アルベール・カミュ『異邦人』/映画を「読み解く」ということ

Posted at 10/09/26 Comment(4)»

昨日帰京。昨日は地元の駅からの帰りがけ、ツタヤで『気狂いピエロ』と『大人はわかってくれない』を借りた。まだ『大人はわかってくれない』に同時収録された短篇の『あこがれ』しか見ていない。少し夜更かししたため、朝は起きたら8時を過ぎていた。友人から電話があって午後会う約束をする。9時には散髪に行ったので朝はあまり何もできず、10時半に戻ってきて録画した『ジャイアントキリング』の最終回を見て、洗濯などしながらご飯を炊く。久しぶりに焚いたらお米が一合ちょっとしかなかった。でも炊飯用の土鍋ってやはり便利だ。時間がなくて10分しか水に漬けられなかったのだけど、思ったより美味しく炊けた。昨日実家から持ってきたもらいものの鰻をチンして鰻丼。炊き立てのご飯と、思ったよりずっとうまかった鰻で、満足。洗濯物を干したりがたがたしているうちに時間になって横浜に出かける。

異邦人 (新潮文庫)
カミュ
新潮社

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車中、ずっとアルベール・カミュ『異邦人』を読んでいた。この小説は面白い。思ったよりずっと面白い。この小説は、「昨日ママンが死んだ」という有名な書き出しと、「太陽がまぶしかったから」人を殺したという不条理殺人的な話が出てくる、ということしか知らなかったのだけど、アルジェの町のフランス人という立場、アルジェのアパルトマンから見たアルジェの町の様子、海水浴場の様子など、なんだか不思議な懐かしさがある。フランスにとってのアルジェリアは、日本でいえば満州のような存在だろう。そうするとアルジェは海のある大連、海水浴場は『アカシアの大連』に出てくる星が浦海水浴場みたいなものだろうなと思う。主人公ムルソーたちと地元のアラブ人との対立は、日本人と中国人の不良グループ同士の抗争のようなものか。といってもこれは戦後の地元の底辺高校と朝鮮学校との抗争の構図、みたいなイメージが浮かぶけど、戦前の大連でそんなことあったのかどうかはわからない。ただ、この小説は大連を舞台に置き換えて日本映画として撮ってみると割といいんじゃないかと思った。まだ読みかけなのだけど。63/127ページ、第一部読了。

これは昨日、帰郷の特急の中で『異邦人』を読んでいて感じたことなのだけど、この小説には暗号がある、ということを思った。すごく単純なことを書いているのだけど、なんだか歪んでいる。奇妙な発想がある。そこに暗号が埋め込まれている、と感じる。この暗号を解読することがこの小説を理解することなんだな、と思う。私は今までそういうふうに思ったことはあまりないのだけど、小説というものをそういう読み方をする人は多いんだろうなと思う。大学時代、岩波ホールに同じゼミの女の子と映画を見に行ったとき、感想を話していて「私はまだ、この映画を解いてないんだけど」といわれたのがすごく印象に残っている。映画は解くものなのか、と意外に思ったし、そんな見方をしたらつまらないだろうな、と思ったのだった。

しかしまあ、今カミュを読んでいると「暗号」とか「読み解く」という言葉が自然に出てくる。まあ、「知的に」読み解くとは限らないし、「暗号」というのも比喩であって、「真意」とか言ってもいいのだけど、暗号といった方が感じが出る、というようなものだ。私は映画というものは必ずしも「何か言いたいこと」を読み解くことが映画の見方として良いとはあまり思わないところがあり、それよりは映像とかカメラワークとか音楽とか俳優の演技とか、科白の魅力等々とにかくボカンと映画そのものの魅力を受け入れて反芻しているうちにああそういえばこれはこういうことを言いたかったのかもしれないな、みたいなことに気がつけばいいし気がつかなくても場合によってはかまわない、というようなものだと思っている。

今思ってみると、彼女が「読み解く」という言葉を使ったのは、文芸的な発想だったんだろうなと思う。そういえば見たのは文芸映画だったかな、もう忘れたけど(断言は出来ないが、今岩波ホールの上映記録を調べたらヴィスコンティの『熊座の淡き星影』だった気がする)。小説は文字だけで書かれているから、やはり「言いたいこと」「書きたいこと」があって、それを「読み解く」という作業は心の裏で進行しているし、そういう作業が心をゾクゾクさせるのだと思う。三島とか太宰とかを読んでいて不愉快になったり読めなくなったりするのも、心の裏でのそういう作業が辛くなってくることがあるからだろう。文学の多重性というのは、文字だけからしか情報がないのだから、「言いたいこと」「書きたいこと」の重要性は他のメディアよりも重いのだなと改めて思った。

カミュの暗号は、変だ。変わっている。その暗号の奇妙な魅力がこの小説を読ませる。どんな小説でも作者が描こうとする世界はあるわけだけど、その世界の中での主人公の位置がこれだけ歪んでいるとすごく奇異な感じがする。そこからさまざまな暗号が電波のように発出されていて、その暗号自体がすごく豊穣な感じがする。(私は日曜の午後にムルソーがアパルトマンの窓辺から街を見ている場面がすごく好きだ。)こういう豊穣な世界を描きたいなと割と具体的に思わされた。

横浜では3軒カフェを梯子して、友人と別れたあとルミネの有隣堂で本を物色し、また改装後のルミネは初めてだったのでビショップとかかばん屋とか面白そうな店をいくつか見たのだけど、ファンケルがなくなっていて、食事場所が一つなくなった感じで残念だった。帰りに東京駅構内のアンデルセンでデンマークシリアルブレッドとフルーツブレッドを買って帰った。

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"アルベール・カミュ『異邦人』/映画を「読み解く」ということ"へのコメント

CommentData » Posted by shakti at 10/09/27

カミュの『異邦人』というのは、なんだか不思議な本でしょう? 不思議だけれどよくわからないのは、難解な訳文のせいだと思って、野崎の部分役も読み、英訳も購入しました。英訳はわかりやすいですが、英語なのでまだ全部よめていませんが。。。。 カミュの他の作品では『転落・追放と王国』の短編はオススメです。(『ペスト』も読んだが、よく分からなかった・・・)。

CommentData » Posted by kous37 at 10/09/27

>shaktiさん

コメントどうも。いやあ、『異邦人』、すごく面白いです。ひょっとしたら、今まで読んだ小説の中でいちばん面白いかもしれません。「文学的な特異性」とでもいうべき意味で。またそういう意味で、いまやすごく古典的な感じもします。しかしどのエピゴーネンもこれほど面白くはないですけどね。

最初読み始めたとき、主人公はある種の人格障害なんだろうなと思いました。まだ途中ですが、まあ人格障害であろうとは思うのですが、その目から語られるアルジェの街がすごく魅力的なのがひどく印象に残ります。そして第一部では変わり者と見られながらなんとか社会の一員としてやっていたムルソーが殺人を犯し、それでもならず者を殺したということでそう重い罪にもならなそうな展開だったのに、第二部ではその人格の「変わった部分」が裁判という場所でひどく忌み嫌われ、憎まれていくという展開が面白いなと思いました。

まあ単純かもしれないけど、裁判という場では現実という場にあるときよりも常識的であること、世間の期待に沿った善人であることが何よりも求められ、それを演じられず自分に正直に発言することでどんどん味方を失っていくという展開がすごく興味深いです。

まあ、日本の裁判報道を見ていても思いますが、確かに常識で真実をすべて理解できるという前提で話が進んでいるわけで、まあそんなことはありえないわけですけど、そういうところをうまく突いているような気がしますね。安倍公房なんかと―満州とアルジェリアとか―似ているところが結構あるんじゃないですか?私はあまり読んでないからよくわかりませんが、shaktiさんなら感じるのでは。

CommentData » Posted by shakti at 10/09/28

>安倍公房なんかと―満州とアルジェリアとか―似ているところが結構あるんじゃないですか?私はあまり読んでないからよくわかりませんが、shaktiさんなら感じるのでは。

そうなんですよ。ポストコロニアル文学。ただし、カミュとはそんなに似ているようには思っていませんが。むしろ、キプリングの短編に、砂の女そっくりの作品があります。違いは、前者が砂漠の穴から帰還して、後者が帰還せずというくらいの違いです。主人公はどちらも似たような中産階級。

さて、公房自身にはフランス映画で砂漠で男たちが争う映画の長編コメントがありました。要するに、フランス植民地のアラブ人とフランス人のいさかいなのですが、大変興味深いエッセイでした。満州とアルジェリアという感じでしょうか。(でも映画を見ていないので、よくわからなかった)。

はっきりいって、カミュは不思議な作家です。ただどう評価してよいのかわからない作品ばかり。 

あと、日本では、安易にムルソーに同情するでしょう? あれ、まずいと思うんですよ。やっぱりムルソーて、変なやつだし、やっぱりダメなやつでしょう? 普段だったら、ムルソーなんて、酷いやつだとけちょんけちょんに言われますよ。いつもレイシストのやつだって、「ムルソーだけは許せない!」とか言いますよね。あえて極論を言えば、大阪教育大学付属の例の殺人鬼みたいなやつに見えるのだから。

ところが、小説を読む人間が安易に無ルソーを許そとしてしまう。カミュの小説の主人公だからといって。こういう偽善者ではダメじゃないかなと思うんですよね。

ちょっと変な比喩だけれども、バッハのヨハネ受難曲。合唱団が突然怖い声で歌ったかと思うと、次には優しく柔らかく歌う。これ、イエスを死ね!といっている群衆と、我らの神様イエス様といっているキリスト者の合唱なんです。同じ合唱団が二役やるのは分かりにくいわけですが、人間のあり方を示していると思うとそれがかえって深いようにも思うんですね。

ムルソーはもちろんイエスじゃないけれど、というか、ちんぴらだけれども、一つの受難曲としてもみれるんじゃないんでしょうかね。

CommentData » Posted by kous37 at 10/09/29

>shaktiさん
ムルソーを許すか許さないかとか、本当はあまり関係ないですね。なんとなく肯定されがちなのは、逆に「困ったチャン」で切り捨てられたら文学としてちゃんと読んでもらえないから、という意識なんじゃないかと。ただカミュが好きだからムルソーも好き、になっちゃったら変なんですけど。人物造型としてこういう人だ、ということで別にいいんじゃないかと思いますけどね。

この作品は、どう考えても特異です。他に例がないのにどんどん引きつけられていく。私はカフカよりこちらの方が面白いと思いますね。カフカの書いているのは状況の特異さだけど、カミュの書いているのは人間性の特異さですから。変な人間、感情移入できない人間を一人称で書いているのに面白い。そこがすごいんだと思います。日本の作家のそういうのを読んでいても気分が悪いだけですが、これはそうではないですからね。

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