ケニー・ドリュー/帝国/欲望を実現できないのは不条理なことか
Posted at 10/07/04
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今日は例によってあまり調子が上がらなかったのだが、久しぶりの友人から電話があって、神保町で会うことにした。いくつか店を換えつつ数時間話したのだが、最後の店でかかっていたケニー・ドリューのピアノが気になり、分かれたあと銀座に出てアルバムを2枚買った。
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アメリカでは成功せず、ヨーロッパに渡って、日本人が評価したことによって世に出たピアニストらしい。「イントロデューシング」と「ケニー・ドリュー・トリオ」。何というか、空間を心地よくしてくれる。逆に言えば、あまりあくがない。そういうところがニューヨークでは評価されず、日本やヨーロッパで受け入れられた原因かもしれない。
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それからネグリ・ハートの『帝国』を探そうと本屋を何軒かみたがなかったので、ちょうど見つけたアントニオ・ネグリ『<帝国>をめぐる五つの講義』(青土社、2004)を買った。経済学の本というのは読んでてわかったような気になるものの結局はちんぷんかんぷんということが多いのだが、これは立ち読みしても大体何を言っているのかはわかる。結局私も、冷戦構造崩壊以降の世界の見取り図というか、構造をとらえるシェーマが欲しいんだなと思う。グローバル資本主義、つまり市場至上主義の一極支配という構図が有効なんだろうと思うが、歴史的に見て自由主義経済=「市場信仰」には常に何らかの形のアンチテーゼが存在した。保護主義であるとか、ファシズムであるとかコミュニズムであるとかいう形で。しかし、現在は経済・国際社会観念において市場主義の一人勝ち状態になっているわけで、そういうのはやはり偏っているというべきだろう。しかし市場主義に対抗する対抗軸が今は失われているわけで、その危機感がテロの温床になっているということは言っていいことなんだろうと思う。
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ああ、「クォンタム・ファミリーズ」は読了した。普通の意味で面白いといっていいのかどうか(多分いいとは思う)は別にして、ほんとに同時代に生きる、現代に書かれるべき小説だなとは思った。実際、いろいろなことを考えさせられた。最後の方はややナイーブになっている気がする。まあでもこのナイーブさが、本当はこの作者の本質なのかもしれない。
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欲望というのは、いつも実現するとは限らない。それが実現しないのは不条理であり、世の中から不条理は失くすべきだ、という考えがどんどん進められてきたのが近代という時代で、恋愛=ロマンチックラブが神聖化され、美しいもの、憧れるべきものとされたのは、その「不条理の超克」のある意味での象徴だったからだ。同性同士の恋愛もそれを阻害するのは不条理であるという思想が広がってきたのもある意味当然の帰結だろう。しかしすべての欲望が正当化されるかというとそんなことはなくて、たとえば幼児性愛はまあよっぽどのことがない限り正当化されることはないだろう。しかし幼児しか愛せないというか欲望を感じないという種類の人は多分やっぱりいるわけで、そういう人にとっては犯罪者にならずに生きていくには性的な意味では自己実現は決してできないということになる。大人の異性を愛することの出来る人は、そういう意味では性愛的に自己実現が可能な、幸運な人々だということができるし、まあそういう幸運な存在だとしみじみ思うことはあってもいいのかもしれないと思った。
まあ、中にはたとえば「若い異性しか愛することができない」という種類の人もいるかもしれないわけで、そうなるとともに年老いたパートナーを愛せなくなって若い愛人に走る、という現象が起こるんだろう。それは多分、いま現在は幼児性愛よりは反社会的行為ではないんだろう。そういういわゆる「不倫」という現象が許容されつつあるのは、「愛し合うことを阻害するのは不条理」という概念のある意味での帰結なんだろうと思う。そういうのも自己責任でやりなさいと。お互い大人なんだからと。まあしかしそれは少し前の時代なら場合によっては死に値するような罪だったりはしたわけだ。
まあ欲望の形はそれぞれだし、性愛においてはすべては相手があることなので、全ての人間のすべての欲望が満たされるということは原理的にありえない。それは性に関すること以外でもそうだろう。どんなことでも、当人の努力の如何に関わらず欲望というものは満たされることも満たされないこともあるわけで、それが満たされる、あるいは満たされる可能性があるということは幸運なことだと思っていいことなのだ。
だから、欲望の形というのはよりフレキシブルで、より多くの対象を持ち、向かう方向性もさまざまな豊かなものを持っているほうが、つまり性欲・食欲・承認欲・自己実現欲とかということだけど、人生は楽しくなる可能性が大きいし、そういう人は「世界に愛されている」ということができるだろう。その欲望の向かう方向性が狭く、鋭く、強くて、社会が許容する方向と重ならない場合は、自分は世界に愛されていないと感じざるを得なくなるのだろうと思う。そして残念なことに、そういう人間は存在する。
たぶん、そういう人間を救うのがあるいは文学であり、あるいは宗教なんだろう。だからその世界に愛されていない――言葉を変えていえば呪われている――欲望の形がそれらによって昇華され、あるいは新たな可能性を与えられて幅を広げることが出来れば、それはその人にとって祝福であり、居場所が出来るということになるのだと思う。
まあ文学とか宗教というものは、欲望の問題に限らず居場所がない人の救いになるべきものであるはずなのだけど、日本で年間3万人を越える自殺者が出るということは、宗教とか文学とかいうものが本来果たすべき働きをしていない、機能していないといっていいのではないかなという気がする。それはたぶん、結構深刻なことだ。
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