本当のことでなければイミがない/ネットの中に答えはない

Posted at 11/08/12

どうも夏風邪を引いたらしく、鼻がつまったりのどが痛かったり何となくけだるかったり腹が下ったりしているのだけど、まあここで悪いものが出て行ってくれたらまたリフレッシュしそうでありがたいと思う。今日一日仕事をしたら一応明日からお盆休み。三日間だけど、三日続けて休みを取るのは正月と連休とお盆だけだから、ちょっと普段と違うこともできるだろう。

リトル・フォレスト(1) (ワイドKCアフタヌーン (551))
五十嵐大介
講談社

五十嵐大介『リトル・フォレスト』1、2巻読了。いろいろ考えさせられる作品だった。最初はこれは苦手な種類の本だなあと思って読み始めたのだけど、ゆっくりじっくりした気持ちで読むとじんわりとしみとおって来るところがある。山村で生きるということを、まるで桃源郷のように描くのは少しでも田舎暮らしを経験したことのある人間からすればあり得ないことで、最初はどうもそういう匂いを感じてこの世界に入っていけなかったのだけど、読んでいるうちにこの作品にも五十嵐らしいフィクションの設定があとになって結構効いて来るんだということが分かった。作品中、回想場面と手紙でしか出て来ないいち子の母、福子の存在がとても大きい。ハイカラで理屈っぽくて、こんな山奥で娘と二人暮らしをしているのに文学全集とか本をたくさん持ってて、外国人の彼氏がいて、しまいには失踪してしまう。いち子は山奥の分校で育って本校に移っていじめられ、中学生か高校生のときに母が失踪して一人で生活をはじめ、街に出たけれどもなじめずに「小森」に帰ってきている。この小森=リトル・フォレストを舞台に、四季それぞれの村の暮らしが描かれていく中でいち子の物語が紡がれていく。

物語が動き出すのはいち子の二つ下の男子、ユウ太が出てきてからだ。彼は町になじめずに村に「逃げて」帰って来たいち子とは違い、「自分の人生と向き合うために」村に戻ってきている。

「……何か小森とあっちじゃ話されてるコトバが違うんだよ。方言とかいうことじゃなくて。自分自身の体でさ、実際にやった事とその中で自分が感じた事考えた事。自分の責任で話せることってそれだけだろう?そういうことをたくさん持ってる人を尊敬するだろ。信用もする。なにもした事がないくせになんでも知ってるつもりで他人が作ったものを右から左に移してるだけの人間ほどいばってる。薄っぺらな人間のカラッポな言葉をきかされるのにウンザリした。」

今これを書いててよく分かったけれども、これは私の感じていることと同じだ。私の「自分自身の体で実際にやった事とその中で自分が感じた事考えた事」というのはユウ太のように農作業のことをさしているわけではないが、人間と付き合ったりいろいろな経験の中で感じたことだけが実感として確かで他者にも責任をもって話すことができるという感覚はとてもよくわかる。

そういうふうに感じながら経験を積み重ね、責任をもって話せることを増やして行く、というのが「人生と向き合う」ということならば、それは確かにそうかもしれない。

「本当のことでなければイミがない」

これは今日目がさめたときに思いついた言葉でモーニングページに書いてから、これは『リトル・フォレスト』の影響だな、と思った。本当だ、と言える事を書くこと。多分、フィクションについてずっと長い間懐疑的だったのは、フィクションは「本当のこと」じゃないと思っていたからだし、国語教育関係の人と話していて「本当のこと(事実)かどうかなんてどうでもいい」ということをきいて仰天したことを思い出した。リアリティがあるということと事実であるということの違いとか、でもリアリティがあっても<真実>ではないこととか、世の中にはいろいろなことがあるけど自分にとって一番書きたいのはリアリティの先の真実であり、そういう意味であればリアリティそのものは道具にすぎない、ということでもある。アンリアルの先に真実があるならそのアンリアルをいかにして読めるものにしていくのか。リアリティをいくらつきつめても真実に至らないなら、それでもそのリアリズムをどこまでも押し続けるのかそれとも違う方向を考えるのか。自分がモノを書く上でかなり大きな問題になることだなと思う。

「ネットの中に答えはない」

これは昔なら「本」の中に答えはない、と書いたところだろう。昔風にいえば『書を捨てよ街に出よう』ということになる。本を読んで本を書く、もちろんそれもアリなのだけど、それは少なくとも軽い気持ちでやって達成できることではない。やはりいわゆるリアルでの経験の中から「答え」は見つかる。最終的な答えがネットの中で見つかる人だってもちろんいるだろうけれども、ネットの外に出て行くのが怖くてネットの中に閉じこもっているのだとしたらそれはそこでは答えは見つからないだろう。

というより多分この言葉は自分自身に向けて行っていることであって、ネットを極めるならそれもまた一つの道だろうけど、よりリアルな世界を広げて行かなければ書くことも生きることも不十分になるという多分自分自身への警告だろう。つまり「逃げ」としてのネットであるならば、「逃げ」としての山村の暮らしと同様に、そこで答えが見つかることはない、というようなことなんだろうと思う。

翼をもつことと根をもつこと、ということでいえば、ユウ太は小森には自分自身の夢も自分自身のいるべき場所もあるということに気がついたということで、いち子にとっては小森は逃げ帰った母の巣のような意識でいるということに後ろめたさを感じているということになる。つまり自分の生きるべき場所、居心地のよい場所ではあるけれども、何かをあきらめた結果として、自分が持つべき翼を捨てた結果として小森にいるということに自分は気づいていて、だからこそラストでは村を出て行くことになる。

5年後の話は有り得べき可能性の一つとして読みたい感じがする。まあ一つのフィクションの閉じ方としていち子が村に帰って来るという結論は有り得るし、そこで生きて行くためにはそこが「暮らせる場所」になる必要があるわけで、そのためには「村起こし」というのはひとつの必要な過程であることは否定はできない。都会人からしたら夢がないというか山村幻想が破れて幻滅してしまうようなストーリーにも取れるけれども、一つの避けがたい現実と言えなくもない。

この作品のあと、五十嵐は再びフィクションを書き始めたわけで、ある意味自分の中のそういう思考をいち子という形で村において来て、自分は町に戻ってフィクションを書き始めたのかなと思う。私が興味があるのはむしろそういう五十嵐自身かもしれない。そして山村での生活とこの作品が「彼にとって」重要なことであり、そういう機会を持てた五十嵐大介という作家が今後リアリティを超えた真実の物語を紡いでいくことに強く期待したいと思っている。そして自分も負けないものを書こうとひそかに誓ったりする。

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