『日出処の天子』:生きている気がするように生きること

Posted at 09/07/02

昨夜はずいぶん強い雨が降ったのだが、今朝は上がっている。でも、まだ曇ったままで、気温も上がっていない。もう7月だ。家の周りの草もだいぶ生えていて、少し刈らないといけないなと思っているのだが、なかなか時間がない。

今朝は5時に目がさめて、職場に置いてきたPCを取りに行き、帰りにモーニングを買ってきた。まずは今週のモーニングの感想から。

「社長島耕作」「道を踏み外した」八木取締役を巡って。自分を信頼してくれる人が回りにいない、「そういう人間はたぶん八木君だけじゃない。全国の至るところに同じようなサラリーマンがたくさんいると思う」。「OL進化論」ビューティー定食(笑)。「ビリーバット」急に紀元30年ごろのイェルサレムに。どういう展開だ?「ジャイアントキリング」ショートコーナーだったからオフサイドはないと思っていたのに。椿のドリブルによる突破はマラドーナを思わせる強さが出てきた。「エンゼルバンク」ベンチャーの社長。「チェーザレ」ウゴリーノの孫のグエルフィが出てきた。「神曲」に出てくるウゴリーノのエピソードとハインリヒ7世が関係あるとは。そこにダンテがこのエピソードを書いた意味があるという解釈。なるほど。ダンテ研究でそういう解釈が実際にあるのかどうかは知らないが、いずれにしてもよく勉強しているなあと思う。「とりぱん」辛さは味覚でなく痛覚で感じる。へええ。「N'sあおい」キャスター福光とその父脳外科医福光の過去のエピソード。過去のトラウマを武器に人を切るための権力を手に入れる。その悲しさと醜さ。そういうことをしなくてよかったと思う。「僕の小規模な生活」夫婦喧嘩。犬も食わんな。(笑)でもそれがネタになる作家。「クッキングパパ」夏の冷房の冷えの話。男は大丈夫だが女は、という話になっているが、私も冷房は苦手なのでちょっとそれは一面的だなあと思った。今週はなんとなく物足りないなあと思っていたのだが、最後に「誰も寝てはならぬ」がちゃんと掲載されていたので少しはおさまる。しかし猫カフェの女。まあこういうことだろうけど。(笑)「東京怪童」と「特上カバチ!」が休載。

日出処の天子 (第1巻) (白泉社文庫)
山岸 凉子
白泉社

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山岸涼子『日出処の天子』。考えてみると、いや考えれば考えるほど、「日出処の天子」という言葉は素晴らしい言葉だ。誇り高い。昇りつつある太陽と、いかなる大国に対しても独立対等の気概。わが国のナショナリズムの濫觴と言っていい。この言葉は7世紀初頭の、つまり1400年前の言葉でありながら、今でも私たちの胸を高ぶらせるものがある。この言葉を書いたのが聖徳太子であるのかどうか、それは確証はないけれども、そういう言葉を書く人間と気概が当時の日本列島の政権にあったということは確かだ。それは隋書に出てくる言葉であるだけに余計に価値がある。隋書もよくこうした記録を載せてくれたものだと思う。

この作品は1980年からの連載だった。現在のマンガと比べてみて感じることはいくつかある。モーニングの作品もそうだが、最近の面白いマンガはイラストレーションとして優れていると感じるものが多い。「日出処の天子」はもちろん各コマの描写は優れているけれども、イラストレーションという感じがしない。

むしろ、手塚治虫以来のマンガの伝統、つまり「映画的な手法」の方が目につく。マンガは絵画に憧れて始まったものではなく、映画に憧れて、少なくとも手塚とその影響下にあった人たちにとっては映画が本道・本歌のような存在だった。イラストレーションとしての性格が強くプッシュされたものは石森章太郎の『ジュン』などがある。考えてみると確かに石森はマンガに絵画的な性格を強く模索している面があった。「…」が多用されるのも彼に始まっているように思う。手塚のコマにはもっと緊張感があった。石森は内面を暗示的に描こうとしたり、象徴表現を使ったり、映画的な手法ももちろん使っているけれども、各コマの流れ方が手塚に比べるとずっと遅い。

話が違う方に行ったが、『日出処の天子』は映画を本歌とするセンスが色濃く残っている。少女マンガ的な手法が駆使されているので(たとえば何かを言われてはっとしたときに目の描写が細く繊細に、一目見た印象が白っぽくなり、額に縦線が入るなど)そちらの方に目が行ってしまうが、今のマンガに比べるとコマ割もシンプルだし大ゴマも少ないしイメージカットが少ない。つまり、無駄が少なく密度が濃い。もちろんイメージカットは一概に無駄といえるわけではないが、ストーリー展開を遅らせるものであることは確かだ。最近のマンガはすぐ何十巻という超大作になってしまうが、『日出処の天子』はこれだけの内容でありながら文庫本にして7巻だ。絵画やイラストレーションならばイメージカットがいくら多くてもおかしくないが、映画であればそればかりでは観客はひきつけられまい。そういう意味でその頃に比べて漫画というものが質が違ってきていることは確かだと思う。

テーマ的な問題で言えば、王子が女性を愛せず、男を愛するという設定は竹宮恵子の『風と木の詩』と同様の少年同性愛作品の濫觴といえるだろうけれども、当時はそうでなければいけない理由がかなりしつこく求められた時代だったから、その分そのあたりに対する説明も深いものになり、また描写はシンプルになっている。現代のBLはその抵抗が消えているのでお約束の世界になり、お手軽なものになっているが、同好の士のお楽しみという次元ですべての人を巻き込む力はない。それは妹との愛、インセスト・タブーにしても相当手の込んだ仕掛けをしているわけで、「妹萌え」が一つのジャンルになりおおせている現代とは違う。もちろん現代はそれだけ多様化の時代だといえばそれまでだが、やはりそれをお約束としてしまえばすべての人を巻き込む力は消えてしまう。「日出処の天子」は明らかに、誰が読んでも面白い、人によっては刺激の強すぎるものになっているが、それは「お約束」に流れている部分がストイックに最小限に抑えられていて、基本的に「その趣味の人」でなく「常識人」が読むものとちゃんと設定されているからだ。

現代のマンガ、いやマンガだけでなく多くのアート作品が弱いのはそこだろう。確かに隙間マーケットは昔と比べればはるかに大きく、それにアクセスする手段も比べ物にならないほど多い。まさに「ロングテール」の時代であり、そのことの意味は決して軽んじられるべきではないが、「常識人」に訴えかける力を持った作品がなかなかでて来なくなっている。

それは一つには、「多数派集団としての常識人」というものが崩れつつあるということと無縁ではない。テレビでもお化け的な視聴率を誇るような番組がなかなか出てこないということと無関係ではないだろう。それは、世代によって、「常識」の基準が変わってきているということもあるし、専門性や階級による「常識」の差も昔に比べて広がってきているということもある。「常識」が曖昧になってきているからそれにターゲットを絞りにくくなり、また絞ることの意味も薄れてきた、ということではあるだろう。

しかしそれだけ、フィクションがある一定の方向に社会を動かす可能性というものがあまり多くなくなってきたということでもある。「日出処の天子」を読んでみて思ったが、この作品は明らかにある方向に社会を動かしている。少年同性愛や妹萌えが(表現の世界でだが)市民権を得る方向に動かしたり、聖徳太子像の再検証もかなりインスパイヤしているように思う。「聖徳太子」でなく「厩戸皇子」という形で教科書に載せられるようになるなど80年代には考えられなかった。しかし、いまのBLや妹萌えの作品が、世代を超えて社会に広く影響を及ぼすとは考えにくい。ゲイや同性愛のカミングアウトが増え、またそれだけにそれに対する社会の許容性も上がっているとは思うが、そうした作品はまだまだ感覚的・欲望充足的な次元に留まっているように観察されるし人間的・精神的な深みに達したといえるものは少なくとも私は知らない。

そういう世界に留まらず、マンガ界全体を見てそういう方向の可能性を持った作家がいないわけではないと思う(『ランドリオール』には期待している)。

そういうものが出てこないのは商業マンガの構造的な問題なのか、それとももっと魂のレベルの問題なのか。『日出処の天子』の読後感が素晴らしいのは、毛人を失った厩戸王子がある意味さらに奇怪に変容しながら、それでもなお生への意志を全うしようとするところにある。「私はこの国を自分の思い通りに動かしてみせる。別に志があってのことではない…何か、何かしていないと…生きている気が…しないから。」これは、つまり実存主義だ。生への衝動だ。人は生きようと思うから生きるのだ。「面白きこともなき世を面白く」、だ。「住みなすものは心なりけり」などという道学的なことではなく、「させて見せるが心なりけり」という心意気である。未来に開かれたオープンエンドであるが、我々はすでに聖徳太子の推古朝の華やかな時代を知っている。希望に満ちたエンディングである。

そうした未来への希望というか、「生きている気がするために生きる」という強さが、現代には欠けているのだなと思う。「生きていなければならないから生きている」という消極性が世の中を覆っているから、「生きていなくてもいいよな」というあきらめに簡単に転化する。生きる力を生み出すような強さのある作品を、ほんとうは時代は求めているのだと思う。……と書いたが、実際には時代はまだまだ休息を、自己憐憫を、癒しを求めているのかもしれない。「生きている気がするために生きる」などというのは、まだまだ豊かさが拡大傾向にあり、バブルに向かっていた80年代の時代の空気であって、現代の若者のかたくなな心を開くには足りないものなのかもしれない。

しかし、表現はどんなに変わろうとも、きっかけが何であれ、「生きようとして生きる」積極性が復活しない限り、時代がいい方向に動いていくことはないだろう。アメリカにオバマ政権が生まれたのは、世界がその方向に動いているということだと私は思っているが、日本もその波に早く乗った方がいいと思うし、むしろ積極的に日本としての生き方、人類としての行き方を提案するような作品が出てきてほしいと思う。

村上春樹の『1Q84』はある意味そういう作品かもしれない。心の中にある愛する人をほんとうに求めると決意するまでがこの小説の隠れた主題だと受け取れば、「愛するために生きる」というテーゼが読んだ人の心の中に密かに残っていくだろう。それはたぶん、かなり重要なことだ。

しかしまだその動きは足りないし、もっと大きな波にしなければならない。マネーの洪水の後の荒れ野を、ふたたび開拓していかなければならないのが、現代という時代なのだと思う。再開拓の時代なのだ。

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