして認め、ここは天才の行動にただただ感嘆する、というそういう考え方みたいなところがファッショナブルなのかもしれない。

実際、この人は自分の病状について書いていても何かカッコいいわけで、まあそんなふうに書けたらいいなとは思うが、あまりそっちの方で極めすぎると小説に戻ることが難しくなるような気もしなくはない。ファッショナブルであるということは、ある意味人間的には素直だということなので、小説みたいに何か人間性的に文章の背後によくわからない情念みたいなものがうごめいていないと世界が成立しないようなものを描くには難しいというところがある。フィクション性が低いというか、リア充度が高い生き方、考え方、書き方というのは、フィクションの世界と、その背後にある妙などろどろとしたものが必要な、ある意味非リアの怨念みたいなものが必要な創作の世界とはやはり違うものなんだなと思う。


【「小説の毒」と「書きたいこと」】

ここまで書いてみて、私は結局は基本的にはリア充的な方向性の人間で、妙などろどろしたものみたいなものがあまりない(あるいは好きではない)から、まあそれを前提としてものを書いて行った方がいいということなんだな、ということに気づいた。

なんかつまり、フィクションを読みたい人というのは、本当はそのフィクションの背後にある、どうしようもなくどろどろしたものが読みたいのだ。それが小説の毒(フィクションの毒といってもいい)と言われるものなんだろう。そしてその毒こそがいわゆる「作者が本当に書きたいもの」なのであって、リア充であれば現実の世界でそれは実現してしまうわけだから、「本当に書きたいこと」が出て来なくたって仕方ないんだと思った。というか、私にもそういう意味で「書きたいもの」がないわけではないのだけど、なんだか妙に健康的だったり真っ当だったりして、いわゆる「本好き」の人にとってはあまり魅力がないものなのかもしれないとも思った。

だから私に書けるのは、「私が本当にいいと思うこと」以上のことではなく、まあそういうことを書いているうちにその背後にはものすごく辛辣などろどろしたものがあることを自分で発見したりするかもしれないのだけど、まあ何が起こるか分からないまでもとにかくそういうものを書いていくしかないのだと思った。


【光野桃『おしゃれのベーシック』】

『おしゃれのベーシック』はまだ少ししか読んでないけど、印象に残ったエピソードをひとつ。

作者は、「ストッキングは第二の皮膚である」という。六本木の靴下専門店のマダムによれば、黒のストッキングで一番きれいなのはランバンのもので、はくと足のサイドにシャドウが出て、足が細くきれいに見えるのだそうだ。

まあ私などはこういうエピソードを読んだだけでどきどきするのだが、それはまあ私が女性の脚(足もだが)というものに対してフェティシズムがあるからで、きれいなふくらはぎからきゅっと締まった足首、形の良い足が伸びていたりするとそれは何ともいえず素晴らしい気分になるわけだけど、なるほど森の色をしたトレンチコートの裾からそんな脚が伸びていたりしたら、やられたと思うだろうと思う。

この店でグレーのストッキングを買ったお嬢さんがニューヨークの五番街を歩いていたとき、高級車が突然止まって中から転げるように降りて来たジェントルマンが、「お嬢さん、あなたがはいているストッキングは私が長い間探し求めていた理想のものです。一体どこで買われたのでしょうか」とたずねたのだそうだ。この欧米人の女性の脚へのこだわりに実に感じ入ったと作者は書くのだけど、まあそういうわけで私はさもありなんと思ったのだった。

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