『ディラン・トマス詩集』/「不条理性の罠」に気づく

Posted at 10/02/19

今朝は朝から松本に出かけて、昼前に帰ってきた。頭が休まっていないといわれ、今日は休めないとと思う。昼食のときに、創造性を自由にするような仕事、をやってみたいという話を母としたり。午後、自室に戻るも隣家の解体作業の音がうるさいのででかけて、湖畔の美術館の喫茶室で本を読むことにする。

腹の調子がいまいちで困ったが、『ずっとやりたかったことをやりなさい』とか、おととい隣の市の図書館で借りてきた『ディラン・トマス詩集』を読んでいた。しかしどうも、ビリー・ジョエルとかをインストゥルメンタルにしたイージーリスニングみたいな曲がどうにも耳に障って、あまり集中できなかったのが残念。一番の原因はボーっとしていたことだけど。

ディラン・トマス詩集 (世界の詩 63)
ディラン・トマス
彌生書房

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しかし『ディラン・トマス詩集』の最初の詩、「序詩」は感銘を受けた。


奔流を駆けのぼる鮭のような太陽の光を浴びて
神が早める夏の終わりに
今うねりゆくこの日
小鳥の囀りと木の実のからむ
目眩めくばかりに険しい崖のうえ
海にゆられるわが家の中で わたしは歌う
森の踊る蹄には
泡と笛と鰭と大羽根
浮滓だらけのヒトデの浜の近くには
魚売り女のようにむっつりした鴎
いそしぎ 鳥貝の殻 帆など
遠くで 雲を引っかくような索具を船に取りつけ
日暮れの網に跪く
鴉のような漆黒の男たち
まさに昇天せんとする鵞鳥
魚を突き刺している少年たちと青鷺
七つの海の話をしている貝殻たち
九夜を過ごした街々から
はるかへだてる永遠の海
その街々の塔は背の高い乾いた麦藁のように
宗教の風に捉えられるだろう
こんな貧しい安らぎの中で わたしは歌う
(後略)


ほぼ直喩だけでこれだけの世界を現出できる。そして、その詩の中に不条理性は全くない。巧みな比喩は言葉と心を救うんだなあと思う。

思えば私は、表現においては不条理性の罠のようなものにはまっていた気がする。詩というものは、言葉と言葉のぶつけ合いのような側面があるので、本質的な問いかけとしてでない、味付けとしての不条理性のようなものがわりと軽く使われている気がする(私の誤解かもしれないが)のだけど、こういう直喩でストレートに造形していく言葉の形を見ると、浅薄に不条理性に走るのが恥ずかしくなる。

考えてみると、私の学生時代において不条理性は一つのファッションのようなものだった。また、中学時代にシュルレアリズムの面白さに、高校時代に萩原朔太郎の眩惑的な詩術に魅せられた経験が、知を越えた美の世界に行く方法論として、不条理性や無意識性などに傾きすぎる傾向を生んだのだろうと思う。

それは出発点としてはいいにしても、言葉は生ものだから、不条理的な言葉もやがて賞味期限が切れる。しかしそれにいつまでも拘泥していた部分があったなと思う。効かなくなった魔法の杖をいつまでも振り回していたようなものだ。

異質な言葉をぶつけること自体に意味はあると思うけれども、そこで現出する味わいが不条理だけであってはやはり浅いということなんだと思う。昇る太陽を奔流を昇る鮭に喩えるというのはやられたという感じだ。この生き生きとした、詩だけでしか表現できないイメージの世界。太陽の生命性を鮭に喩えることで表現される太陽の荒々しさ、鮭の生命性が太陽にこめられることで表現される鮭の輝かしい生命のきらめき。かと思うと、しれっと「鴉のような漆黒の男たち」、なんてできそうでできない表現もある。


緑の導火線を通って花を咲かせる力は
ぼくの緑の年月を駆りたて
木々の根を萎れさせる力が
ぼくを破壊する
だが ぼくは唖なので萎れ曲がった薔薇にはいえない
ぼくの青春も同じ冬の熱病にゆがんでいると


「緑の導火線を通って花を咲かせる力」というのは、キャメロンの『ずっとやりたかったことを、やりなさい』に引用されていて、私がディラン・トマスを読もうと思ったきっかけになった言葉なのだが、これは生の本質であり、また創造力そのものであるように思う。木や草は何も考えずとも花を咲かせる自然の力を持っているように、全ての人間は創造的である、というテーゼを説明するのにキャメロンはこの詩句を使っている。

人には、「緑の導火線を通って花を咲かせる力」と、「木々の根を萎れさせる力」の双方が働いている。誰もが持っている創造性と、誰もが被っている創造性を挫く力の働き。誰もが傷つくその状態、動けなくなった状態を「唖」と表現し、外力のいかんともし難い圧倒の前に「萎れ曲がった薔薇」であると喩え、その状態を「冬の熱病」であると喩えている。

ディラン・トマスの、生命を喩える喩え方には圧倒されざるを得ない。

この二つの詩にみられるディラン・トマスの詩のもっとも大きな魅力は、「言いたいことが明確であること」だろうと思う。逆にいえば、両義性・曖昧性がない。「曖昧な日本の私」ではなく、「曖昧でないウェールズの私」である。その曖昧さのなさが詩の核芯をしっかりとはっきりとさせ、イメージの圧倒的な鮮烈さを生んでいる。こんな詩があったのかいう驚きにとらえられる。少なくとも私には、そのように思われる。

他の作品は少し読んだけど今のところ難解で、よくはとらえられない。この詩たちは、なんというか「読書百遍意自ずから通ず」、のような、何度も何度も読むことで何をいいたいのかが立ち上がってくる言葉たちなんだなと思う。

なんというか、この詩の言葉のあり方のようなものが、かっこいいと思う。ボブ・ディランが芸名をつけるときに「ディラン」の名をとった気持ちもわかるなあと思った。

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