趣味に沈潜することとものを作ること/時間がもったいないと思わないようにする

Posted at 11/10/07

【趣味に沈潜することと物をつくること】

今日は午前中松本に出かけてからだを見てもらう。腰はしっかりしているということで安心。どうも今日は朝からぼうっとしているのだけど、それも特に問題ないとのこと。母を乗せていたのに縁石に乗り上げて車の腹をガガガガと言わせたりしてしまったからなあ。とほほだった。

自分のやりたいこととか好きなものとかのことを考えていて、例えば学生の頃、映画はハリウッド映画はほとんど見ないで、ヨーロッパとかアジアの芸術映画みたいなものばかり見ていたことを思い出した。ハリウッド映画だって面白いものはあるのだけど、なぜそういうものを見ていなかったのかということを寝起きの頭で考えていたら、要するに「自分だけが面白いと思うもの」を追求したいという方向性をもっていたんだなということに気づいた。みんなが面白いと思うものと、自分を含めて少数の人だけが面白いものとを比べれば、後者の方を重視する、というのはまあある意味多くの人にある傾向だと思うが、そういうことをやっているうちにある種の「趣味の袋小路」みたいなところに入ってしまっていた部分があるのではないかと思ったのだった。

そういう傾向が強くなると、その当時よく話していた友達とは話は通じても、新しく知りあった人とか今までそういうことについて話していなかった人とはなかなか話が通じなくなる。ここ数年の間に、「これが面白かった」と言われて不承不承読んだり見たりした結果、やはり私も面白いと思ったり少なくとも読む価値があると思ったようなものはけっこうたくさんあって、たとえば村上春樹もそうだし、スターウォーズもそうだし、宮崎アニメもそうだ。誰もが、あるいは多くの人が面白いと感じているというだけで読む気や見る気がなくなるという傾向がかなり長く続いたから、実はかなりいろいろなものを見落としているのではないかとかなり不安になったところがあった。音楽にしても90年代以降の、たとえば渋谷系以降の音楽はほとんど聞いてないから流れが全然わからない。特に90年代は高校教師をしていた時期ですごく心情的・感覚的に頑なになっていたので、その時期のものはかなり広範に受け入れられないまま来てしまったなと思う。

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そういう意味では、2011年のベストアニメといわれる『魔法少女まどか☆マギカ』をまだ旬のうちに見られて、しかもそれを面白く感じられたということは、自分の感覚もまだそうおかしくはないなと自信を取り戻せた部分があった。そういう意味でも見てよかったと思う。

自分が面白いと思う、深くて狭い世界を掘り進めて行くのは、ある種の趣味人の行き方だなと思う。青山二郎が白洲正子に言ったという、「人が見たらば蛙に化(な)れ」という言葉を思い出す。人に理解されなければ理解されないほどいいのだ。その美しさ、その良さを自分だけで独占できるから。しかしそれに徹底することで、その人の美意識が高く評価され、その人に認められれば本物だというところまで行きつける人もいる。しかしその青山二郎にしても、作品としてはこれといったものを残したとは言えない。その恐るべき審美眼は伝説として残っても、その美の世界は片鱗しかうかがうことができない。まあそれが趣味人というものだし、たとえば伝説の大茶人と言われた丿貫(へちかん)とかも何かを残したわけではないが、その審美眼が伝説的なエピソードとしてのみ残っているわけだ。

青山二郎全文集〈上〉 (ちくま学芸文庫)
青山二郎
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クリエイターはそういうわけにはいかないのではないかと思う。もちろん大衆の好みに迎合するだけではつまらないけれども、少なくとも自分だけではなく誰かにはわかるものを作らなければならない。そのためには広い視点と多くの技術が必要だと思うし、自分がなぜそれを面白く思うかということに関しても深い洞察が必要になって来るだろう。新しいものを作るということは、人を動かすということだから、自分は人をどのように動かしたいのかということを自覚しておかないといけない。

私に見えている方向性は三つ。自分自身の趣味、好きなもの、美しいと思うものの方向へもって行くこと。これは割と難しいなと思う。自分がなぜそれが好きなのかとか、説明できないことの方が多いからだ。しかしそうやって放置しておくわけにはいかないな。自分の好きなものについてもっと自分でもう一度深く問い直してみようと思う。二つ目は、より根源的なものへのいざない。神話的な世界や、無意識的な世界への方向性。三つ目は、より未来的な、創造的な世界への出発。未来社会はどうなるのか、未来の生活はどうなるのか。たとえば過日亡くなったスティーブ・ジョブズの仕事はまさにそういうことで、彼はアーチストではないけれどもそうしたテーマをさまざまな斬新な商品をつくりだすことで表現し続けていた。未来の創造はもはやSF作家や社会派作家のテーマではなく、より実務的な企業家たちのテーマになったのかもしれないが、まだこのあたりに文学関係の人の仕事が残っていないわけではないと思う。まあ進歩のスピードが速すぎて、文学の役割はそれに疑問符をつけることになってしまっている面もあるのだけど、それだけではやはり何かつまらない、もっとオルタナティブな提案が出てくればいいのにと思う。

絶望の国の幸福な若者たち
古市憲寿
講談社

趣味人は幸福かもしれないが、今が幸福であれば当然未来は不安になり、クリエイターは現状は不満であっても未来に希望を持ち、それを実現して行くことで喜びを獲得することができる。それを二項対立的に見ることがいいかどうかは別なのだけど、今の若者たちが案外幸福度が高いという話が紹介されていて、古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社、2011)という本がアマゾンの「社会一般」の分野で二位の売り上げを上げている。この格差社会、この閉塞した社会の中で「幸福」というのはどういう意味なのだろうとぜひこの本を読みたくなるのだが、まあそれは東京へ行ったときに買って読んでみようと思う。マズローの欲求段階説で言うと、どの次元での満足ということなんだろうかとか、そういうことを考えてみたくなる話ではある。

……こういう時代に何を思ってどういうものをつくって行くのか、やっぱりけっこう難しいことは確かだな、と思ったりはするなあ。


【時間がもったいないと思わないようにする】

これはまあ、自分を動かす原動力の一つになっていた呪文のようなものなのだけど、「時間がもったいない」という言葉だ。まあ私は、もともとそういうふうに考える傾向をもっている人なのだけど、特に最近、自分が物を書いて行くということを決めてからは、ムダな時間をなるべく作りたくない、40代終わりになってもう残された時間はそんなに多くない、という思いがすごく強くなって、まるで受験生のように時間がもったいないという感じが強くなっていた。いろいろ考える前に「まず書く」とか、ムダな本は読まないとか、とにかく書く時間を確保するとか、まあそんな感じでとにかく時間を無駄にしないことを最優先していた。しかしそれもまた程度問題で、やはり余裕がないとアイディアも湧いてこないということもあるし、何より体をおかしくしてしまうし、心の状態も変調をきたしてしまうという感じになってきていた。

問題は、自分が何をやるかということをはっきりさせているということで、それさえ見失わなければどんな使い方をしても時間が無駄になることはない、くらいの感じでものを書くことに取り組んで行った方が言いと思うようになった。

起きたあとと寝る前の時間に余白をとるようにするとか、実際にやってみると緩むべき時には緩むようになってくるし、緩むべき時に緩めばそこで発想が出て来るということもあり、ちょっと気負おうとした感じになったときには「時間がもったいないと思わない」と呪文を唱えると気負いがとれるなと思った。その気負いのかげで塗りつぶされてしまったものがすごくたくさんあるなということもだんだんわかってきたし、その塗りつぶされた部分こそが創作にとっては大事なことだったりもするなと思ったりもする。

まあつまり、”Festina lente”、「ゆっくり急げ」ということだろう。ものを、特に物語を書いて行く。時間がもったいないと思わずに。いつか多くの人に読んでもらえる日を信じて。

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