自分に出会う

Posted at 12/07/05

自分に出会う、というのはこういうことを言うのだろうか、と思った。火曜日に帰郷する特急の中で、モラル・エコノミーについてiPhoneで調べたりしていた時のことだ。


インストゥルメンタルとコンサマトリー、モラル・エコノミーとポリティカル・エコノミー。今日を生きるときに、それを今日を楽しむために生きるのか、明日の自分のために今日の自分があると考えるのか、というのが「今日」を道具としてとらえるのか、生きること自体を自己充足的に楽しむことができるのか、の違いだ、ということを考えていて、またモラル・エコノミーというのは統治者の統治の数理的・功利的な論理に対して民衆自身が持つ自然に形成された倫理感に基づいた(主に経済的な)行動であり、数理的に最適解・最も功利的な解、つまり「最大多数の最大幸福」を求める統治行動がポリティカル・エコノミーの本質だ、ということも考えていた。また一方で河合隼雄が茂木健一郎との対談で言っていた中心統合構造と中空均衡構造、これは西欧的なトップダウンの中心を求める感覚と伝統日本的な中心は空の存在でそれをめぐって全体が何となく均衡している構造の違い、みたいなことも考えていた。それはリーダーが存在する運動体と最近のウォール街占拠や官邸前脱原発デモのような中心が空の運動体の違いでもあるのだが、そういうさまざまなものに対して同時にとらえ方を無意識に検討していたようだ。

今日は今日として楽しむ、という方がより妥当性が高いと最近思ってはいたのだけど、なかなか実際に自分がそうならないのはなぜなのかということを不思議に思っていた。たまたま特急の中で上に書いたようなことを身体論に当てはめてみると、頭で身体を管理しコントロールしようという西欧医学的な考え方がポリティカルな立場で、身体のことは身体で何とかする、出来るようにすることを目指す野口整体の考え方が言わばモラルエコノミーになぞらえられると思ったのだ。

私は身体論に関してはもうかなり明確に野口整体の考えを支持しているので、そこでふっと腑に落ちたような気がしたのだった。私は民衆側の人間なのだ。

民衆側というと言葉が固くなるが、つまり統治者側と民衆側というふうに考えてみると、私は民衆側の人間だということだ。考えてみるとアートというものはひとびとの無意識や美意識を奥底のすべての人に共通するどこかからくみ上げて表現に積み上げる仕事なわけだから、アートというものは本来的に民衆的な仕事なのだ。現象的にどう表れるかはともかく。私はエリートではない、と言ってもいい。統治者側ではないのだと。

このアイデアがわりと目から鱗だったのは、私が公立高校の教員をやっていたことと無縁ではない。教員というものは公務員だから統治者側の一員であるし、公的な教育活動の一端を担う存在であるから、その仕事は公的な価値を実現するところに目的があるわけで、私はそのあたりのところは実はかなり強く、あるいは深く自覚していたのだと思う。広く認識されている通り、現在の学校現場はさまざまな矛盾や歪みが集中的に現れている場所の一つであり、その現場に立つ人間として、自分としては出来るだけのことをしなければならないという強い使命感を持っていた。口に出していうかどうかは別にして。しかしどうもそれは私自身の人間本来の自然に反する行動だったらしく、結局は体を壊して辞めざるを得なかった。

しかし教員を退職したあとも、その意識だけはずっと残っていたらしい。現場を持っているわけでもないのに、私は無意識のうちに統治者側の意識を持ち続けていたのだ。

その意識を変える働きかけのようなものは何度かあったのだが、最終的に中心にある、無意識の中に深く食い込んだ統治者側の意識は払拭されていなかったのだと今ではわかる。表現の仕事をやろうとしてもそれを引きとめようとする何かが常に心の中で働いて、自分を縛り続けていた。そういうものがあるという自覚はあったのだけど、その正体が全く分からずにいた。

だから、自分が民衆側の人間だという発見は、自分にとっては本当に自分自身に出会うような出来事だったのだ。

一度霧が晴れてみると、自分自身がどういう人間だったのか、そして何をやってきたのかがよくわかる。社会のあり方がこのままではよくない、という意識にしても、統治者側から考えるか民衆側から考えるかで出る結論、考える方向性は全然異なってくる。結局統治者側は今分かっていること、今できることの範囲内でものを考えるしかなく、その範囲内で最大多数の最大幸福を図らざるを得ないから、結局は電力不足による混乱と起こるか起こらないか分からない原発事故とを秤にかければ原発再稼働を認めざるを得なくなるのだ。そのあたりは結局数理的な計算が根拠だと言うしかない。

しかし民衆側の倫理、モラル・エコノミーの立場に立てばそうはならない。想定外のあってはならない事故が起こった原子力発電という仕組みは、やはり何か根本的に間違ったところがあるのであり、その根本的な間違いがはっきりしないうちに再稼働などとんでもない、というのが民衆的な倫理観だ。まあ大雑把な見立てだから個々のケースには当てはまらないことも多くあるだろうけど、反原発運動というのは根本的にモラル・エコノミー的な行動だと思う。

そしてこの概念を提唱したトムスンがいうように、このモラル・エコノミー的な行動は後世からみればバカげた行動かもしれないのだ。たとえばラッダイト運動。産業革命期に民衆は機械を敵視し機械を破壊する暴動的な行動を起こした。それはバカげたことだと歴史的には冷笑的に語られている。あるいはフランス革命期の大恐怖。バスティーユ牢獄の陥落を伝え聞いた農民たちはパニックを起こし、貴族たちに攻撃されると考えた農民たちがフランス中で貴族の城館を襲撃するという事件を起こした。これはジョルジュ・ルフェーブルが「前に向かって逃げ出した」と表現した現象で、やられる前にやってしまえ、という過剰防衛意識が働いたと考えられる。こうした現象は極めて破壊的な作用をもたらしたことは間違いないのだが、だからと言って無意味なことではない、というのがトムスンの主張である。

もちろん統治者側としてはこういう行動に迎合するのが正しい態度とはいえないが、こうした現象が起こる背景を洞察し打つべき手を打てばそうした民衆の反応は潮が引くように鎮静化する。8月4日に国民議会が宣言した封建的特権の廃止によって、大恐怖の現象は一気に沈静化したのだ。

反原発・脱原発の運動も、統治者側・専門家側から見れば理不尽極まりない部分があるのは事実なのだが、民衆側が提起している問題の本質を洞察し、打つべき手を打つことは統治者側の義務だろう。それができなければ次の選挙で淘汰されるのが民主主義の論理である。民衆は当然ながら、問題解決のための解決策を打ち出すことは無理だ。しかし問題を感じていることを表現することはできる。それはやむにやまれない行動であり、それを冷笑するのは表現というものすべてを否定することになる。

もちろん民衆側にそれだけの能力を持った専門家がいないとは限らないが、聞く耳を持たない専門家はいじめの問題を放置している中学校と同じことであって専門家の意味がない。統治者側に立つということはそれだけのことを求められている。

統治者側はどうしても数理的な思考の呪縛から逃れられないが、本当にそれがそれでいいのかという問題提起が民衆側の意志として表明されるのがモラルエコノミーの現象であり、実態調査や問題の解決策の立案も民衆側を阻害せずにおこなうことができれば、多くの不満は沈静化するだろう。

統治者側に立つということは、その責任を持つ部署に携われれば、現実の問題解決に主体的に関われるという点ではやりがいのあることに違いない。しかし、その取れる手段はオーソライズされたものに限られているわけで、新しい手段を開発する自由度は統治者側にはなかなかない。オーソライズされていない手段を取ることは基本的には許されないわけで、それは学校現場において新しいやり方を試行することがなかなかできないということと同じ問題だ。問題は目の前にあるのに臨機応変にさまざまな手段を取ることができない。やってみるとわかることだけど、公教育というものにはものすごい足枷が嵌められているのだ。それは教育だけでなく、あらゆる行政機関においてそうだと思う。

行政に携わるということは、その決められた枠内でやることを割り切れるタイプの人にはいいのだけれど、私のように枠にとらわれずにあらゆる可能性を考えたいタイプには向いていない。いま考えると私も、きめられた枠内で考えざるを得ない状況にどうしても心が萎えてしまい、こころが死んだようになっていたのだなと思う。そこを割り切れ、出来る範囲での決断を信じて実行できるタイプが統治者としての資質なのだと思う。もちろん在職中は結局は私もそうしていたのだけど、やはりそれでは持たなかったのが実際のところなのだと思う。もちろん何をやるにしてもそこを割りきらなければならない部分があることは事実なのだが。

いままで何度も自分の中を見直し、また自分のやりたいことを見出してそれに取り組むためのトライをしてきたのだけど、そしてそれはそれなりにその時はそういう方向へ行っても、どうもそちらへ行ききれないところがあった。それは根本のところにそういうメンタリティがあったからだということが今ではわかる。自分にふさわしいメンタリティを持つということがいかに大事なことかと痛感している。

それがつかめたからだろう、昨日から新しい小説を書き始めている。教員になる前の自分の感性や感覚を少しずつ思いだしてきた。やはり自分はこっちの人間なんだなと思う。

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