『クォンタム・ファミリーズ』とか

Posted at 10/07/03

今6時50分。最近、朝のうちにブログを書く習慣がなくなったので、手があまり動かない。というようなくだらないことを書いてウォーミングアップをする。「バロックの森」を聞いている。バロックってほんと、イタリアの時代なんだよな。バッハって、ほんと例外的な存在。しかしその例外的な存在が一番巨匠とされているということが、このバロックという音楽史上の時代を分かりにくくしている。

ここのところ仕事が暇で、体がなまっている感じがする。頭はけっこう動いているが。昨日も書いたが、東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』を読んでいる。現在174/372ページ。かなり面白くなってきた。面白いと言っても、小説的な面白さというより、いや、小説としてもきっと面白いのだと思うが、知的な興奮とでも言った方がいいのか。最初の頃のSF的、あるいは科学的な意匠の部分を越えると、並行世界という設定の中で、自分が経験しなかった歴史の続きをつぎはぎ的に自分が経験せざるを得ないという設定がすごく面白い。最初はその役を「演じる」ことに徹していたのが、元の世界のことを思い出したり、あるいは元の世界とは全然違う自分の役があまりに謎になってきたりして、またその間に主人公それ自体が抱えているゆがみみたいなものがどんどん出てきてすごい話だなという気がしてくる。この小説、私が読んだ中で、エンターテイメントをのぞけば一番歪んだ主人公じゃないだろうか。いやまあ、芥川賞作品の主人公なんかみんなすごく歪んでいるとは思うけど、無差別テロの首謀者というのはまだ読んだことがなかった。いや、そういう立場だから歪んでいるという感じがするというのではなく、何かほかの小説では読んだことがなかった、異常な生々しいゆがみがこの主人公にはある。小説の展開も、妙に歯車の回るのが遅いような、変な感覚のするところもあるし、ある意味すごい才能なんじゃないかと思う。東はオタクを自任しているというが、ゆがみの本質というのはそういう部分なのかな。まあわからん。

昨日は突然、自分が今生きている時代が、グローバル資本主義対テロリズムの時代なんだという構造認識がやってきた。何をいまさらという気がすると思うのだが、この理解が、我々が生まれた時代が冷戦構造の時代であったというのに匹敵する、現代世界の定義として妥当性の高さがあるということを認識したということだ。「対テロリズム」の部分はつけるべきか否かは難しいが、少なくとも「グローバル資本主義の時代」であることは時代認識の上で重要なことだとようやく思ったのだ。1870年代から第一次世界大戦の終結までが帝国主義の時代、第一次世界大戦から第二次世界大戦までが帝国主義対全体主義(ドイツとソ連、影響を受けた諸国、諸思想)の時代、第二次世界大戦後から1990年後ろまでが自由資本主義対社会主義(大まかに言って米ソ対立)の時代、1990年以降がグローバル資本主義の時代。

グローバル資本主義というのは当初唯一の超大国アメリカという概念と相当重なっていたと思うが、2001年以降のアメリカの衰退と中国の慎重、米軍再編成という名のアメリカによる世界支配の立て直し、金融の暴走と迷走(ヘッジファンドがもたらしたアジア通貨危機、リーマンショック、ソブリン(ギリシャ)危機)と、いろいろなプレイヤーがその枠組みの中で出てきては消えている。その中の個人の在り方というのも、やはり冷戦時代と同じというわけにはいかない。冷戦時代は、「終わりなき日常」つまり、無限に優劣をつけるのを先送りしてきた米ソのはざまでの安全な遊びの時代だったが、現代は「市場」への盲目的な信仰によって個人が暴風雨に直接さらされている時代になっているということだ。

それでもまあ、日本は社会全体による蓄積があるからまだまだそうひどいことにはなっていない部分もある(自殺率の高さとかはひどいのは確かなんだけど)。その蓄積というのは資産の蓄積というだけではなくて、「人に迷惑をかけない」という倫理的資産の蓄積でもある。自分の不幸を人のせいにして暴動に及ぶという形を日本人はいつしか取りにくくなり、一人で自分に決着をつけてしまうことになった、ということなんだろう。もちろん誰もがそういうわけではないけど、ひどい状態になっても日本人が大人しいと言われるのはそういうことなんだろうと思う。

クォンタム・ファミリーズ
東 浩紀
新潮社

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まあ、こういう認識も、『クォンタム・ファミリーズ』の作品理解を試みていることと、茂木健一郎と松岡正剛の対談とかから出てきたんだろうなと思う。

しかしそれにしても、ネグリ・ハートの『帝国』が出てからもう何年もたっているのに、どうして今頃こういう認識に達したのかと怪しんでしまうが、最大の原因は、ちょうど冷戦が終わった時期に自分が高校教員として教育と啓蒙の仕事に従事するようになったということが大きいなと思った。ちょうど世界認識を改めなければならない、世界について精査しなければならない時期に認識よりも教育や啓蒙に頭を占領されるということは、結局冷戦時代の世界認識のままそういう仕事にあたっていたということになる。それでも1995年危機(阪神大震災、地下鉄サリン事件)で頭は大分切り替わった、社会主義は本当に終わったと思ったのだけど、90年代後半のグローバル資本が最大問題化した時期に個人的に一番大変な時期になってしまい、感覚が摩耗して何も感じ取れなかった気がする。せっかく大学院に行って研究するチャンスを得たのだが、同時代的な感覚をそこでなぜ得られなかったか。仕事も大変でプライベートも危機だったから、なんていうか妙にそこで世界とシンクロしてしまったのかもしれない。自我の深淵の暗闇の罠から立ち直ろうとしていた時期に同時多発テロが起こり、翌年には拉致事件が表面化して、いずれにしても政治的な方にばかり関心が行って問題の本質をつかみ損ねてきたんだなあと思う。

経済に対する関心がちょっと低すぎたなと思う。もともとそう強くない分野ではあったし、経済以外のところを手掛かりに世界を理解してきたところがあるから、その穴が一つには問題だったということか。そういう意味ではマルクス経済学の資本主義理解が手掛かりになる部分もあるんだろうと思うし。

まあ最大の問題は、「希望と尊厳」の問題だというのは正しいと思う。「最小不幸社会」という目標は、その問題を解決しないだろうなあ。先進資本主義国の労働者は「獅子の分け前」をもらってハッピー、というのが冷戦構造の時代だったわけだけど、今はどんどんその「分け前」を取り上げられてきているし。

まあもう少し、時代を把握するための努力をしないといけないなあと思ったのだった。

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