『進撃の巨人』:アニメの魅力/東村アキコ『かくかくしかじか』/安冨歩『合理的な神秘主義』/『コミックゼロサム』

Posted at 13/05/29

【『進撃の巨人』アニメの魅力】

進撃の巨人 1 [初回特典:未発表漫画65P「進撃の巨人」0巻(作:諫山創)] [DVD]
原作・諌山創 監督・荒木哲郎
ポニーキャニオン

諌山創『進撃の巨人』のアニメのことについて少し書こう。

この作品は3巻まで最初に全部読んで、そのあとは単行本を、途中からは連載誌を毎月買いつつずっと追いかけて来ていたのだが、すでに累計1200万部突破ということだったのだけど、4月から始まったアニメで反響が反響を呼び、すでに1500万部を突破したそうだ。場所によっては品薄の状態も続いているようで、東京ではマイナーな局(MX)でしかやっていないし全国ネットでもないのに、テレビの影響力はすごいものだと思う。いちおうBS11では全国どこでも見られるし、ネットでは毎週水曜日の夜にニコニコ動画で最新話が公開され、その後1週間の間無料で視聴できるので、その影響というのももちろんあるのだろうけど。

しかし何よりこのアニメが評判を読んでいるのは作品自体の力だろう。アニメ作品としての出来栄えが半端ない。ニコニコ動画で数多く公開されている二次作品の中で、戦闘場面を10分の1のスピードにしただけというものがあるのだが、その描写の細かさ、丁寧な動きの描写にいちいち圧倒される。最近静止画が増えてきて作画スタッフが限界に近付いているのではないかという説もあるのだが、それでも本当に限界まで頑張っている感じで、このアニメの質の高さだけは抜群なものだと断言することができる。

まあそれは見てもらえば誰にでもわかることなのだが、このことについて書きたいと思ったのは、「ニコニコ動画」で公開されていることの意味についてだ。

「ニコニコ動画」では画面上に見ている人が自由にコメントを入れられるという仕組みになっていて、これは慣れないうちは相当鬱陶しい。私も最初のころはコメントアウトにしてきれいな画面で見ていたのだけど、最初にテレビ・ビデオで何回かみた後なら、むしろコメント付きの方が案外面白いと最近思うようになってきた、ということを書いてみたいと思ったのだ。

先にも書いたが、原作のマンガも素晴らしいのだが、絵はけっこう荒れているというか、まあそれが味わい深いと思うのだけど、アニメではそういう原作の「粗」みたいなものを「生かしつつ修正する」という感じがあって、絵や動画的にはものすごく向上している。逆にきれいすぎて物足りないかというと、描き込みがすごいので原作の世界もちゃんと再現していて、さらに先に行っている部分があるとさえ思う。もちろん、原作のマンガの方がこの場面の表現は良かったと思うところもないわけではないのだけど、それは両方知っているからこそ楽しめる楽しみというものだろう。

そういう画面を見ていると、やはり「ああ、この場面はいいなあ」と思うところが随所にある。コメントを見ていると、そういう場面で「ここが好き」とか「この場面の○○がカッケー」とかいう素朴なコメントが流れてきたりして、「うんうん、そうだよね」と思うのだ。そういうコメントをうるさいと思うときもあるし、ネタバレとか(この作品はすごくたくさん伏線が張ってあるので原作を読んでない人には相当意外なところに伏線があって、ネタバレは相当興趣を殺がれる)作品自体を否定するネガティブなコメントもときどきあるのだが、最近はそういうのもあまり気にならなくなってきた。

OP(オープニングの主題歌の流れる場面)の中で「獲物を屠るイェーガー」という歌詞がある。イェーガーとは主人公の名(エレン・イェーガー)であり、狩人という意味のドイツ語でもあるのだが、そのことがまだあまり知られないうちからこの言葉の語感がかなりの人の盛り上がりを誘ったらしく、この場面に来ると弾幕のように「イェーーーーガーーーー!!!!!」というコメントが大量に流れて、アニメの主題歌を合唱するというあのノリが思い出されて思わず楽しくなってしまったりする。

そういうわけで、この作品は本当に「ニコ動時代」の新しいメディアミックスという感じで、大変楽しませてもらっている。「ニコニコ動画」自体を見ている時間が以前とは比較にならないほど増加しているし、新しい時代の作品の楽しみ方としてさらに発展性があるのではないかと思っている。


【安冨歩『合理的な神秘主義』】

合理的な神秘主義~生きるための思想史 (魂の脱植民地化 3)
安冨歩
青灯社

28日に購入した本。『コミックゼロサム』7月号、東村アキコ『かくかくしかじか』第2巻、安冨歩『合理的な神秘主義』(青灯社、2013)。

安冨歩『合理的な神秘主義―生きるための思想史』は、「叢書 魂の脱植民地化」の第3巻として位置づけられている。「魂の脱植民地化」というのはなかなか簡単にはまとめられないが、以下のようなことのようだ。

魂とは本来「対象への真摯な探究を通じて自らの真の姿を露呈させ、それによって更なる探究がはじまるその姿、あるいは運動」であるとしている。だから、記述された情報の明示的な操作のみに逃避して知識の「客観性」を求めようとする「客観主義」は学問において主体たる「自らの存在」を見えないものにし、安全地帯の傍観者とする単なる魂の弱さに過ぎない。その「自らの真の姿を露呈させる」勇気を失い、堕落した魂は自らであることに怯え、罪悪感にまみれて暴走する。この状態を「魂の植民地化」としている。

そこからの回復とは、つまり対象への問いを通じて自らを厳しく問う不断の過程であり、修養のための学問という人類社会の普遍的伝統を回復させることでもあるわけで、それを「魂の脱植民地化」とし、そのために「問う主体を含んで展開する対象との応答全体の厳密な記述をすることを目指して発行されたということだ。

まあ何となくうまくまとめられないのだが、言っていることはよくわかる部分があるし、私自身も学問に対して物足りない部分、つまりいろいろな学問があってもそれぞれの「語られない前提」の違いによって全然話がかみ合わなくなる、たとえ西洋史と東洋史といった々歴史の領域内においてすらかなり前提が違うということが共有されてないという現状があり、つまりそれらの学問をやる上でのもっとも基本的な暗黙の認識共有みたいなものが全然できていなくて、それゆえに学問がタコツボ化し、「すぐれた学識=すぐれた人間性」というものが崩壊している現状みたいなものに一石を投じたいというところはすごくよくわかる。

それを「魂の脱植民地化」と表現するのが妥当かどうかはともかく、言いたいことはわかるし、重要なことだと思う。『合理的な神秘主義』というのも、人間はなぜ「新たな問題」を発見し、それに取り組むことができるかということ、なぜ「なんかおかしい」と感じることができるか、という従来の学問では明示されない何かを掬い上げようという試みだということができる。だいたい、学問で掬いあげられなくても、それができない人間は人間として生きていくことが困難なわけで、全体的な直観的把握能力みたいなものを、結局は完全に学問的に述べた人はいないということはまあそうだろうというか学問というものの限界だと私は思っていたけど、そこのところをちゃんと問い直そうという試みは面白いとは思うし、必要なことだろうと思う。

ポランニーの「暗黙知」というのが今あるひとつの解答だが、川喜田二郎のKJ法などももちろんそのための方法論と、方法論に基づく思想としてあるのだけど、著者の視野には入っていないようだ。

この本では学問の起源(孔子、仏陀、ソクラテスなど)から現代に至る思想家たちの系譜の中で、「学問の明示的客観性の追求」という言わば「魂の植民地化」の流れに抗する、あるいはその伏流として脈々と存在し続けた全体的な直観的把握による問題認識=合理的な神秘主義の流れを追っていこうとしている。私にはまだ何を言いたいのか今ひとつつかみきれないところもあるのだが、孔子に始まってそれぞれの思想家のその点における重要性を簡単に概観しつつ、孔子・仏陀・ソクラテス・孟子・エピクロス・龍樹・親鸞・李卓吾・ホイヘンスときて今スピノザについて読んでいるところだ。85/323ページ。


【コミックゼロサム】

Comic ZERO-SUM (コミック ゼロサム) 2013年 07月号
一迅社

『コミックゼロサム』。今月号のランドリオールはストーリーを進めずに番外編的な小エピソード。ストーリーの進行を期待していたので少し残念だが、来月末には新しい単行本が出るので、その作業ということと単行本収録の上でのストーリー構成の調整の必要性ということだろう。と自分を納得させる。しかし、Dキッサン『千歳ヲチコチ』は次回からWEB版に移行してしまうし、天河藍『吉祥7』は次回最終回だし、この雑誌で数少ない自分が読んでいる連載がなくなってしまうのはちょっと残念だ。昨日はちょっとそんなショックも受けていた。

逆にいえば、私が読みたいマンガというのがこの『ゼロサム』という雑誌にとってはややメインストリームを外れた作品なんだろうなとは思う。まあそれは仕方のないことなのだけど、いろいろ残念に思うところは仕方ない。


【東村アキコ『かくかくしかじか』】

かくかくしかじか 2 (愛蔵版コミックス)
東村アキコ
集英社

東村アキコ『かくかくしかじか』。月曜日に買った第1巻を火曜日の朝に一気に読み切り、第2巻を帰省する特急の中で一気に読み切った。これは傑作だ、と思う。というか、「才能ってあるんだな」と改めて思った。

凄い力があるし、自分をさらけ出せる勇気があるし、そうすることで本当に落ち込んだことをちゃんと描ける描写力もある。いや当たり前と言えば当たり前なのだが、その当たり前のことができる作家が実際のところどれだけいるか。絶対余計な格好をつけたりするのだ。あるいはちゃんと描こうとして破綻する。こういうところを一切ぶれなく書けるというのは、本当に力があるということだろうと私は思う。

作者の自伝的な作品としては、モーニングに長期にわたり連載されていた『ひまわりっ』があり、私ももともとはモーニングで読んだこの作品で東村アキコを知ったのだが、今以前のブログを読み返して見るとそれは2009年のことだったことが分かった。もう4年もたったというかまだ4年しかたってないというかなのだが、おそらく私が買った彼女の単行本では『海月姫』の方が先なのだけど、『ひまわりっ』も読んでみようと思って買ったらスパッとはまって出ているものは全巻買って一気読みしてしまった。あの当時は「最近のマンガ」の面白さというものに目覚めたころで、(つまりそれまでは80年代のマンガ黄金期の作家たちの作品とか、過去からの遺産しかほとんど読んでなかった)ある種の飢餓状態にあった頃だったと思う。彼女の作品は本当に新鮮でヴィヴィッドで、先週号より今週号が、今週号より次の週の方が面白いだろうという期待に満ちていたころだ。

ただ、『ひまわりっ』連載の末期になるとどうも私としては首をひねるところが多くなってきて、私には「混乱」としか思えなかった狂爛の中で連載が終わると、あと2巻で全巻揃うという状態だったのに買う気にもならず、コレクションも中途半端な状態になってしまった。いま、『ひまわりっ』を少し読み返してみようと思って本棚を見たら第1巻がなく、東京の方へ持って行ったのかもしれないが、その印象もないほど失望していたところがあったのだと思う。

しかし『海月姫』はとても好きで、この作品をよすがに東村アキコの作品はちらちらと読んではいたのだけど、『主に泣いています』とかはハチャメチャな部分はどうも読むに耐えず、(このあたりひどいことを書いているけれども個人の感想であり、なんていうか好きなだけに愛憎相半ばしてしまうと御理解下さい)抒情的な部分が少しずつ戻って来ると安心して読める、という感じだった。しかし、『主に泣いています』がドラマ化されたところを見ると(信じられなかったが)、結局ああいうのが一般的には受けてるんだなと思ったし、それが好きな人がたくさんいるなら私がとやかく言うことではないと思ってほとんどこの作品には触れないでいたのだけど、『かくかくしかじか』を読んでみると、この人の本当の力というか「本質に触れる力」はいささかも衰えていない、いやむしろ強烈になっているのだということを改めて感じた。

私にはこの人のハチャメチャ(というかある種の狂気だと思うが)が理解できないというか、面白いとは全然思えないのだけど、展開がそれに飲み込まれずに続いて行く『海月姫』の中でのハチャメチャには十分ついていけるし、面白いと思う。それは彼女の描くおたく女子のノリが面白いと思えるからだと思う。こじらせて深刻化した感じの腐女子にはついていけない感じがするが、おたくを描いていてもいつの間にかファッショナブルになってしまう少女マンガの正統的な遺伝子みたいなものが、そこのところでは救いになっているのだと思う。『海月姫』が(心ならずも)デザイナーの才能を発揮して行く海月好きの女の子、というそういう系統のテーマの作品だということも大きいのだろうな。

「主に泣いています」ではモーニングという男性誌に書くことで読者との距離が測りにくいところがあるのかなという気もしたが、少なくとも私は読者として想定された範囲内には入っていないなと感じてしまうところがあった。ラスト近く、物語の展開が収斂に向かってからは、毎週きちんと読むようになっていたのだけど。

『かくかくしかじか』の表現は、私にも、いや万人に届く表現だ。「普通の人」の悔恨、苦い思い出、忘れてしまいたい恥ずかしい自意識の記憶。何でも簡単に言ってしまう今の時代の表現でいえば「黒歴史」なのだけど、そういうものとちゃんと向き合うということは、東村アキコのようなもともとそうれをかなりの部分ネタ元にしているような人にとっても、大変なことなんだと思わざるを得ない、そういう渾身の表現になっている。

描かれている「日高先生」は本当に作者の「人生の師匠」とも言うべき人で、その人に鍛えられたから彼女の今日がある、ということは確かだと思う。『ひまわりっ』を読み返して見ると、絵画教室に通っていた、という記述はそれなりに出て来るのだけどその場面が不思議にスルーされていて、きっとそこには何かあったはずだという「感じ」みたいなものだけを残していたのだけど、それが何だったのかは分からないままこちらも忘れていた。今考えてみると、その違和感みたいなものが、この『かくかくしかじか』に至る巨大な伏線みたいなものだったのだなと思う。

『ひまわりっ』を少し読み返して見て改めて思うのは、この人の魅力は「自意識のかわいさ」の表現みたいなものなのだ、ということだと思った。もともと相当強い自意識を持っていて、おそらくはそれに振り回されて相当苦労し、また苦い後悔もあっただろうということは、『かくかくしかじか』にも描かれているし、『ひまわりっ』を読み返してみても最初に読んだ時よりもずっと強く、そういうことを感じる。

自意識というものは、そのまま書いてしまったらやはり読むに耐えないものになるし、でもそれは誰にでもあるものだからで、その醜さをそのまま描いても誰も読む気がしないのだけど、それを少しひねって「うわああああ、こういうことって、あるよねええええ」みたいな感じで読めるとものすごく面白いものになる。彼女はそういうことが天才的に上手いのだが、そういう点で少女マンガの、特にコミカルなラブコメ系の遺産を相当上手く使っている。また男性誌に描いたことで、余計な線の少ないシャープな構成の絵になったのではないか、というのは想像だけど、自由自在にキャラクターを暴走させ、キャラクターに振り回させる「強さ」がこの人にはあって、余すところなく描きたいことを描いている感じがする。

ここからは私自身のことになるが、2009年のこのブログの過去ログを読み直して見ると、ずいぶん上から目線で偉そうに書いているところがあるのだけど、(というかこの文章もきっとそういうところが多くて恥ずかしくもあるのだが)この頃はまだ私に創作者としての目線があまりなかったんだなと思う。読者として自分は安全圏に置いて批判しているような、どうしてもそういう文章になっている。(このあたり、「魂の脱植民地化」にもつながる話ではあるのだが)

しかしこういう作品を読んで私がすごく感動してしまうのは、私自身の自意識というものに幼稚なところが凄くたくさんあるからだと思うし、むしろ年下の作家さんたちの作品を読んで、自分のそういうところを自覚することが多く、何かむしろ人生とか創作とかの道標になるような人は年下ばっかりだなと思ってしまうのだが、一生そう感じられる人が出て来ないよりはいいんだろうなと思う。将棋の米長名人も、羽生さんら若手を師匠と仰いで研究に励んでいたようだし、そういうのもまたいいかなと思う。

本当にこの作品を読んで、自分の中にあった東村アキコに対する残念な印象がすべて吹っ飛んだ感じがする。また虚心坦懐に、いろいろな作品を読んで行きたいと思った。

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