自分自身を問い直させられる本:「表現する幸福」と「自分」というもの

Posted at 13/03/21

【自分自身を問い直させられる本:「表現する幸福」と「自分」というもの】

物語論で読む村上春樹と宮崎駿 ――構造しかない日本 (角川oneテーマ21)
大塚英志
角川書店(角川グループパブリッシング)

大塚英志『物語論で読む村上春樹と宮崎駿』(角川Oneテーマ21、2009)読了。表題からは一般受け狙い感が漂うが、中身はかなり本格的な議論で、かなり読みでがあった。副題が「構造しかない日本」とあるが、これは村上や宮崎に代表される80年代以降の物語作家・表現者たちがなぜ世界に受けたのか、という内容の議論である。結論から言えば、彼らが使っていたのは『スターウォーズ』と同じ、あるいはそれを導き出したもともとの物語論、プロップ『昔話の形態学』やキャンベルの単一神話論、ボグラー『神話の法則』と言ったいわばグローバルスタンダードの物語構造をかなり忠実に使って作られているからだ、ということを言っている。

こういう議論を読むのは初めてではない、たとえば『魔法少女まどか☆マギカ』などの物語構造について分析している沼田やすひろ『「おもしろい」映画と「つまらない」映画の見分け方』などは読んだことがあったが、これはそれらの本をさかのぼるとロシア・フォルマリズムやその系譜を引く構造主義に行きつく、というアカデミズム的な角度からの分析がなされていて、なるほど、というかなんだ、そうだったのか、と思うことがたくさんあった。

プロップらのもともとのアイデアは、すべての神話・物語には共通する要素があって、それらを拾いだして行くと物語を構成するのに必要な最小の単位が見えてきて、それらの要素を再構築して構造を作れば、あとはさまざまな具体的なものを「代入」することで物語はいくらでも作れる、というようなことのようだ。私は最初、物語のタイプ分け――たとえばニニギノミコトがコノハナサクヤヒメを娶りイワナガヒメを返したために寿命ある存在になってしまった、という説話は大きく言えば「バナナ・タイプ」と言われる類型に属するなど――の話かと思ったらそうではなくて、世界のすべての神話や物語は要素に分解することができるし、逆に言えばその要素を組み立てればグローバルに通用する物語でも作ることができる、という実にハリウッド的な使われ方をしている思考があって、意識か無意識かはともかく村上春樹と宮崎駿はその文法・構成に沿って物語を作っているのだから必然的にグローバルに受け入れられるものになるのだ、しかしそこに実際にあるのは中身ではなく、「構造」であり、つまりジャパニメーションが受けるのは「構造だけ」であるからで、「日本の凄さ」が受け入れられていると考えるのは錯覚だ、ということを言っているわけだ。

まあこの本の内容の主筋はそういうことなのだが、私は大塚英志という人の文章をこれだけまとめて読んだのは初めてだったので、いろいろと彼の思想全体から考えさせられることも多く、大変大きなインパクトを受けることになった。先週、3月11日~14日にかけて読んだ橋本治『美男へのレッスン』上下がすでに今年もっとも面白かった本だ、と思ったということを書いたけれども、この本もそれに勝るとも劣らない。両方とも今の自分にとって必要なことがたくさん描いてあったと思うが、橋本の本はむしろ私を元気づけてくれるような内容だったけれども、今回3月18日~21日にかけて読んだ大塚の本はまさに私の根本的な部分をいろいろと問い直して来るようなものを感じさせられた。

自分自身への問い直しというのは、当然のことだがこの内容なわけだから、まず第一には自分の創作そのものを問い直すということだ。

私は年だけは食ってしまったけれども、何十年も自分のやりたいことを模索しながら来ているので、なかなかその世界での基礎になるような知識、あるいは教養というか常識というか、そういうものに欠けているところがある。これはまあ子どものころからそうで、何でも基礎を身につけるということが一番苦手だった。わかるものは何も考えなくても苦労せずに出来てしまうことが多かったので、実際にやりたいことのやり方を理解し基礎から身につけて行くという訓練を自分に課すことが非常に不得手だったのだ。自分のやり方、考え方が何か違うということはわかるのだが、どこが違うのか、どこをどう直せば出来るのか、というところがいつも全然わからなかった。勘だけで行けるところまではいくのだが、それはもちろん大した所まではいけない。しかし、点数を取るだけなら何となくできてしまうために、きちんと問題を表面化させることができずにあとに禍根を残すということが子どものころからいくつもあった。

その中で、はじめて自分なりに基礎から理解できたと思ったのが演劇の方法論だったのだが、まあこれについて書きだすときりがないので別の機会に書こうと思う。その次には教育実習で身につけたと自分では思う、授業の構成の仕方、進め方、やり方。まあこれは一斉指導の塾であるとか、高校の授業や短大の講義などいろいろに応用が利かせられたので生きていく上ではかなり役に立った技術であると言える。その次は大学院へ行っての歴史学の研究方法ということになるが、これに関しては結局は身につけきれなかったなあと思う。語学力の問題もあり、体力の問題もあり、議論の上での方法論的な理解や、史料を収集しそれを読み解いて行く根気、そして一番根本的には歴史的事象への本質的な興味関心の強さという点において、自分の限界のようなものを強く感じてしまった。

結局やってみてわかったのは、私が歴史というものに魅力を感じていたのは「語りの題材」としての面白さ、魅力であって、歴史的事象そのものを追究して行くことに実はそんなに熱意がなかったということだった。今にして思えば結局、私は語っているとき、叙述しているとき、書いているときが一番幸福なのであって、つまりは「表現する幸福」の中に生きているのだ、ということなのだ。舞台に立つことと教壇に立つことにはその幸福が共通していて、歴史的事象の探究というのはそれとはまた別のことだ。「人前に身を晒す」ということ自体が私は楽しいのだけど、最近思うのは書いているときそれ自体が楽しいということで、物語をいつまでも書いていたい、「書く幸福」の中にいたいということだ。つまり、私は身を晒すことだけでなく、表現することならばすべて幸福に感じるわけで、それは例えばカラオケでもいいし、何となくギターを爪弾いたり、電子ピアノで知っている曲のメロディに簡単な伴奏をつけて弾いてみたり、あるいは安い花でも買ってきて自分がいいと思ったように生けてみたり、こんまりさんの『人生がときめく片づけの魔法』の中に書かれていた洋服のたたみ方に従って箪笥の中をきれいに整理したりすることですら、基本的に幸福に感じる人間なのだということを理解したのだ。

まあその表現という方法使うことによる幸福の中で、生きること、つまりお金を稼ぐことに結び付いたのはわずかな例外を除けば「教えること」だけだ。しかし「教えること」というのは「教えていいこと」あるいは「教えることが望まれること=需要がある」ことは限られているわけで、やはり自分の中にあることすべてを表現することはできないし、そうやって制限をつけて行くことで自分の幸福、「表現する幸福」自体が侵食されて行くという危険もまた感じているし、実際に侵食されてしまったこともある。だからできれば教えるということが介在しない形で表現することで生きていけるということが理想だとは思う。

話は相当脱線したが、つまりあれかこれか分からないまま自分のやりたいことを模索し続けてきたために、それぞれの分野についての基礎みたいなものをきちんと身につける機会に恵まれていないまま実行していることがたくさんあって、この「物語を書く」ということもまたその一つだということをこの本を読んでまざまざと実感したのだ。

そういうわけで、「自分の創作」というものは「自分の幸福」というものと分かちがたく結びついている。その創作において基礎的な知識・教養がないということはどうなのかということなのだが、私はむしろそこにおいてはプリミティブ・アートではないけれども、そういうものがない方がそれにとらわれずに書ける、という考えが割合強かった。しかし実際にこうして読んでみると、そういうことがもし常識としてとらえられているのであれば、実際に書籍としての出版を考えているときにその知識が自分にだけ欠けているということは常識的に考えてあまりいいことではないと思ったし、知識として持っていてそれが弊害になることもないというようにも思った。表現の要素を一つ一つの要素、手塚治虫が言うところの『記号』に分割して再構成して行くというのはデカルト的な要素還元主義そのもので、つまり物語という自分にとっては神聖な分野に近代主義のメスが入るというかなり痛みを伴うことだなと思いはしたのだが、現代に生きる物語作家たち=小説家たちはおそらくみなその痛みを経験しているのだなとも思うし、それを経験しなければその先へは行けないのではないかと思った。

ということは今考えていて思ったのだけど、それよりも自分にとって痛さを感じたのは、結局そういうことをやってある種の方法論が規定されて行くことで「物語を書く」という行為に枠がはめられて行く、何ができて何ができないという限界を定められて行くことのように感じられ、そういう意味での絶望のようなものを感じたことだ。

しかし、これもまた読みながら思ったことだが、私は私のやりたいと思うことに一度徹底的に絶望する必要があるのかもしれないとも思った。絶望するというのはつまり、先が見えること、つまりは全体が見えることであって、そういう意味で全体をつかんでおくことは、おそらくこれからも創作を続けていく上では必要なことだろうからだ。

まあそういうわけで、創作の分野に関しては、一度落ち込みながらも立ち直ってきた感じがある。一度自分の中で「物語」というものの意味、価値、存在感みたいなものがものすごく大きな転回を迫られたなと思う。まあ正直言ってかなり素朴なスタンスで書いていたということなんだろうと思う。それが悪いとも思わないが、やはりアピール力には欠ける部分があるだろうなとは思う。その辺のところをうまく使っていかないとと思う。

二つ目は主体のあり方の問題だ。つまり自分というものをどう考えるか。これは物語とも関わるが、主体の成長物語=教養小説=ビルドゥングスロマンという19世紀的なものを肯定するのか否かということとも関わって来る。大塚は、近代を批判するポジションとしてのポストモダンかあるいは民主主義をはじめとする近代的価値を評価する近代主義者としてのポジションを取るかの二者択一があると言い、自分は後者を取ると宣言していて、なるほどなあと思った。

私はもともとむしろポストモダンというよりも、諸星大二郎的な古代性というか、ある意味でのプレモダンのモダンへの侵食みたいな方に関心があるので、このあたりのところは難しいところだが、やはり少年の成長物語である『本の木の森』は主体の成長というところに重点があるからそういう形を取っているなと思う。まあたぶん、この小説は分析する人が分析すればいろいろな『記号』に還元することはできるんだろうなと思う。されて嬉しいかどうかは別だけど。

まあいずれにしても主体とか近代的自我に対してどういうポジションを取るかは問題になって来るということを意識しておく必要はあるだろう。それは書きながら答えを見出して行く問題でもある気もするが。

三つ目は男性性と女性性の問題、特に女性という存在をどう見るかということなのだけど、女性がか弱くて男の援助によってのみ救われるという形のアンドロメダとペルセウスのようなビジョンは現代ではなかなか成立しにくくなっているということは言えるだろう。そうなるとある程度女性の強さというものを描くことになるが、その時にその女性の強さをフェミニズム的なもの、すなわち「近代的自我を持って自立したことによる強さ」ととらえるのか、グレートマザー的な強さ、つまり「地母神的な母性による強さ」として描くかという問題が出て来る。宮崎アニメにおいても『風の谷のナウシカ』は従来の男性ヒーローを女性に置き換えるという動機に母性的な要素を加えるという形で成り立っているが、『崖の上のポニョ』ではデボン期の海=羊水的な海に浸される世界、という形で母性が超越的なものとして描かれていて、かなり様相が変化してきている、という大塚の指摘は面白いなと思った。

宮崎アニメにおいては女性の自己実現というテーマが終始一貫して出ているが、その時に男の側はそれとともに自分も自己実現する「天空の城ラピュタ」や「もののけ姫」のパターンと、自分が助けられる側になる「千と千尋の神隠し」や傍観者になる「紅の豚」といったパターンがあって、「ポニョ」になるとポニョと宗介の両方の母親に守られる形での結末となり、母性が完全に優越した物語になっている、というわけだ。

もちろん良妻賢母型、内助の功型の強さという設定もできる。最近のストーリーではなかなかそういうものも見ないけれども。

ちょっとおしまいのほうは尻切れトンボ的になってしまったが、自分の創作というもの自体を考えさせられただけでなく、自分というものをどうとらえるかとか、男とか女とかいうものをどうとらえるかとか、先週の橋本治に続いてかなり根源的な問いを考えさせられる本だった。

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