『日出処の天子』:推古朝の華やかさ、目に見えない部分の広さ、作家の業の深さ

Posted at 09/07/01

日出処の天子 (第2巻) (白泉社文庫)
山岸 凉子
白泉社

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山岸涼子『日出処の天子』(白泉社文庫)全7巻読了。7巻189ページ以降は続編とも言うべき「馬屋古女王」。「日出処の天子」は、厩戸王子が遣隋使の派遣の際の国書を起草している場面で終わる。「馬屋古女王」はその厩戸王子、すなわち聖徳太子が薨去されたときから始まり、そのもがりの宮でのエピソード、上宮王家すなわち聖徳太子家の滅亡を暗示する場面で終わる。もともと山背大兄王の一族が滅亡することは「日出処の天子」の中でも厩戸王子の夢=ヴィジョン(幻視)の中で繰り返しでてくる。だからこの掌編はやや蛇足のように思われたのだが、「日出処の天子」がある意味華やかな推古朝の開幕を告げるある意味希望に満ちた場面で終わることが、何か作者にし残したことを感じさせたのかもしれないと思う。

しかし大変な作品があったものだ。古代史のこのあたりのストーリーは大体頭にあったとはいえ、それをどのように描き出すかについては全く想像を超えている。それは当然なのだが、描かれたものはもはや古代史ロマンというような言葉で片付けられるものではなく、人間の業の深さや仏の救いの意味といった信じ難い深いところまで射程が延びている。岡野容子「陰陽師」にしても、この作品の構造がかなりの部分換骨奪胎されて使われている。厩戸にたかる下級霊のありさまなど、「陰陽師」や近藤ようこの中世ものによく出てくる場面に輪廻転生している場面がたくさんある。

聖徳太子が実は超能力者だった、というような設定としてよく語られるけれども、厩戸王子のやっていることは彼自身が言うように、「誰にでもできること」なのだと思う。その能力を伸ばせばの話であることはもちろんだが、車の運転が出来ることくらいには誰にでもできることで本来あるのかもしれないと思う。だから彼の感じている理不尽さとか孤独の深さというものは、感じ取れるものがあった。水木しげるが7巻の解説でシャーマンの三つの種類ということを言っていて、悪霊祓いのように霊がその人の中に入ってきて動かす場合、予言者のように外側で霊が手伝っている場合、霊がつかないけれども本人に何かを感じさせる場合、があるのだという。水木は自分が妖怪が好きで妖怪のことを書くことについて、誰かが手伝っている、と感じているのだそうだ。私はもちろん前の二つは全然縁がないが、三つ目のものは分らないでもない。目に見えなくてもあるものはあるし、目に見えてもそう意味のないものもある。

大事なのは、目に見えない部分をいかに感じ、いかに大切にするのかということなのだと思う。それは霊というとわからない感じがするが、何かの本質とでも言うべきもので、それは知性のみによってとらえられるものではないように思う。たとえば「権力」にも目に見える部分と見えない部分があり、目に見える部分だけを物にしようとしても目に見えない部分に振り回される。大切なものは目に見えない、というのは「星の王子様」のメッセージだが、目に見えるものと目に見えないものがあるのではなく、すべてのものには目に見える部分と目に見えない部分とがあるということなのではないか。このマンガの厩戸王子は誰にも見えない部分が見える力を持っていて、おそらくはそのことと深い関係があって普通の女性を愛することができない。それは母に疎まれた結果であるという形で提示はされているが、そんな単純なものとももはや感じられない。

人間にもやはり、目に見える部分と目に見えない部分がある。それをあえて隠そうとしている人間は策士として信用できないということになるが、あえて隠そうとしなくてもぜんぜん見えない大きな広がりを持つ人間というのはいるし、逆に目に見える部分からほとんど広がりのない人間もいる。人を知っていくということは、そういう目に見えない部分を知っていくということが面白いのだと思うが、それが誰でもそうなのかは分らない。それを「人間探求」と言ってもいいと思うが、それは今まで考えていた人間探求ということのイメージとは少し違う。けれどもその方がどうも私は面白い。

しかし山岸涼子は、発想の自由な飛躍を積み重ねて舞台を作って行き、とことん築き上げてから6~7巻になってものすごく本質的な部分に切り込んでいく。崇峻天皇暗殺という古代史の重大事件の中で厩戸王子と毛人の本質的な親和性とそれゆえの違和との象徴的存在である布都姫殺害とを重ね合わせていく手法はくらくらした。これは『ベルサイユの薔薇』だ。オスカルとアンドレの愛の成就とバスチーユ襲撃を重ね合わせた手法、もっと言えば二月革命の動乱と愛の行く末を重ねたりするフランス文学の手法を引いている。しかし史実とドラマのクライマックスをこのように重ねるのはやはり神をも恐れぬ所業だと感じてしまうなあ。でもそれをやってしまうからこそ、作家という存在は業が深いのだが。
厩戸王子にとって特別な存在である二人、母の間人女王と毛人の存在の意味が解きほぐされていくが、またそれでも余計なことは語られない。最後に狂った少女が厩戸王子の第三の妃になり、彼女だけが本当の彼の子どもたちを生むというのも最後までこのストーリーのテンションを下げず、それでいて大団円におさめるすごいストーリーだ。自らの一族の滅亡を知りながら、すべて無駄なことだと知りながら、厩戸王子は政治に熱中する。

「私には見える。遠い海の彼方で次々と船の沈む様が。あれは我々の隋へ向かう船であり、その逆に隋から戻ってくる船でもある。何千巻という経文が海底ヘ消えていく…そしてそれに書かれた文字の一つ一つが仏の姿になって海の中の水泡となって溶け去っていくのが見える。」

このイメージはすごい。厩戸王子は、気の狂った少女に向かって話しつづける。

「それでもわたしはやるだろう。隋へあてる書の出だしはこうだ。日出処の天子、書を日没処の天子へいたす…日出処というのはこの国のことだ。どうだいい表現だろう。今度は破ってはいかんぞ。そうだ、ちゃんとたたんで大事に持っていてくれ。」

この少女にだけは、何をいっても理解しているとは思われないこの少女にだけは厩戸王子はすべてを語る。しかしこれは、この少女の存在は何を言っても王子の意図も心も理解できはしない群臣や民衆たちの暗喩ではないかと思った。理解されなくても、すばらしいことをしつづけなければ生きている気がしない。そうした厩戸王子の、まさに業であって、唯一の理解者である毛人はそれとともに生きることを拒否した。その孤独の強さ。でもそういう道を歩き出そうとするその姿が、何か大きな希望のように思える。

推古朝はやはり日本古代史の最大の見せ場のひとつであり、それは推古女帝、蘇我馬子、聖徳太子という才気と胆力の溢れた個性の三頭政治の時代であって、理想主義の面において聖徳太子が明確なイニシアチブをとったことがその世界をきわめて華やかにしていることは確かだ。その古代史の構造を、こんな形で華やかに描き出した作品はほかにないだろう。

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