『日出処の天子』:人はみな孤独

Posted at 09/07/03 Comment(4)» Trackback(1)»

昨日。仕事中に鉛筆を弄んでいたら右手の掌に突き刺してしまった。ちょうど生命線のど真ん中あたり。痛かった。というか今でも痛い。参った参った。

近くの高校の文化祭の、今リハーサルをやっているらしく、バンドの音が聞こえる。参ったなこりゃ。

日出処の天子 (第2巻) (白泉社文庫)
山岸 凉子
白泉社

このアイテムの詳細を見る

『日出処の天子』。7巻の厩戸王子と毛人の訣別の場面を何度も読み返す。厩戸王子は超人的な能力を持つが、それを補う力を毛人が持っている、ということを自覚していて、毛人にともに生きることを、つまりは自分を愛することを要求する。しかし毛人はそれを拒絶し、完全な力を持ってはならない、だから自分たちは一つになってはいけない、という。それは王子でなく布都姫を取る、という宣言なのだが、布都姫にしたところでこれは確かに王子が言うように「男である私から逃れるために探し出してきた手段に過ぎない」というのは読者の誰にも納得されるところだろう。(だからといって布都姫を愛してないわけではない、というのが毛人の造形で、そのあたり矛盾があるといえばある)そう主張する王子は実際には心と裏腹の弱気で、このあたりの描写はもう全面的に王子の側に思い入れてしまう。実際、こうした場面では相手の本当の心はわからないまま、自分が希望を持ったり弱気になったり絶望したりと激しく揺れ動くものだから、強い言葉で言いながら、「口に出してしまう言葉の何という空しさだ」と思ってしまう。この王子の、毛人に対するときについ心にもないことを言葉にしてしまったり、思っていることを口にすることでさらに傷ついたりしてしまう心の動きの描写が、刺すようにリアルだ。

王子の言う力は人間という器が持ってはならない力だ、という毛人に対し、「人間になぜそのような限界を強いるのだ。我々人間にはまだまだ計り知れぬ能力があるはずだ!それが神の領域であるはずがない」と王子は言う。しかし毛人は「何か一足飛びに飛び越えた大きすぎる力なのではありませんか。私にはその力を駆使したいなどという気持ちは微塵もありませんよ」という。

このあたりのところになると、この毛人の言うことの方が私には理解できなくなってくる。誰にも追随を許さない力があると分っていて、それを使いたくない、となるとそれはよくわからない。しかし、それは毛人が望んで駆使するものではなく、厩戸王子の意思の追従者になってしまうと毛人が考えているということだろうか。王子は、自ら大王になることを望んではいないが、毛人がそういうならなってもいい、というくらいには毛人にめろめろなのだが、そのあまりに純粋な想念のような愛を受け入れることを毛人はなぜか全力で拒否している。いやこのあたり、何と言うか、成り行きというか行きがかりというか、もうこうなってしまったら最後まで言わなければならないという感じで、どちらにとっても本当にいいのかどうか分らない結論に自分が主導して持っていってしまうことがよくあった私などにとっては心理としてはよく分るのだが、本当にそれでいいのかとも思う。

毛人は人間としての成長のため、自分たち二人では前に進むことができないという。懐かしいフレーズだ。今の若者もそんなことを言うのかな。でも何というか、毛人は二人の関係に共依存とでも言うべきものを感じていたのかもしれないと思う。王子といると自分が自分ではなくなってしまうし、王子もまた自分の初志を貫徹できなくなると。しかし毛人が無意識の世界にあるときは二人は限りなく完全に一体化することを王子は気づいていたし毛人も自覚させられた。しかし、意識としての毛人はそれを拒絶する。無意識に対し意志が勝利する。

「我々二人で高めあうことは充分できるはず。あの愚かな女どもが立ち入らぬ分それだけ高く。」と王子は言う。これは、よく小説やドラマで同性愛の孤高の芸術家などが口にする言葉だ。折口信夫なんかも言いそうな感じだ。しかし毛人はそれを強く否定する。「そんなはずはありません!この世は男と女の二つで成り立っているのです!あなたさまはその半分の種を見返らぬまま何かを成そうというのですか。人は行くところまで行き着いてはじめて完成するのです」王子でなく、布都姫と生きる道が見え、王子の「呪縛」が解けかかっている毛人はそのように強く言う。

「ならば私は取り残されるということか。私には進むべき別の道が見えぬもの。」女性を愛することができない王子は「やはり私は一人になるのだな」という。

毛人はその王子の孤独を、「人とはもともと一人…なのです」という。「人間はみな孤独だ。」これもまた青春の永遠のテーマだ。毛人がここまで深い人間に対する認識を持っている、ということがなんとなく納得できないものを感じなくもないが、王子に長く付き合い、また自分自身の不幸と幸福を繰り返す中でそうした認識にたどり着き、この王子との問答の中でそういう言葉として発せられたと考えられなくもない。

「王子のおっしゃっている愛とは、相手の総てをのみ込み、相手と自分と寸分たがわぬ何かにすることを指しているのです。元は同じではないかと言い張るあなたさまは、私を愛しているといいながらその実それは……あなた自身を愛しているのです。」

やはりこれは決定的なセリフだ。「私を愛しているといいながら、本当に愛しているのは自分(だけ)なのだ」と相手の愛をすら否定する残酷さ。この毛人がここまで残酷になれるということが愛の抜き差しならない深さを指してもいるわけで、そういう意味で、修羅場のセリフが残酷であればあるほど、その残酷なセリフは自分自身をも突き刺すのだし、その愛がいかに深かったかを表わしているのだとも思った。修羅場というのは何度やっても慣れるものではないし、仕舞いにはそれが面倒だから女性と付き合うのが面倒になるようなものでもあるのだが、愛というものはやはりそうしたものであって、それだけ深い恋愛をできたことを喜ぶべきなのではないかとも思った。恋愛というのは登山と一緒で危ないと思ったらその時点で引き返せ、とは『誰も寝てはならぬ』の名言だが、引き返すばかりでは頂上を極めることもできない、というものでもある。

もう一つこのセリフに何かを読むとしたら、「同性愛とは、結局自己愛、ナルシズムなのではないか?」という問いかけだ。少なくともこの王子の言う愛にはそれがないとはいえない。総ての同性愛がそうかどうかは私にはわからない。

帰ってきた王子は斑鳩宮を尋ねて来た刀自古に総てをぶちまける。泣いて帰る刀自己を追い出し夢殿に篭る王子の前に仏が現れる。「おかしなときに見えてくるものだな。そなたに頼りたいなどと今はもう思いもしないというのに。・・・え?では今まで仏に頼っていたように聞こえるではないか。今までだって当てになどしていなかったはずだが……ふーんなるほど。自分でも自分を救えぬものの前に現れるというわけか?それにしてはそなたたちが何物をも救わぬのを私は見てきたぞ。よくわからんな。ずいぶんいっぱいでうるさいぐらいだ。ちょっとどけろ。」仏に包まれて鬱陶しくなった(笑)王子は夢殿から出ると、気の狂った乞食の少女に出会う。そしてこの少女を、王子は三番目の、そして性的な交渉を持つ唯一の妃とする。

女性を愛することのできない王子が、なぜこの少女とは性交渉を持つことが出来るのか。このあたりのところ、結局バイセクシュアルであったのか、普通の大人の女性でなければいいのか、男色者であり少女性愛者であるのか、よく分らなくなる。少女の目が母に似ている、というところを取り上げればある種の母子相姦ともとれる。でももちろんそんな定義は全く無意味だ、というのが正しいことだろう。形式的にはそういう疑問が出て来はするけれども、このあたりのところは突っ込んでも何も出てきそうな感じはない。この物語は結局は厩戸王子と蘇我毛人の愛の物語であり、総ての女性は脇役であって、書き込まれている度合いが違うのだ。

それよりもむしろ、王子はこの乞食の少女を妻としたということで、毛人の「この世は男と女の二つで成り立っているのです!あなたさまはその半分の種を見返らぬまま何かを成そうというのですか。」という問いかけにこたえたのだ、と思える。そして毛人と生きることを断念した王子が母である間人女王の目を持つ少女、つまりは王子の、現実の世界ではなく無意識下に広がる広漠とした世界において真に一体化できる存在をようやく手に入れた、ということでもある。毛人はその選択について、「(わたしがつっぱねた)王子が真に欲するところのものがこんな形で現れようとは。それほどあなたの傷は深く痛ましい!本来あなたの青春の行く手は無限の可能性ときらめきに満ちていたはずだ。それをあなたはあの少女との黄泉にも似た道を歩んでゆかれるのですね。……今私たちは相容れないそれぞれの道を歩み出しているのですね。もはや永久に交わることのない道を…」と感じている。

このあたりのところ、作者が明示しているわけではないので自分がこう読んだ、としかいえないが、やはり仏の配剤によってこの少女が厩戸王子の前に現れ、王子もその意味を悟った、と考えるしかないだろうと思う。この少女が無意識界でどんな世界を持っているのか、そのことについては何も語られていないので全くわからない。しかし、王子は少女に、「無駄なことだと分っていて、それでも私は活きてゆく。ちょうど仏が何者をも救わぬとわかっていながらなおかつ仏の姿をかいま見るように。いやかいま見るのではなく見ざるを得ないのだ。見ざるを得ないというその気持ち自体がもはや”救い”ということなのか?それが仏を信じるということなのか?どう思う?」と問いかける。

この問いの意味は何だろう。答えが返って来ないとわかっていて問い掛けているのか、それとも魂の深いところでいずれ答えが返ってくるとわかっていて問い掛けているのか。王子はそれに自分で答え、「ふふ 難しすぎたかな」という。難しいも何も、どんな明晰な頭脳の持ち主に聞いても、おいそれと答えることがあたわない問いであろう。この少女の存在が最後に謎として残されている。この終わり方は嫌いではない。

そしてもう一つ大きなことは、女性のいなかった斑鳩宮に、この気が狂っているとは言えれっきとした王子の妻が住み着くようになったことだ。斑鳩宮は女性嫌いの王子が営んだ宮であり、舎人の淡水と調子麻呂、天才少年トリの三人だけが住む、この作品の中で一番BL的な、そして王子にとって、また女性に絶望しかけたときの毛人にとってもっとも心安らぐ場所であった。その場所にこの少女が住み着くことで、その世界もまた終焉した。

調子麻呂「どうしてこういう事になったのだろう」
淡水「あの方がそう望むのに何の文句があるというのだ」
調子麻呂「淡水そなた平気なのか」
トリ「平気じゃないやい!あれっち認めないよあんなの。王子様らしくないやい。」
淡水「トリおまえ妬いてるんだろ。」
トリ「や妬いてなんか!」
 夢殿の中から少女の嬌声が聞こえる。三人無言。

つまり王子は、すでに同性愛者ですらなくなったのだ。人はみな孤独。

推古女帝は王子を見て思う。「この王子はまた何か雰囲気が変わった。……まるでその身が何かに漂白されて縹渺たる様がむき出しになったような…とにかく今の私にはさらに手の届かない所にこの王子が行ってしまった気がする。」毛人と別離し、少女との道を歩き始めたことで、王子はさらに高みを目指して歩き始めた。そう解釈するしかないのだろう。聖徳太子は天翔けて天上に去ってしまった、というような伝説があった気がするが、この世との交渉を最小限に抑えながら、自らの道を行くことになったのだろう。

でありながら、現実の権力者としても離れ業を成し遂げる。最初の朝廷で隋との外交という新機軸を打ち出した王子に、蘇我馬子は王子の真意を悟る。この蘇我馬子というキャラクター、明らかに脇役でありながら非常に魅力的で、特にこの王子の真意を悟る場面が私は大好きだ。

馬子「ばか!朝廷に出向かぬおまえにはわからぬわ!いいや今日出廷していた群臣どもも何人が気づいたやら。朝廷の力がいきなり倍増したのだぞ!」
毛人「どういうことですそれは!?」
馬子「大王が二人になったからだ!……王子の位置はまるでそうだ!まるで王子がこの蘇我と取って代わったがごとくだ!」
 唖然とする毛人。
馬子「なんということだ。……あの王子の目的は大王というお飾りではなかった。あの王子の目的は執政者になることだったのだ!名ではなく実を取ったのだ。」

この解釈は全くぞくぞくさせられた。聖徳太子は蘇我馬子の専横に苦しんだ、というのが伝統的な歴史解釈なわけだが、そうではなく丸で逆で、豪族の力を抑えるために自らは大王の位につかず執政者として朝廷(というか皇室だな)の権力を増すことを図ったというのだ。なるほど言われてみればそのとおりかもしれない。日本の権力というものはいつもそうで、天皇にしろ将軍にしろ権力を握り権威を確立したらその時点から権力者は執政の立場から離れ始め、中空の存在と化していく。ときおり権威が執政権を取り戻すときが訪れるが、基本的に日本の権力は常に中心が中空で、ある意味そういう状態の方が安定している。基本的に、日本は絶対主義的な権力体制とは無縁なのだ。

しかし、そうした権力の建て直しが時々行われ、その中でも最初の立て直しと考えられる飛鳥から奈良にかけての天皇絶対主義体制の確立の最初の試みが聖徳太子の執政権の掌握であった、というのは納得できる。豪族勢力を代表する蘇我と朝廷(というより皇室)を代表する勢力との拮抗は中大兄皇子による乙巳の変によって蘇我を打倒し、皇室の権威・権力の絶対性の確立に向かう。その際も、中大兄皇子は自らが天皇になることはなく、孝徳・斉明の両朝で執政権を握りつづけ、斉明天皇の死後も白村江の敗北があったとはいえ即位せずに称制を続ける。即位後は大友皇子と大海人皇子の対立が表面化するなど、やはり権力の空洞化が見られるわけで、その後も象徴存在となることではなく執政権を握ろうとする争いこそが日本史を作っていくと言っていい。そして象徴存在を冒すことは不敬であるが権力を握ること自体はそれなりに開かれている(もちろん範囲や自由度はその時代によって全然違うが)という体制が固定化されていった。これは日本という国の大きな特質だと思う。日本は常にさまざまなバランスの上に成り立ってきているのだ。

続編である「馬屋古王女」は上宮王家の崩壊を描いている。「気の狂った少女」=膳部美郎女との間に生まれた多くの子女たちの中には優れたもの、美しいもの、良いものもあり、また痴呆状態のものもある。そして総てを滅ぼす元凶となる馬屋古王女もある。ここにこの美郎女の底知れぬ精神性がさまざまな形で現れている、というのは、読みすぎではない、と思う。とは言っても、そこから先は私にはわからないことで、わからない巨大な部分があるからこそ、この物語の底知れなさがあることもまた確かだと思う。

桑田忠親『茶道の歴史』(講談社学術文庫、1987)ももうすぐ読み終わるのだが、その感想はまた改めて。

"『日出処の天子』:人はみな孤独"へのトラックバック

トラックバック先URL

"『日出処の天子』:人はみな孤独"へのトラックバック一覧

エンゼルバンク 立ち読み 新垣

from エンゼルバンク~就職代理人 最新情報 at 10/01/08

ハンターハンター27巻、とうとう25日に発売!! 連載再開は1月4日から ... 「宇宙兄弟」8巻や、長谷川京子さん主演でドラマ化が決まった「エンゼルバ...

"『日出処の天子』:人はみな孤独"へのコメント

CommentData » Posted by OWL at 09/07/12

はじめまして。

以前から時々読ませていただいてました。特に本の感想などを。

日出処の天子、の話題でとうとうコメントさせていただくことに
しました。

80年代の少女漫画はすごかったです。何か新しいことが
どんどん起こりつつある、という感じ(想像ですが
60年代後半のロックミュージックシーンのような?)がありました。

日出処の天子、連載時リアルタイムで読んでいました。
(雑誌のサイズで初回はカラーで。よかったですよ〜)
連載第一回を読んで、すごいって思いましたが、
そのあともどんどんテンションがあがっていって。
最後もきっちり納得のいく終わり方でした。
あのときも名作だと思いました。
感想を読ませていただいて、今初めて読む方をも
感動させ、いろいろなことを想起させる力を持った
時代を超えた名作だったのだな、と改めて思いました。

ところで、私は喫茶店でマンガ雑誌をよむのですが、このサイト
で、ひまわり、と、誰も寝てはならぬ、の面白さを
教えていただきました。ありがとうございます。


CommentData » Posted by kous37 at 09/07/12

コメントありがとうございます。表示承認が遅れてすみませんでした。

確かにあのころの少女漫画はすごかったですね。萩尾望都、竹宮恵子、里中満智子、一条ゆかり、いろいろありました。私は河あきらとか、実は好きだったです。山岸涼子も読んでいてもおかしくはなかったのですが、なんとなく読む機会がなく、『テレプシコーラ』で初めて読んで衝撃を受け、遡って読んだ次第です。

「ひまわりっ」と「誰も寝てはならぬ」、いずれも「モーニング」連載の漫画ですが、立ち読みも含めていろいろ読んだ感じでは、「モーニング」が今一番面白いマンガ雑誌ではないかと思っています。ゲームに圧されたり多様化が進んだりはしていますが、まだまだ日本のマンガは面白いし、頑張って欲しいなと思います。

CommentData » Posted by OWL at 09/07/12

返信ありがとうございます。

河あきらさんというと、別冊マだったでしょうか?
いらかの波、でしたっけ?

大島弓子さんも好きでした。
『綿の国星』もリアルタイムで読んでいたのですが、
やはり連載第一回目から、すごい、今までと
何か違う、と思いました。

モーニングは半年ほど前から、家のそばの喫茶店が
おくようになって、最初はシマシマとか
エンゼルバンクとかしか読んでなかったのですが
このサイトで他の連載作品の面白さを教えていただきました。
ありがとうございます。

では、また機会があったらおじゃまします。

CommentData » Posted by kous37 at 09/07/13

『いらかの波』だったと思います。もうはっきり覚えてないんですが。
大島弓子も当時評判でしたね。私は残念ながら読んでなかったのですが。

またマンガの話題も取り上げて行きたいと思っています。今後ともよろしくお願いします。

"『日出処の天子』:人はみな孤独"へコメントを投稿

上の情報を保存する場合はチェック

月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday