合理的な図書整理法/磯崎憲一郎『眼と太陽』

Posted at 09/08/18

昨日。朝からずっと本棚の整理。何年もいろいろ試行錯誤をしたが、結局一番その本にダイレクトにアクセスしやすいのは、文庫・新書は出版社別・シリーズ別に分け、その中を著者順に並べる形ではないかという結論に至った。たぶん20年位前はそういうふうにしていた、もちろんいまよりずっと本の数は少なかったけれども。その後は内容別、分野別に何とか分けられないかといろいろ試みていたのだけど、どうもうまく並べられず、並ばない文が積みあがってしまう、という形になっていた。同じ分野でも本の大きさは異なるし、一つ結局違うところに並べなければならないものも多い。またどういう分野に分けたのか自分でわからなくなってしまったりすることも多い。たとえば松尾芭蕉の句集を詩のところに並べたはず、と思ってもよくわからないと結局全部詩の本を見直さなければならない。

昨日は新書と名のつくものを全部一つの本棚の前面(スライド式の)に並べ、別の本棚に岩波文庫と中公文庫、講談社学術文庫を並べたところで時間オーバー。今現在本棚は11個あるし、とりあえずダンボールの中につめて積んであったのとかもかなりあるので、全部並べたはずだと思ったあとでどんどんこれもそうだというのが出てくる。新書は、講談社現代新書と岩波新書、中公新書が圧倒的に多い。この三つは老舗だからということもあるが、内容もやはりいいと思う。光文社新書やPHP新書、文春新書、ちくま新書などもそれなりにあるが、若い頃に買いまくった前三者は今でも数が非常に多い。自分の教養や知識のかなり多くの部分がこういうものによってできてるんだなあと思うとしみじみするし、内容は覚えていても著者の名前はほとんど知らないものも多く、教養書というのはある意味そういうものだよなあと思う。最近の新書は、どちらかというと著者の個性が出ているものが多く、それはちょっといいことなのかどうかはわからない。教養書というにはちょっと品格がかけているという印象のものが多いということもある。

しかし個性がはっきり出ているか出ていないかに関わらず、本というものは出版社が企画し発行するもので、著者が書くものだから、出版社・企画・著者という三要素によって本を分類し整理するというのは実は実際的には優れた方法だと作業しつつ感じた次第。世の中の構造がそういうふうになっているのだから、少なくとももっともアクセスしやすい(探しやすい)ように並べる、並べやすいように並べるというのはこの方法がベストではないかという気がする。自分のルールで並べる本棚もあっていいけど、普段は読まないがふと「あれはあの本に書いてあったはず」という調べ方をするためには、その都度変わる自分のルールよりは、世の中の構造を上手く使った方がいい。ネットで調べようと思っても、著者や出版社名は変わらないが分類名・分野名は目のつけ方によって変わってしまうわけだし、アクセスしやすい項目の立て方の大事な条件は、誰がどのように記述しても変わらないことだから、出版社や著者を最優先の整序項目にするのは合理的だと思う。

また、内容は覚えていても著者に関心を持ってなかった本の、著者に注目してみるとまた違った角度から考えることもある。ある分野の教養書は自然に書かれるわけではなく、その分野である程度の実績を持った人が書くわけで、その人がその分野の中でどういう位置を占める人で、どういう傾向を持った人なのかということを、今ならもっと考えるだろうなあと思う。まあそういうことを考えてしまうから、昔のように手当たり次第に教養書を読む気が無くなったということもあるのだけど。

新書や文庫、シリーズものをとにかく片付けたら後は単行本になるが、これはまた工夫しながら並べてみたいと思う。またここでご報告することになるかと思う。

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眼と太陽
磯崎 憲一郎
河出書房新社

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磯崎憲一郎『眼と太陽』(河出書房新社、2008)読了。最初はすごく読みやすい普通のアメリカ体験話だと思っていたが、だんだんカフカ的なシュールな世界が展開し始めて、変な感じになっていった。磯崎は保坂和志とカフカの話で盛り上がったということを対談で言っていたが、今まで読んだ三作の中では一番カフカっぽい。

前半は、アメリカのさまざまな風景が描かれていて、すごく懐かしい感じがする。私も中西部、オハイオに何回か滞在したことがあるので、その感じが似ている。道路わきに小動物が死んでいる、という描写は全くその通りで、目の行くところが似ているなあと思う。作者は就職後、たぶん結婚後にアメリカに赴任して、デトロイトでビッグ3相手の取引を行ったと文藝春秋のインタビューで答えていたが、主人公は独身で赴任し、子持ちの女性と付き合って結婚して帰国する、というストーリーになっている。アメリカに行くということと、人生の転機というか「ある時期」というようなものが重なってくる感じは、結構多くの人が感じるものではないかと思う。

私が90年代に何度もアメリカに行ったのは、当時結婚していた相手がアメリカに留学していたからで、なかなかうまく行かない辛い時期が続いていて、そういう暗い記憶が支配している時期であるはずなのに、なぜか私の記憶の中ではアメリカという土地はあっけらかんとした明るさというか、懐かしさというか、そういう雰囲気が充満している。もちろん日本の風土のような親しさはまるっきりない。何か物語の世界とでもいった方がいいのだが、その物語は自分には欠落している。しかし、語られない何かの物語の、その語られるべき舞台だけを私は見てきたんだなあという感じがする。

『眼と太陽』のストーリーは、なるほどそういうことがあるかもしれない物語が展開して、その欠落した物語の一つのありえる形をみせて、この舞台はこういうふうにも見られるんだよということを示しているようにも見える。途中から「遠藤さん」とピアニストの彼女、そのお父さんとの不思議な、つまりカフカ的なストーリーが割り込んできて唐突に終わり、またそれがわけがわからないのだが。普通の小説だと思って読んでいるうちに、これは冗談なんだろうなと思い直してみたり、いややはりこれはカフカなんだと思ったり。カフカっぽい話って全然成功していない例が多いのだけど、この話はあまりカフカ的につくりこんでないから割と持っている感じがする。

カフカの『変身』では、虫になって死んでしまったグレゴールをあとに、両親と妹が晴れ晴れした気持ちでピクニックに出かけるところ場面があるが、あれがなんだか不思議なリアルさがある。途中出てくる賃借人が三丁目の福助さんみたいで、難しいことは難しいがこれは芝居にしたらやっぱり面白いんだろうなと『変身』を読んだときには思ったが、そういうカフカの奇妙な作り物っぽい雰囲気と、きちんとした描写が織り成すはっきりした視覚的な世界とが上手くミックスされて、わりといい雰囲気を出していたと思う。

私にとってのアメリカ体験は、「人生のうまく行かなかった時期」を象徴するものであるのだけど、でもアメリカ自体は不思議な面白さと懐かしさに満ちていて、この小説を読んでいるとあの時期は悪いことばかりのような気もしたけど、実際「人生」という側面ではろくなことがなかったが、今考えてみると「美」とか「世界」という点では何か貴重なものを得たような気もするし、この小説というのは、「人生のうまく行かなかった部分」というのを上手に肯定し、そこで出会った何かきらきらするものを掬い上げる力を与えてくれるものではないかと思った。痛さと痒さと懐かしさ。上手く言葉にできない人生の三つの要素を。

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夕方、用事ができて帰郷することになり、8時の特急に乗る。指定がだいぶ空いているので、自由席に乗ることにした。八王子まではかなり込んでいたが過ぎたら空いた。通勤客がかなり使っているんだなと思った。

10時半に実家に戻り、1時半くらいまで『ピアノの森』を読んだり。今朝の起床は7時。時間がなくて、いろいろが後回しに。山麓に出かけて、一度帰宅したが、磯崎憲一郎の『世紀の発見』を買うためにもう一度出かけて、昼食前に帰宅した。

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