詩人の家/計画を語ることが好きなタイプ/ハレとケ/"I love you.""I know."

Posted at 10/02/20

昨日は操法を受けてだいぶ体が楽になった。頭が緩んでいないのが不調の原因ということだったが、頭もだいぶやってもらったので、昨日は仕事中は全般的に頭がぼおっとしていた気がする。必要なことはできたけれども。夜は高橋大輔の演技を何度も見た。織田や小塚の演技ももう少し見たかったのだが、まあ放送が銅メダリスト中心になるのは当然だろう。

今朝は目が覚めたときにはわりと気分がよかった。ストーブが石油が切れていて消えてきたので、寒い朝になった。もともとかなり冷え込んでいたし。今でも吐く息が白い中でパソコンに向かっている。寒い寒いといって体を揺らしながらブログを書いている。

作家の家―創作の現場を訪ねて
フランチェスカ プレモリ=ドルーレ,エリカ レナード,マルグリット デュラス
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昨夜友人からメールが来て何が書いてあるかと思ったら、ブログを読んで、ディラン・トマスが『作家の家』で取り上げられていることを教えてくれたのだった。寝る前に『作家の家』のディラン・トマスのところを読んだ。

彼の詩の中にも出てくるのだが、他の作家たちに比べると貧しい小さな家。ウェールズの海岸、切り立った崖の下にぽつんとある。内部にあるものも、乱雑に散らかった家の中に革の破れた椅子やインクのなくなったインク壷に挿したペン、と言った感じ。本文は彼の39年の生涯をコンパクトにまとめているが、晩年――と言っても30代後半だが――の数年をアメリカに講演旅行に行くことによって多くの名声を手に入れるとともに家庭を崩壊させアルコール中毒が酷くなり、荒淫もあいまって死期を早めたのだという。破滅型の詩人と言うのはつまり、死ぬまでずっと少年だった、ということかもしれないのだけど、この小さな家のガレージに篭って、湧き出てくる言葉たちを、一日中偏執狂的に表現を模索しつづけたのだと言う。言葉の未知の可能性を引き出すために、何時間も一人きりでガレージにこもり、自分の詩を朗誦しつづけ、言葉の音楽性、野生的な力強さを探りながら、詩だけがもたらしてくれる平安を求めつづけたのだという。

詩を書くと言うことはそういうことだなと思う一方、彼の詩は確かに本当に声に出して読みたくなる。しかし今手元にあるのは和訳された詩だし、また原書で読んだところで英語を母国語としない私はネイティブのように自在には味わえないだろうところがもどかしい。であるならばいっそ、私は彼の体験を一部なりとも追体験して、詩人としての喜び、表現を捕まえたときの高揚、朗誦する恍惚のようなものを味わってみたいと思った。これが詩人の正しい態度だなと私は思う。朗読できない詩は、どうも私はあまり好まないようだ。

8時になった。隣家の解体工事のダンプカーがディーゼルエンジンの巨大な音を立ててやってきた。

***

朝食後、車で北澤美術館の喫茶室に出かける。昨日ツイッターで示唆していただいて。入場せずに、喫茶室だけ入れることを確かめて二階に上り、窓際の席へ。他の客はおらず、最初は接客の人すらいなかったが、下に声をかけてきてもらい、アメリカンを注文。午前中は何をやろうか、騒音の中ではそれすら考えられなかったのだが、席に座ってぼーっと諏訪湖を眺めていると、だんだん自分自身に向かい合っているような感じになってきた。何かを読むと言うより、いろいろ思いついてノートに取る。

いろいろ計画を語るのが好きというタイプの人がいるが、私も本質的にはそれだなと思う。でも計画をいろいろ言ってもそれを必ずしも実行するとは限らないわけで、でも周りは言ったらやるだろうと思っているから、やらないと嘘をついたように思われて心外なので、最近はあまり口に出さないようになってきたのだけど、実際には計画を立てること自体が好きなので、それはやめられないし、いい計画を思いつくと誰かに話さずにはいられないわけで、でもそれを「絶対に実行する気でいる」と思われても困るので、まあブログにつらつら書いておいて時々実現するというくらいのほうが無難かと思う。決して嘘をついているわけではない。多分、同じようなことで苦慮している人はいるだろうと思う。世の中には計画を立てること自体が好きで、実現させるかどうかは別の問題だ、というタイプがいるのだと言うことを声を大にして言っておきたい。……といってもこういうタイプについて絶対理解しようとしない人はいるということも分ってはいるんだが。それもタイプだから仕方ないんだろうけど。

キャメロン「アーチストウェイ」のまとめ。ディラン・トマスについてもっと調べること。仕事に関連しての勉強と、調査/まとめ。ショパンの楽譜、少なくとも旋律部分だけ分るようなのを買ってエレクトーンで弾いてみること。平野啓一郎『葬送』を電車の中で読むこと。確定申告関係の勉強。等々。

トイレに行くために下に下りて、売店をのぞくと作家もののきれいなガラスのタンブラーがあったので買うことにした。「霧湧き上る」だったか、銘がついている。今詳細がわからないのでまた明日にでも書こうと思う。

いろいろ考えてノートが何冊か必要だなと思い、文房具屋に行って買うことにする。湖畔を上川の河口まで車を走らせる。やはりこのあたりは観光地だなあと思う。普段生活しているところとそんなに離れてないのに、何か本質的な差異を感じるなあと思う。それを考えてみると、つまりは観光地と言うのは「ハレ」の空間なのだ、ということに気づく。同じ街の中でも地元の人が主に行く部分は「ケ」の空間で、やはりそこばかりにいると閉塞感が出てくる。同じ街の中でも観光地に行くと、そこは「ハレ」になるので何かオープンな、観光客でなくても晴れ晴れした気持ちになれるということなんだなと思う。東京(というか首都圏)でもやはり、銀座や横浜や、「ハレ」性の強いところが私は好きだ。「ケ」の空間はどうしても束縛性の強い、よく言えば現実密度が濃い、ある意味雁字搦め度の強い空間になってしまって私はそういうのは苦手なんだが、「ハレ」のゆるさ、自由さ、華やかさ、晴れやかさがやはり性に合う。といっても混雑とか、賑やかさとか、ハレでも密度が濃いものはあまり得意ではない。まあ本気でノッている場合は少し違うけれども。

上川の河口で左折し、川を遡る道沿いに車を走らせる。鮭ではないが。ここに来ると、もう「ハレ」性より「ケ」性のほうが強くなっている。こうした鄙びた川原の感じとか、決して嫌いではないのだけど、やはりそれだけでは物足りない。二つ目の橋の先の蔦屋に入って車を止める。土曜日だけあって込んでいる。入り口を入っていくと、VHSビデオの安売り、というか叩き売りをしているのが目に入った。何しろ3本100円だ。洋画もかなりあったので、見てもいいかなと思うものを6本見繕って買った。『カストラート』、『ワールドアパートメントホラー』、『スターウォーズ/クローンの攻撃』、『女盗賊プーラン』、『ソフィーの選択』、『陽のあたる教室』。見たことあるのは最後の一本のみ。アメリカに行ったときに元妻と見た。微妙な時期だったので微妙な思い出が残っている。「ジョン・レノンが死んだ」というセリフ。ジョン・レノンの死というものを確かに、人々はどのように受け止めたのだろうと思う。マイケル・ジャクソンの死、というものとある意味共通して、ある意味異なっているわけだけど、共通部分と異なる部分のどちらがより本質なんだろうか。この6本とノートの5冊パックを買ったが、ノートの方が高いというのもなんだかすごい話ではある。

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"I love you.""I know." そういえばこのやり取り、『西の魔女が死んだ』にも出て来る。

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