若い日に父が読んでいた本/才能の秘密/断念と決意/報酬不足と非寛容

Posted at 10/08/18

今日は午前中にブログを更新すればよかったのだけど、結局飛び入りでいろいろやることができてPCに向かう時間が取れなかった。とはいっても、ごたごたいろいろやっている間に気がついたらお昼になってしまったからで、午前中にブログを更新する「計画」を持っていたわけではないのだ。

父の蔵書を整理したり、自分の読みかけで読了してなかった本を読んだり、新しい本を買いに行ったり。このブログに書くことはあんまり生々しい話とかは書かないのでどうしても本を読んだだのどこかへ行っただのという話になる。だから、このブログを読んでいるとたぶん本ばかり読んでいると思われるだろうと思うのだが、実際には読んでいる時間はそんなに長くない。もっとじっくり読む時間が取れ、それにふさわしい体調であればいいと思っているのだけど。なかなかそうもいかない。

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)
マルクス
岩波書店

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父の蔵書を整理している。戦後しばらくしてすぐの岩波文庫などがぞろぞろ。マルクスやらエンゲルス、レーニンなんかもたくさんあるし、ルソーだとかスピノザ、川端康成などなど。国民文庫社、というところの本がたくさんあってもうそんな会社無いよなあと思い、wikipediaで調べてみたら大月書店が三一書房と共同で発行していたものだという。科学的社会主義の学習用文献ということで、まあ全くその通り。父は浪人中に『資本論』を読んだと言っていたが、そのほかのレーニンとかエンゲルスとかの著作もいっぱいある。もう茶色く変色して保存状態もよくないものなのだけど、若い日の父がそういうものに理想への情熱を傾けていたのだろうなあと思うとなんとなく貴いもののように感じる。

巨人譚 (光文社コミック叢書“シグナル” 19)
諸星大二郎
光文社

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諸星大二郎『巨人譚』。これは読みかけで止まっていたが、シュメールからギリシャ、ギリシャから北アフリカの地中海世界、さらにサハラ砂漠の奥への話で、全体的には紀元前1500年ごろに始まる「サハラの砂漠化」を巡るストーリーである。最初に出てくるギルガメッシュが紀元前3000年ごろの話だから、それを考えるとまだその時代にはサハラの砂漠化はまだあまり進行していなかったわけだ。サハラ砂漠に残された古代人の洞窟画にはサバンナに暮らす動物たちがたくさん描かれていることが知られているが、つまりその時代の話ということになる。正直、中国や日本、あるいはSF世界を題材にした諸星作品に比べてアイテムが少ないというか、想像力の翼があまり思うように広がっていない感じがある。さすがの諸星でも想像力の限界というものはあるんだなあと感じさせられる部分があって、そのあたりであまり食指が動かず読みかけになっていたわけだ。後半は中国ものなのだが、これもどこかで読んだことがあるような話で、もう一つ。中学生から20代にかけてものすごく作品世界に没入していただけに、こんなふうに客観的に見てしまうのはなんだか残念な感じがする。

若きウェルテルの悩み (新潮文庫)
ゲーテ
新潮社

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ゲーテ『若きウェルテルの悩み』42/217ページ。まだ2割弱か。ウェルテルが初めてシャルロッテに出会い、舞踏会で一緒に踊ったときの話まで読んだ。画家志望の孤独な青年が理想とも思える女性に出会ってたちまち恋に落ちるありさま。舞踏会という社交の場がそこにしつらえてあるのが18世紀的な感じで面白いけれども、今でもある意味欧米社会における恋愛というのはある程度そういう社交の場が意味を持つのではないかという気がする。ハイスクールの卒業時にはプロムというダンスパーティーがあるし、結婚式などに参加してもダンスはつきものだ。どこへ行ってもダンスだけでなく会話など「社交の技術」が問われるのが欧米社会だという気がする。私はそういうのは垣間見ただけだけど。

小川洋子対話集 (幻冬舎文庫)
小川 洋子
幻冬舎

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小川洋子『小川洋子対話集』。最初に江夏豊との対談を読んでしまったが、あとは最初から。田辺聖子、岸本佐知子、李昂+藤井省三、ジャクリーヌ・ファン・マールセン、レベッカ・ブラウン+柴田元幸、佐野元春。今は清水哲男のところを読みかけ。204/262ページ。田辺聖子は小川洋子と同じように芥川賞を受賞した女流。岸本は翻訳家でアーヴィングとかを訳している。李は台湾の女流で藤井はその訳者。マールセンはアンネ・フランクの幼友達で「日記」にも出てくる。レベッカ・ブラウンはアメリカの作家で柴田はその訳者。佐野元春はミュージシャン。江夏は野球選手。まあ書くまでもないことも書いてみたが、要は小川洋子の偏愛マップという感じだ。

特に印象に残ったのはレベッカ・ブラウンと佐野元春。対談集には珍しく、ずいぶん線を引いてしまった。レベッカは読んでいていちいち「私もそう思う」と思うことが多くて、読んでて興奮してくる感じがあった。wilipediaで調べて出てきた写真を見てあれっと思ったが、同性愛者だという記事を読んで納得した。なぜわかるのか分からないが、レズビアンは写真を見るとこの人はそうだろうなと大体思う。なぜなんだろう。でも、男のゲイは見ただけではまずわからない。私には、ということだけど。それもなぜだかよくわからない。

「私も、書くときには、どこへいこうとしているかわかっていることはめったにありません。書くプロセスというのは、自分にとってもとても神秘的なもので、闇の中に何かがあって、その何かを探って進んでいる、そういう感じ。それを探ろうとするから、そもそも書くわけです。」

というレベッカの言葉は全くそうだなと思う。この言葉は、後に出てくる佐野元春のスタジオの神聖性という話につながる。佐野は「レコーディング・スタジオというのは神聖な場所だから何が起こるか分からない。合理では進んでいかない。でも何が起こるかわからないのが面白いんだ。その神秘をぼくたちは尊ぼう」と言っていて、これはすごくいい言葉だと思った。レコーディングスタジオの神聖性というのは、文字を書く作家にとっては文字を書いているその瞬間瞬間そのものの神聖性ということになるわけで、ああそれこそが制作の秘密というものだよなあと思う。その時間、その場所を神聖なものとして意識できるか否かが、芸術的才能そのものではないかと思った。まあそれはそれで。

レベッカと小川の話に戻すと、小説を読み終わった後、読者が同じところに戻れるかどうか、というテーマで話をしていて、それについてレベッカは「同じところに戻ってきても、そこには大きな違いがあるというか、世界は全然違うものになっている、その人は全然違う人になっているという、そういう気が強くします。」ということを言っていて、私はそれを読んで別役実の芝居を思い出した。というか元々、小川洋子を読んでいると別役的な世界がそこにあるなということは思ったことがあった。

マッチ売りの少女,象―別役実戯曲集
別役 実
三一書房

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別役実に「マッチ売りの少女」という有名な作品がある。これは前の世代の人たちに言わせると「天皇制の問題を取り扱っている」作品なんだそうだが、まあなんというか三島由紀夫の「なぜ大君は人となりたまいしか」という慟哭の、左翼の側からの思いというもの、つまり「天皇によって見捨てられた私たち」というテーマがある、のだそうだ。記憶で書いているので曖昧なのだけど、この芝居では最初に「父」と「母」が儀式的な朝の食事の準備をし、芝居の最後には何事もなかったようにまた儀式的な朝の食事の準備がはじまる、という作りになっている。つまり、見捨てられた側の不幸にかかわらず「見捨てた側」は千年一日のごとく不変であり続ける、という描き方なんだと思うのだけど、まあ見捨てる見捨てられるの解釈の是非はともかく、見捨てた側が何らかの変化がないというのはなんか違うんじゃないかとは思う。まあそれが貴族社会だといえばそうなのだけど、現代の皇室はそんな盤石なものではもうなくなっている。

いやまあ、ことがあった後に何もなかったように元に戻る、というのはある意味痺れるように魅力的な世界だと思う。私が書いた芝居でも幕開きとラストが同じ場面、という設定はよく作ったけれども、「変わらない」ということに対するあこがれというようなものが、私にはあるなと読みながら思った。しかし、本当に全然変わらないということは本当はあり得ない。世界のかたちは少しだけ変わってしまっているわけで、それは違う言い方をすれば世界は少しだけ崩壊に近づいたということでもあり、ドキドキすることでもある。崩壊に近づくことを喜ぶ、というのも変かもしれないが、人が生きるということはそれだけ死に近づくということでもあるわけだし、どんどん発展して行くということもまたそれだけ終焉に近づいているということでもある。変化するということは崩れ去るということでもある、生きるということはすべて死ぬということでもある、ということが、何かどこか自分自身にとって救いになっている部分があるということなのかなと思う。

まあ、私は全然だめなんだけど、同性愛者の人たちというのは見ていて、何かをきっぱりと断念した人たち、という感じがある。その潔さが、彼ら彼女らの魅力の一つなんだと思う。それは「決意」と言ってもいいのだけど、「決意」というのは何かを「断念」することと裏表なのだ。それが「欠落」ではなく、その人がよりその人らしくなるために絶対に必要なプロセスである場合に、それらは美しいものになるんだろう。

私は最近はある種の苦しみというものをテーマに小説を書いているのだけど、むしろその苦しみを「断念」した方が、苦しむことを断念し、苦しみはない、苦しみは幻だという認識に立って存在しない苦しみを感じ、苦しんでいる自分というものがどういうものか、という方向で自分を見つめた方がそれらのものもよく書けるのかもしれないというふうにも思っている。

何ていうかその時に、レベッカ・ブラウンの書くもの、あるいは小川とのこの対談はよい羅針盤になる気がする。

若かった日々 (新潮文庫)
レベッカ ブラウン
新潮社

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まあそんなわけで、色々考えているうちにレベッカの書くものが読みたくなって、車で書店に出かけた。残念ながらその書店には一冊しかなく、新潮文庫の『若かった日々』を買った。ちらほら読んでみたが、自伝的な短編が並んでいる。短編小説と言うべきか、エッセイと言うべきか、その境目。私小説と言うべきか。その境目がどこにあるのか難しい。そう言えば志賀直哉の作品というのはどれが随筆でどれが短編だかよくわからない。「灰色の月」というのは小説だと思って読むのだけど随筆のようにも思う。どっちがどっちかよくわからない。

本当は文章のよさというのは、フィクションであるかそうでないかはあまり関係ないのではないかと思う。まだフィクションという土俵を上手く扱いかねている部分があるのだが、こういうのは書き続けるしかないのかしらん。一方で、やはりフィクションの読書量の不足も感じるので、なるべくフィクションを読むようにはしている。

危険だなと思うのは、決意の裏には断念があるのだけど、断念はあってもその裏に決意がない場合がすごく多いのではないかということ。同性愛者として生きるということは、それによって世間的に捨てなければいけないものもたくさんあるし、子どもを産む/産ませるという異性愛者にとっての大きな喜びを断念しなければならない。育てるということは不可能ではないけれども。しかし、一方で本当に好きな動静を愛することが出来るという可能性を選択する決意があるからこそ断念が可能なのだと思う。

しかし、私などよくあるのだけど、そうした喜びがあるものとしてそれを選択した後に、その選択によって得られるべき喜びが自分にとってあまり重要なものではなかった、という場合だ。ある選択をすることは当然他の可能性を断念するということでもあるので、そうなると断念はあっても決意はもう空約束ということになってしまう。

まあそういうものの一つが私にとっては教員生活だったのだけど、教える苦労というのは生徒の知る喜びという形で教える側にも帰ってきて、そのフィードバックがあるからこそ教えるという仕事を続けることが出来る。どんな仕事でもそうだと思うが、人はパンのみにて生きるにあらずで、給料さえもらえばあとは何の見返りもいらないかと言うとそういう仕事は辛すぎるだろう。たとえば人のために役に立っているという実感、人からの感謝の言葉や笑顔があって初めて人はその仕事を続けて行くモチベーションを新たにすることが出来るのではないかと思う。

そのモチベーションが更新されず、辛いだけの状態が続くと自分が何のためにこの仕事をやっていたのか分からなくなってくる。そうなると、その仕事の大義とか名目とかそういうことにすがって何とか仕事にしがみつくということになって来る。しかしそういう状態は不健康であって、「給料をもらっているから」と自分に言い聞かせつつ、爆発しそうな不満を常に抱えているという状態になり、そうなると人はどんどん非寛容になって行ってしまう。

昔に比べてちょっとした不正やちょっとした融通のようなことに非寛容な人が若い人を中心に爆発的に増えている感じがするが、それはそういうことで得られるべき、更新されるべきモチベーションが更新されずに不満を抱えている人が増えているということではないかと思う。

生活保護受給資格の不正取得とか、公務員や社会保険庁のいい加減な働きぶりとかに非難が集中するのは、そういう形で非寛容が蔓延しつつあるからだろうなという気がする。「自分だけうまくやっている」という存在が許せない、という心性がこれだけ蔓延しているのはある意味どうもよくない気がする。もちろん、そういう人たちがごね得を得てもいいかということとは別次元の問題だ。

話はちょっとずれたが、レベッカ・ブラウンの発言と作品は自分がよくわからなくなっていた部分を元に戻してくれた部分がある気がする。ときどきこういうものに出会わないと、生きている苦しみを乗り越えるモチベーションとなる報酬が少なすぎるなという気がしてしまう。

あ、久しぶりに花を生けた。こちらからどうぞ。

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