「進撃の巨人」二次制作動画ととんでもなく非常識な情熱/『進撃の巨人』と『魔法少女まどか☆マギカ』/『進撃の巨人』ノベライズ/『ティム・ガンのワードローブレッスン』

Posted at 13/06/03

【「進撃の巨人」二次制作動画ととんでもなく非常識な情熱】

自分の書きたいもの、自分がいいと思うものについて前回の土曜日のエントリに書いて、その時は自分の中にあまりどろどろしたものがない、あるいは苦手だ、ということを書いた。しかし自分を覆っている薄皮のようなものが剥がれるときが時々あって、それは自分の中にあるそうしたものに呼応する音楽や映像に出会ったときにそういうことが起こりやすいのだと思った。

書きたいもの、表現したいものということで考えているとどうしてもいわゆるポジティブな方向のものが思い浮かぶのだけど、それはある意味自分で自分をそちらの方に誘導している、強い言い方をすると飼い馴らしている結果で、だからこそ本当に描きたいもの、表現したいものが思い浮かばないのだということもあるのかもしれない。

ポジティブなものに本当に情熱が持てるかというと、どうもよくわからないところがある。いいと思うことというのはむしろ理性に主導されて思っていることで、本当の情熱というのはいいとか悪いとかに関係なくどうしてもこれを表現したいというようなものだから、情熱というものはある意味相当暗いものであっても仕方がない。

大人としてポジティブに生きなければいけないと思う半面、自分の中にはまだまだ青春時代のやさぐれの熾火のようなものがあって、たとえ破滅しても走り続けたい、みたいなところもやはりあるんだと思う。

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自分の中にとんでもなく非常識な情熱、そこを刺激されるとどこへ飛び出して行ってしまうかわからないような情熱―――それを衝動と言ってもいいのだろうか、衝動というにはあまりに自覚的すぎると自分では思うのだが―――がある。そんなことはついぞ忘れていたが、昨夜『進撃の巨人』の第9回を見て、その興奮の冷めやらぬうちに、このところ習慣になっている、『進撃の巨人』関係の動画を『ニコニコ動画』で見ているうちに、この動画に出会ったのだった。

私は最近の音楽は時々意識的にはチェックするのだが定期的にやっているわけではないので、このYuiという人も知らなかったし、「again」という曲も知らなかった。

again
Yui
SMR

この動画を始めてみたとき、自分がこの『進撃の巨人』という作品に感じていて、でもあまりうまく言葉にならなかった、いやうまく意識上にさえ載せられなかった部分、なんというか「心の痛み」のようなものを抉り出されたような気がした。人は生きていくうえで、「痛み」に鈍感になっていく部分がある。それはその痛みに耐えられるようになるということでもあり、心の痛むことばかりのこの世界に生きていくために、ある意味「強くなる」ということでもあるのだが、そうした心の「ひりひりする部分」を失っていくことで、生きていることの楽しさとか嬉しさのようなものも色が褪せていくということでもある。

しかし、その痛みを感じる力は、本当に失われてしまったのだろうか。私は、本当はそんなことはないんじゃないかと思う。それは、時々、思い出したようにこういう作品に巡り合って、心が思いきりひりひりさせられるからなのだ。そういう意味で言えば、こういう作品には、薄皮の向こうにしまってある心の敏感な部分を無防備にしてしまう、そういう力があるのだと思う。

こういうものに出会うと、私は自分に確かに情熱というものがあった、あるいは今でもある、ということを思い出す。情熱というものはもともと、どこへ向けていいのかわからない、暴発せざるを得ないようなそういうものだったのだ、私という人間にとっては。

若さというものが、自分でもどこに行くかわからないものに没頭してしまう、熱中してしまうことができることだとすると、私は若いなと思うことが時々あるのだけど、なかなかそれを生産的なものに結び付けていくことが難しい。面白いと思って突っ走ることはないことはないが、面白いということが理知的なことであるのに対して、こういう情熱というのは理知というよりは何か反理性のような、情念という言葉でも不正確だし、やはり理性に対するアンチのような何か、感覚の中の、痛みとかに属する、何か肉体的な、ある種の酩酊というか、自分の中の理性の支配をストップさせる何か、ある意味肉体と感情による理性に対する革命というか、民衆蜂起みたいなものなのだろう。

若さというのは、そんなふうに走り続けられるということだと思うし、そんな疾走感、焦燥感、高揚感をこの「again」という曲は煽り立てる。そして『進撃の巨人』の背後に感じる、恐怖の影に隠れがちな悲しみ、痛み、無念さ、罪の意識、素直になれない気持ち、そんな自分に感じる苛立たしさすべてを表現した、世界の謎に挑むように、自分にとって一番理解できない自分という人間をどんなふうに走らせればいいのか途方に暮れる感じを思い出させてくれる。

目を覚ませ、目を覚ませと盛んに自分に呼びかけて、自分が、もう取り返しのつかない人生を走り続けているということを思い出させる。

自分が巨人になる力を持っているということを自覚している4人のキャラクターの個性と、知らずに巨人になってしまったエレンの戸惑い、怒り、焦り、そしてその中で方向性を見つけ出していく意志。自分の中にいる怪物に気がつきながらも、それをうまく生かせて行けないことへの苛立ちを、やはり私も感じていたんだなということに改めて気づかされたし、世界が明らかになっていくにつれて、自分の中も明らかになり、またその中で自分が何ができて何ができないのかも見えてくる。『進撃の巨人』はそんなドラマだと思うし、この曲に乗せてそれを語られることによって、その側面がすごく突出して理解できた。

こういう二次制作は、著作権的にはいろいろ問題があるのだろうけど、ある種の「作品解釈」であり「批評」であるともいえるわけで、なまじの文章で書かれた批評よりもずっと批評性が強いように思う。『進撃の巨人』のアニメが始まってから『ニコニコ動画』を視聴する機会が増えて、この世界での制作の活況に改めて目を見張った。この作品自体が受験生がつくったというのだから、この裾野はすごく広いだろう。もちろん連載誌の別冊マガジンが中高生当たりが主力読者で、このYuiの曲も十代後半から20代初めの行き場のない焦燥感のようなものを歌ったものだから、この世代が一番感受能力があるのだと思う。

最初のころは『進撃の巨人』のオープニングアニメーション(これもよくできている)を使ったパロディがたくさん作られていて、ジブリの作品や『女子らく』などほかのアニメ作品を使って巨人の世界を再現?パロディ?本歌取り?するというものが多かったのだが、最近多くなってきた(そちらに自分の関心が移ったのかもしれないが)のが、アニメの内容を(原作漫画の内容も含めて)自分の手描きで表現し、それをアニメにしてみせるというものが多くなってきた。こちらはOPの曲を使うのでなく、いろいろなアーチストの曲に乗せてそれぞれが解釈した『進撃の巨人』の世界を表現するというもので、このミェシェさんの作品もそれにあたる。これはすごく可能性を感じさせる方法だと思う。(著作権的な問題は完全にはクリアできないが)

秋葉原に同人誌を見に行ったときもその質と量に圧倒されたけれども、こちらの方もそういう溢れるがごとき膨大な無償の情熱にあふれている。80年代の初め、私たちが演劇をやっていた頃の情熱のようなものをすごく感じるのだけど、私たちの時代だって結局は野田秀樹や唐十郎、寺山修司たち作品を無断で上演したりしていたわけで、結局ある種の二次制作だったのだ。そしてその中でそれをやり続けている人の中から本当のオリジナルが現れてきた。

新たな才能を育てる、これらの才能をクールジャパンの名のもとに日本資本主義の新たな尖兵に仕立て上げたいという意思があるのなら、彼らの活動を弾圧するような方向へ行くのではなく、彼らがより自由に活動でき、また先行者たちの利益を侵害しないような方法を見出していくことにもっと積極的に取り組むべきだろう。

この感受性のようなもの、よく考えてみるとこういうのってある意味村上春樹とかにも通じるところがあるし、こういうひりひりした感受性みたいなものこそが日本の輸出すべきある種の商品なのかもしれないという気もした。

まあ日本資本主義うんぬんはともかく、私自身にとってもこういうものは大事にして行ってほしいものだと思うし、そんな方向へ行ってくれるといいなと思う。


【『進撃の巨人』と『魔法少女まどか☆マギカ』】

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『進撃の巨人』以前に最近、自分にとっての情念というかそういうものを思い起こさせてくれた作品は、考えてみれば『魔法少女まどか☆マギカ』だった。この二つの作品について考えていると、いろいろと共通性があることが分かってきた。

『まど☆マギ』の魔法少女たちはみな中学生であり、『進撃の巨人』の主人公たちは15歳前後の少年少女たちだ。このくらいの年代の少年少女が人類を救う、というのは『エヴァ』もそうなのだが、それ以前は実はしばらくそういうものはなかった。ウルトラマンにしても仮面ライダーにしても主人公は青年であって少年ではない。『宇宙戦艦ヤマト』も主人公は青年だった。地球を救う、人類を救うのは青年の仕事だったのだ。

しかしそれ以前にさかのぼると、『鉄人28号』で鉄人を操る正太郎は少年だし、昭和20~30年代の手塚治虫のマンガも少年たちが活躍するものが多い。これは誰かが分析していたが、第二次世界大戦に負けた日本では大人の権威が失墜し、少年たちに希望が託されたことと無関係ではないのだという。しかし高度経済成長を経て大人たちが自信を回復してくるにつれ、少年漫画の主人公もまた大人になって行ったというわけだ。そして子供たちは大人になることに憧れて、成熟への希望を持つようになった。

しかしバブル崩壊を経て日本が停滞・混乱を始めると、再び大人たちは自信を失い、「世界を救う」「人類を救う」役割が再び少年少女に戻ってきた。しかしそれは戦後の明るい希望に満ちた「新しい人類」への希望ではなく、どこか現実離れし、日常と超越的な人類の脅威との戦いの中間の「社会性」のようなものが一切捨象され、喪失してしまったいわゆる「セカイ系」として現れた。

私はその時代のアニメはあまり見ていないので、まあそういうある意味ステロタイプな分析が何となく当たっているという感じで見ているだけなのだけど、それが一番徹底したのが『まど☆マギ』で、5人の中学生の魔法少女たち以外は世界の救済に全くかかわってこない。その中でお姉さん格のマミさんは12回の放送の第3回にすでに「戦死」してしまう。誰も頼るもののない中で戦い続ける少女たちを、ぎりぎりのところでまどかの決意がすべてを救う、という壮大なストーリーなのだが、その心情の描写に抽出された純粋な情動のようなものがあって、そのあたりがすごく感じさせられるものがあったのだけど、『進撃の巨人』は大人のヒーローも出てくるし、少年たちも自分の未熟性を十分に自覚している。

また、まど☆マギの少女たちはマミさんが家族を失い、杏子が父親の失敗を背負っているという社会性を持っている以外は、ほむら、まどか、さやかはそういうものを持っていない。それに対して進撃の巨人のキャラクターたちはそれぞれ、エレンは母親が巨人に食われたことによる復讐の決意を、ミカサが両親を強盗に殺されたというトラウマを、アルミンが「無謀な王政」に対する強い批判を持っているという、それぞれに社会性を背負っていて、こちらの方がずっと私自身にとってはリアリティがある。

それを考えると、まど☆マギが東日本大震災の、日本にとってはどん底の時期を象徴し、『進撃の巨人』が(アニメが、だが)アベノミクスがもてはやされる、絶望の中で鈍く光る明るさのような今の時代を象徴しているようにも思える。

共通点ということで言うと、男女関係はないことはないけれども、エヴァなどに比べるとずいぶんフラットな感じになってきているし、(エヴァを始めてみたのは最近のことなのだが、あまりにお色気性みたいなのが強くて最初はむしろ驚いた。そのあたりはかなり80年代性を引きずってたんだと今では思うが)主人公の位置関係のようなものも、主人公であるエレンと、彼を守ることに執着するミカサの位置関係が、主人公であるまどかと彼女を守ること、すなわち魔法少女の契約を結ばせないことに執着して時間の無限ループに墜ちていくほむらの存在にかさなる。ミカサもほむらも、感情を殺してエレンとまどかを守ることに専念する超人的な存在であり、ある機会にその心情が爆発することも同じだ。

ツイッターである方が、進撃の巨人に関して「太平洋戦争中の少年兵の心情にしか見えない」ということを書いていて、それは確かにあるだけに作者も細心の注意を払ってそういうものにしないようにしているということがあるなと思った。しつこいぐらいに、戦う意思がないものは去れ、それを罰することはない、と言明するシーンが出てきて、少年たちはその中で自分自身に戦う意思を問い、恐怖に震え、涙を流しながらも戦うことを選択する。そして「死ぬことができるか?」という問いに対して「死にたくありません!」と答えるのだ。そして体調は「みな、良い表情だ…」と答える。意志だけを純粋に問うということで、半強制的だったと伝えられる第二次世界大戦での記憶を否定しようという意図がそこには強く感じられるし、つまりこれは「武士道」ではないんだ、ということを強調している。

私は少年時代に白虎隊の最期に感動した人間なので、いずれにしてもこういうものには弱いのだが、どんなにつらい現実の中でも戦うことに魅かれ、それに突入して行ってしまう少年たちの心情というものが、ある種の人間性の原点のように感じてしまう。

そういう少年たちの自己犠牲による人類救済というのはやはり、それが少年たち自身の欲望でなければリアリティを持ちえない。まど☆マギはある意味そこを「行動しない主人公」であるまどかが最後に「本当に自分を生かす」「誰も泣かさない」ために、世界のことわりに変貌するという予想不可能な壮大さで物語をまとめ上げるわけだが、心情で言えばあまりに菩薩的で凄いなとは思うが凄いとしか思えない。『進撃の巨人』の方はエレンが「巨人を駆逐する」という具体的な目標を持っているし、すべての登場人物が抽象的な頭でケンカしているみたいなところがなく、そう見えていても実は具体的なことをしているというところが分かりやすくて、まあある意味そこがリアリティに欠けると言えなくもないが、壮大な組み立てパズルになっていて伏線が具体的で、まだまだ先が長いことを感じさせ、興味がつきない。

ふと考えてみて、そういえば私は幼稚園児の時に見た『妖怪人間ベム』以来、わりと暗めの話が好きだったのを思い出した。童話や絵本も『赤い蝋燭と人魚』みたいなのが好きだった。エドガー・アラン・ポーの『赤死病の仮面』とかも、幼稚園の時に読んだ。そういうのをダークファンタジーと総称してしまうとなんだか安っぽい感じがして嫌なのだけど、人間が生きることに必ず付きまとう死の匂いとどう付き合うのかということは人が生きる上で避けられない問題で、それを通してみるとマルチン・ルターの「明日世界が滅びようとも、今日あなたは林檎の樹を植える」という言葉が深みを持って浮かび上がってくる。

つまり、人は死を友としてしか生きられない、ということで、死を友とすることでより良く生きることこそが情熱の原点だということなのだろう。死に向かって走り続けるようで、その矛先を上手にかわしながら自分の願いをかなえていく。

一面、そういうものから遠く離れたところにいたくて、地に足がついた生き方をしたいと思い、実行してきた面もあるわけで(あんまり普通の意味でではないけど)、しかし情熱というものと近いところにいたければ、もっと命がひりひりするようなところにいなければならないのだと、改めて思った。


【『進撃の巨人』ノベライズ/『ティム・ガンのワードローブレッスン』】

ティム・ガンのワードローブレッスン ~“最高の私
ティム・ガン
宝島社

そのほか買った本について少しだけ。光野桃『おしゃれのベーシック』を読み続けているが、昨日は横浜に行ったときに有隣堂で『ティム・ガンのワードローブレッスン』という本を買った。いわゆるファッションのことについて、女性向けだと女性のことばかりになるし、それでも面白い本は面白いが、私の服装について参考にならないから物足りないよなあと思っていたら、この本は男性のファッションのことについても書かれていて、アメリカ人らしいユーモアがあって面白いと思い、買ってみた。身近なアイテム、下着やTシャツ、スーツ、ベルト、セーターなど日常に着られている者たちについてその起源まで遡り、着方のヒントなどを添えて参考になる知識と考え方を授けてくれる、という感じの本。男でも女でもスタイルを整えたかったら補正下着を使え、というある意味明快な断が下されていて、そういうところが面白いと思った。従うかどうかは別にしても。

進撃の巨人 Before the fall (講談社ラノベ文庫)
涼風涼
講談社

それから、夕食の買い物にアリオ北砂の福家書店に行ったとき、『進撃の巨人』のノベライズ本の1巻を買った。こちらはエレンやミカサたちの時代の数十年前のシガンシナ区を舞台に、立体機動装置や超硬質スチールの由来についてその謎が明らかにされていくという展開。このあたりは諌山の設定をそのまま使っているのだろうか。ノベライズ本はこれがラノベというものかという感じで(実は読んだことない)すごく読みやすくてサクサク進むが、原作漫画のようなどうしようもない怖さみたいなものは今のところない。『進撃の巨人』の世界のイメージを広げるには役に立つかなという感じはするので、たぶん全巻読むことになると思う。

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