川の土手を通る道/金大中死去/政権交代という「未知の不幸」

Posted at 09/08/19

昨日。午前中山麓に出かける。上川の土手を走る道を覚えたら、国道を走るのに比べてやたらと速いことを知った。これを覚えてしまうともう国道を走る気がしない。まあ見通しのよい昼間なら、という感じではあるけど。しかし帰った後で買い忘れに気づき、蔦屋から平安堂に回って磯崎憲一郎『世紀の発見』(河出書房新社、2009)を買った。

世紀の発見
磯崎 憲一郎
河出書房新社

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午後はずっと仕事。夜9時半まで。遅くなって難しい仕事が入ってずっと北極・南極の話を英語で読んでいた。専門用語を調べるための辞書がないので、ある程度以上は正確に読めなかった。

少し疲れが出ているのか、朝なかなか起きられない。昨日も今日も起きたら7時ちょっと前だった。5時に起きるのに比べると、使える時間が全然違う。朝出来ない分があとに押して、予定が押せ押せになっていく。

9時過ぎに家を出て、ガソリンを入れているときにひょっとミラーをのぞいたらひげをそり忘れていることに気づき、近くのコンビニで一番安い電動剃刀を買った。貝印だから大丈夫だと思ったが、どうもちょっと残念な商品。剃ってから相当立つのにまだひりひりするぞ。こういうのは安いのはダメか。土手道を通って山麓へ行く。思ったより時間がかかった。昼前に戻り綿半に行ったら買うつもりだった文庫用の書棚がない。仕方ないので岡谷のケイヨーデーツーに行こうとしたら途中で道に迷ってしまった。うろうろしていたらいきなり知らないホームセンターの前に出て、そこで目的のものを買った。怪我の功名とはこのこと。

職場に立ちより、ついでにトルコキキョウとカーネーションを買って帰宅。駐車場がトラックでふさがれていて入れない。別のところまで置きに行ってここでかなり時間をロスしてしまった。昼食を取って職場に出る。『世紀の発見』はまだ16ページ。あまり進まない。

『ショーペンハウアー全集』を少しずつ読む。哲学者というのはどうも、一人の哲学者を理解するためにはそれに先行する哲学者の思想を理解しなければならず、芋蔓式にソクラテスプラトンまでさかのぼらざるを得なくなりそうで困る。大体今ショーペンハウエルを読んでいるのはニーチェを理解するためだが、さらにその前のカントにも興味が出てきてしまい、どうにもこうにも、である。

***

金大中元韓国大統領死去。韓国の政治家では、やはり突出した知名度を持った人物だった。彼の政治的業績については、私は疑問符をつけざるを得ないが、やはり戦後韓国史を象徴する政治家の一人であったことは間違いない。日本とのかかわりではやはり金大中事件。KCIAに日本で拉致されたこの事件は、韓国の朴政権がいかに強権的で強引な政権であるかをまざまざと日本人の印象に刷り込んだ。その後の光州事件の際には死刑判決も出された。光州事件で政権を獲得した全斗煥が金大中の弔問に訪れていたが、そういう意味ではすでにこれも恩讐の彼方に行ってしまった出来事なのだろう。

しかしこの二つの事件は、日本人の多くに「韓国=悪玉」観をかなり植え付けた。少なくとも韓国政府は軍事独裁政権で悪であると。そしてその彼方の北朝鮮は善玉としてイメージされた。理想の国だとか地上の楽園だとかというのはともかく、まさか日本人を拉致している(ちょうどその当時だ)ようなめちゃくちゃな国だとは誰も思ってなかったに違いない。よく考えてみれば、韓国が悪玉だからといって北朝鮮が善玉であるとは限らないわけで、しかしわりとその単純な思考にみんなひっかかってしまっていたのだ。蒋介石の中華民国が国民党の独裁政権で悪だから中国共産党は善だとか、なんというかわりとそういう不注意な見方で世界を見ていたのが正直なところだっただろう。大体そういうことについては、私も人のことを言えた義理ではない。

90年ごろからだろうか、なんかおかしい、と戦後史観の呪縛がだんだん解けてきてみると、世の中というものは、世界というものは、こんなにも酷いところだったのかと改めて慨嘆せざるを得ないようなものだったのだが、世界はこんなに酷いところだからこそ理想というものが必要なのだとむしろ思うようになってきた。オバマは確かにその先端を行っているが、現実世界の中でどれだけのことが出来るのかは不透明だ。

翻ってわが日本を見ると、やはりどん詰まりもどん詰まりで、やはりこれは何がどう転んでも政権交代は必至だろう。しかしそうなるとどんなことが起こるだろうか。

「小泉チルドレン」という言葉があった。郵政選挙の自民党圧勝に乗って、90人近く当選した当選一回の議員たちだ。彼らの質が低いということが相当話題になり、そうとう揶揄もされたが、誰も指摘しないことだけれども、今度の総選挙で民主党が政権を取ったら、同じようなわけのわからない一回生議員がまた雨後の筍というか夕立の後の蚊柱のようにうじゃうじゃと湧いて出てくることは今から明らかではないか。彼らは全くチルドレンであって、前回比例で自民党から杉村大蔵のような考えられない議員が出てきたのと同様、支持団体が民主党本部に相当たくさんの候補をねじ込ませたらしい。そんな状態で、政権を取った経験に乏しい民主党の幹部たちは、そういうおのぼりさんたちを上手く御すことが出来るのだろうか。むしろ大混乱を来たすのではないか。

その兆候はすでに総選挙の前哨戦によって選ばれた東京都議会に現れている。新人議員たちは民主党の執行部のいうことを聞かず、会議が開けない状態になっているのだ。こういう体たらくが衆議院に起こったらどうなるかと考えてみるだけでぞっとする。国民も自分たちの選択のもたらしたあまりの惨状に唖然とすることだろう。

まあ都議会と違って民主党本部にはどすのきいた小沢一郎という存在がいるから、都議会ほどバラバラにはならないかもしれない。しかしバラ色の公約を実施するのに熱中している間はいいが、苦い現実と向き合わなければならなくなったら彼らにそれに耐えうる力があるのだろうか。

だからと言って自民党が政権を握りつづけても何も変わらないではないか、といわれるかもしれないしそれもそのとおりなのだが、民主党が政権を握ったら確かに「チェンジ(変化)」は起こる。しかしいい方向に変化する保証はどこにもない、ということにも注意しておくべきだろう。

簡単に言えば今回の総選挙は、自民党政権という「よく知っている不幸」と、民主党政権という「未知の不幸」のどちらを選択するのか、という選択なのだ。私は前者の方がましだと思うがたぶん後者になるだろう。そうなったときにどこまでこの国がばらばらになるかだ。それが日本が出なおすための前向きの解体ならばいいのだが、ただとめどもなく崩壊していく、その税所の蟻の一穴にならなければいいがと願うのみである。

まあ事物の勢いというのは止め難い。そう動き出してしまったものが急激に方向転換することはできないだろう。その中でわれわれは、守るべきものを守り、目指すべき目標を忘れないようにして暴風雨の中に飛び出していくしかない。誰が生き残れるかは神のみぞ知るである。

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