アスペルガー症候群と私/脱原発運動と日本のデモクラシーの未来への新しい可能性:コンサマトリーとインストゥルメンタル

Posted at 12/07/03

【アスペルガー症候群と私】

昨日も書いたけど、友人に譲ってもらったテーブルが届き、部屋の景色が変わって今まで視線に入らなかった部分に興味が出てきて、こんなふうにするとよくなるなというのが感じられるようになってきたので、しばらく一定の時間を取って部屋を楽しくする試みをしてみようと思っている。昨日IKEAで見た照明がいろいろ楽しかったのだが、しかしそれを直接使うとどうかなという部分もあるのだけど、いろいろ試したりしてみるのもいいかもしれない。

ものを考えていると堂々巡りになってくるというか全然新しい展開が出てこないことが最近多くなってきたのだけど、どうもそれは自分の中に「思考」の部分と「主体」の部分があって、「思考」だけが暴走し、「主体」は昼寝をしている、みたいな感じのことが多いからだなと思った。思考の論理だけで行くと理屈はそうだけど納得はできないな、みたいなことになってしまい、さて実際に行動を起こそうと思っても全然やる気が出ない、みたいなことが多くなってきた。

昨日日中、散歩をしていた時、私は「つまらないこだわり」が多すぎるなと思った。それは昨日の朝見たASD、アスペルガー症候群の特集を見て、まあいまではあまり当てはまらないけど昔は結構そういうことあったなあと思うことがあって、でもそういう状態を自分がどういうふうにして乗り越えてきたかなんて言うことを思ったのだった。まあいってみれば、自分で自分なりの方法を見出して、それなりに社会に適応していくすべを見出しはしたし、人の考えていることとかも子どものころに比べれば大分わかるようになったりはしているのだけど、いまでも自分が引っ掛かるところってASDの人が引っ掛かりやすいようなところが多いのではないかなと思った。

ASDの人が困るのは、想定してなかった事態が起こると対応できないとか、おそらくは自分がメルクマールにしているいろいろな人の反応パターンや人だけでなく現象のようなものが自分が想定している通りに起こらなかった時にパニクってしまうのだと思う。

私も調子がいい時はいくらでも臨機応変に対応できるのだけど、精神的にやや外界を拒否したいような状態になっているときは新しいことが起こるのをすごく嫌う部分があって、そういう時に「これはこういうふうに対処する」とか「状況を変化させる可能性のある行動はしない」といった自分で自分を縛る「こだわり」のようなものが生まれるのだと思う。そして気持ちがだんだんオープンマインドになってきてもそういう部分のこだわりがなかなか解けず、無理に解こうとすると自分を偽っているような気持ちになってひどく落ち込んだりする、というようなことがあったりする。

しかしまあ、自分の反応をそういうふうに整理してみると、これはマインドが閉じているときには自己防衛のために必要であっても、マインドが開いてきた時には必要ない防御であって、そういうものを外しておいた方が世界を楽しめ、味わえるのだということが納得しやすくなった。

まあ見た限りでは私はASDというほど、つまり「障害」のレベルまでは行っていないけど精神的にはそうなりやすい「傾向」があるということだなと思った。まあそれは人間的な「癖」のようなものだから、自分でそれを把握しておけば不調に陥った時に対策は立てやすいし、気分が回復してきた時に何をどう取り払っていったらいいかも考えやすいのだと思った。

昨日IKEAに行ったのも実はそういう意味もあった。普段なら日本橋・銀座・大手町・神保町の狭い都心の中で気分転換をしようと出かけるのだけど、昨日はどこへ行っても気分が変わりそうになかったし、いまはものを考えるのに疲れているところがあって、本も読みたくない。普段長野県にいて東京にいるときまで田舎へ行くのも抵抗があって船橋のIKEAに行こうという発想がなかなかなかったのだけど、友人が「いいよ~」と勧めていたのとテーブルが届いて椅子が欲しいなと思うきっかけがあったので思い切って出かけたのだった。出かけてよかった。

一つにはIKEAのシステムが自分勝手に逍遥できるようなものではなく、一直線上にその時やらなければならないことが明確だという、まるで「仕事に行く」ようなシステムだったということもあった。いいなと思った椅子をなんとなく覚えていて倉庫みたいなところへ行ってもどれだったかわからない。仕方ないから引き返してもう一度見たが、それがまた長大な距離だった。まあなんというかユニバーサルスタジオでバックトゥザフューチャーに乗っているようなもので、向こうがあつらえたとおりにこちらが行動しなければならないわけだ。「こういうふうに行動してくれ。そうすれば安くできる」というわかりやすい仕組みにちゃんと従ってみると実はそんなに大変ではないし、ものもいろいろ気が利いてるし、食べ物もユニークだ。わかっていてほしいものがあって出かけるならかなり使えるなと思った。気分転換にも確実になる。何しろすべての品が買う気になったら買える値段なのだから。というわけで随分楽しめたのだった。


【脱原発運動と日本のデモクラシーの未来への新しい可能性:コンサマトリーとインストゥルメンタル】

昨日ネットで見たネタで一番参考になると思ったのがこちらのブログ。国分功一郎という人は今まで知らなかったが、スタジオジブリの広報誌『熱風』の2月号に書いておられるということで、ひょっとしたら持っているかもしれない。最近の日本のデモクラシー関係のことでいちばん興味深い現象はやはり反原発・脱原発のデモに多くの人が集まっているということだと思うのだが、まだ実際に(現在ほど)そういうことが起こる前の段階での考察なのにずいぶん当たっていると思われる分析があった。

民衆はなぜ行動するのか。これはもともとデモとは「示威行動」であるように、自分たちの意思を政治に対して示すところに意味がある。だからデモはデモクラシーという「制度」を超えて、もっとその根源的な意味でのデモクラシー、すなわち『民衆の力』の誇示、というところに意味がある。だから実際に首相官邸に「再稼働反対」の声が届くことは大変重要なことだ。まあ日本ではなかなか民衆運動が政変に結びついた例がないけれども(大正政変とかまあ米騒動とかもそうか、そういうものはあるが)それは権力側が断固たる意志を示して乗り切ったという側面が強いだろう。まあ戦後の混乱期には裏では機動隊だけでなくやくざや右翼も使ってたことはよく知られているし、そういう負の歴史が日本の民衆運動に影を投げかかていることもまたあるのだけど。ただ現在のようなシンプルな主張、政治的色彩の弱い主張にこれだけの人が賛同するようになった時代には、また新たな展開が起こる可能性があるのではないかと思う。

古市憲寿の『絶望の国の幸福な若者たち』への言及があって、それがとても面白かったのだけど、パーソンズの分析によれば人間の行動にはインストゥルメンタル(道具的)な側面とコンサマトリー(それ自体を目的とする)な側面があり、未来のために現在を道具として使うという生き方でなく、現在をそのまま楽しむ生き方を若者たちがし始めている、という話で、それをどう受け取ればいいのか古市を読んだときには今一つよくわからなかったのだけど、国分はそれをモラル・エコノミーというもう一つの軸を示して現代の若者の行動軸を説明していて、それはすごくよくわかった。つまり実際に現代の若者は行動を起こすわけで、それは自分たちの生活に納得できない変化が起こった時、つまり倫理的な問題を感じたときに行動を起こす、それは政治経済的(ポリティカル・エコノミーが対立概念)な整合性からではなく、自分たちの内なる秩序での倫理観に基づいて行動する、のだという。そう考えてみると、つまり現代の若者の行動パターンはフランス革命以来の民衆運動と同じパターンなんだ、と納得できる。

コンサマトリーな視点で生活を楽しんでいる若者たちが、自分たちの生活と人生、倫理観を脅かすような事態が起こった時に、モラルエコノミーに基づいて行動を起こす、ということなのだ。

つまり、ツイッターで『対案を出せ』とか言っている人たちはポリティカル・エコノミーの思考に縛られているわけだけど、脱原発運動の人たちはモラルエコノミーの観点から、自分たちにとって納得できないことは納得できないとちゃんと行動で示そうという観点から行動しているのだということがよくわかり、大変納得がいった。

まあここではエリートと大衆の二分論が成立しているわけだけど、複雑な社会になっている現在では実際には多くの人が大衆の部分とエリートの部分を持っているわけで、その辺の部分がうまく整合性が取れるようにしていくと日本の民主主義に新たなパワーが加えられるのではないかと思った。

私は正直言って原発問題の最適解はつかめてはいないのだけど、こうしたひとびとの意識と担当者たちの努力と誠意をうまく合致させ、新たな力にしていくことこそが政治の役割だと思うし、日本が新たなる時代を迎えるのに大切なことなのではないかと思ったのだった。まあ楽観的すぎるかもしれないけどね。

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