村上春樹『1Q84』Book1

Posted at 09/05/29

どんよりとした曇り空。朝から、晴れたり曇ったり、一時的に雨が降ったり、を繰り返している。

昨日はある事情があって、仕事は暇だった。もっとも、その事情を知ったのはもう仕事が終わりかけたときだったが。しかし暇だからといって席をはずすことの出来る仕事ではない。関連した小さな仕事を片付けながら、変化を待っていた。しかし取り立てて変化もおきないまま時間になり、帰って食事をし、入浴をして、本を読んで寝た。

1Q84(1)
村上春樹
新潮社

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村上春樹『1Q84』。Book1を読了。ここから先は内容に関わるので、まだ読んでいない人で今後読むであろう人は読むことをお勧めはしない。もちろんそんなこと書いてもだれにも読んでいる人の行動をコントロールすることなど出来ないのだけど。

話は、二人の主人公を持った二つのストーリーがかわりばんこに出てくる。奇数の章が青豆という女性。偶数の章が天吾という男性。二人の関係は、基本的なことはBook1の段階である程度はでてくる。ただ、Book2になっても奇数が青豆、偶数が天吾というパターンに変化はない(目次にそう書いてある)ので、最後までこの二人が物語りの中で実際に出会うのかどうかもわからない。少なくとも、出会うかどうか今の段階の私は知らないし、読み終わるまでその答えを聞きたいとは思わない。

村上の小説は大長編、つまり二巻以上の長さのものは『ねじまき鳥クロニクル』と『海辺のカフカ』しか読んでいない。他にも『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』などがあるが、私は読んでいない。私は『ねじまき鳥クロニクル』から読んだので、それ以前の小説に帰っていきたいとあまり思わないのだ。それでも『モンキービジネス』のインタビューを読んで、若くてまだ思い通りに書けなかった頃の村上の作品も読んでみようかと思い、『1973年のピンボール』を買い、今でも鞄の中に入っているが、あまり読み進んでいない。この中でコードバンの靴が出てきて、これはたいそうな高級品であることを知っていたので少々驚いたのだが、『1Q84』でもそれが出てきてちょっと目眩がした。そういうアイテムの好み、村上自身はきっと書いたことも忘れていると思うが、そういうところに作者の逃げられない何か、とは言ってもそれはちょっとしたものであろうが、があるんじゃないかと思った。少なくとも読者は多少拘束される。

『1Q84』の文体は、『ねじまき鳥』や『海辺のカフカ』とは全く違う。一番大きな違いは三人称でかかれていることだ。人称の問題は『モンキービジネス』のインタビューでもだいぶ語っていたので、今度の新作は三人称で書かれているだろうと思っていたからそれはそんなに驚きではなかった。また文体の問題は最初の方に特に強く意識されていたように思う。Book1の後半になるといつもの村上っぽさがだいぶ出てきて、そういう意味ではあえて違う文体で硬く書こうという意思を強く持って書き始めたのだろうという気がする。村上っぽさ、というのは、たとえば会話で「なんとかだよね」「あるいは」「こうかもしれない」「理論的には」といった会話だ。「は」で終わる会話文、といってもいい。こういうのが出て来ると村上さん、という感じがする。

しかし、目に付くことでいうと固有名詞がものすごくたくさん使われていることだ。それも現実の1984年の。これだけ固有名詞を使った作品は、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』以来記憶にない。『なんクリ』には注がついていて、たとえば東京女学館という学校名が出て来ると、「制服がかわいいな、の女学館」といった注がつけられていた。『1Q84』には注はないが、普通に現在の東京で暮らしていれば大体見当がつく種類の固有名詞で、(たとえば新宿の紀伊国屋とか中村屋とか)またわからなくても困ることはない。登場人物が信濃町や青梅線の二俣尾に行ったりするのがやはりやや新鮮ではある。現実の1984年と、少し何かが「変えられて」しまった「1Q84」年。青豆と天吾が、そのどちらにいるのか、同じ側にいるのかさえよくわからない。

小説的な意味では、そういうさまざまな仕掛けを楽しむことが出来、小説を読む技量のレベルが高い人であればあるほど、そういうものを楽しむことができる。たとえば428ページに不吉な響き、という言葉が出てくるのだが、それを村上は「青豆の耳はその微かな響きを、遠くの雷鳴を聞くときのように感知することができた。」と書いている。これはオーデンの詩にある、以前このブログでも触れたことのある「死はピクニックのときに聞こえる遠雷」というフレーズを踏まえている。と思われる。そういう知らなければ何も考えずに読み飛ばしてしまう言葉の中に、さりげなくそういう言葉をひそませてある。私はたまたまこのフレーズを知っていたからそのように読んだけれども、今まで読んで来た村上の小説の比喩の中には知らないで何か出典があるものもいくらでも有るんじゃないかという気がする。これから卒論を書こうという人はそういうものを拾い集めたら一本書けるんじゃないか。お題はいりませんから自由に書いてください。とはいってももうすでにそういう論文があるかもしれないけど。

1984年というのは、個人的にも自分の転機になった年なので、自分のことを思い出すとなんだか不思議な感じがする。私は22歳だったからメチャクチャだったが、(いや普通の22歳はもっとまともなんだろうな)特に物語の設定になっている4月から9月の間というのは正直怒涛の期間だった。どこかのパラレルワールドでこういう話が展開していたらそれはそれで面白いと思うが。

小説の展開とともに二人の主人公とまわりの人々の過去が語られて行き、その語られている過去の内容に何を感じるかは人それぞれだろう。その過去に関する内容は、読んでいる私自身の過去に海底に潜む海鼠のように沈んだあるものとかなり関わりのあるもので、読んでいて少々誰のことを書いているのか一体、という気持ちにさせられるところがあった。しかし、いちばん深い問題のところは主人公たちではないので、一定以上は(今のところはだが)自分の傷の深い深いところにまでは達しない感じなのでとりあえず安心して(安心というのは常にとりあえずでしかないが、その取りあえずというところにもっとも深い意味があるのだと思う。永遠の安息にはまだ早い)読むことができている。

とにかく自分の中をかなり掘り起こしながら読まざるを得ない作品だったので、書き留めておきたいと思うフレーズを書き留めたりなんとなく思ったことをメモしながら(ハードカバーの新本のページの隅を折ったり書き込んだりするのがなんとなく嫌だったので)読んでいたら、Book1の分だけでノートに29枚も書いてしまった。もちろんこれだけメモを取ったのは初めての体験だ。それだけ抜き差しならない関係がこの本と自分との間にできている。その関係がBook2まで読み終わったときにどのようになるのか、それはもちろんまだわからない。

とにかく内容についてあれこれ語るのはまだ早い、ということもあるが、しかし読んでいる途中に強く感じても読み終わったら忘れてしまう種類のことというのもたくさんあるから、こういう読みかけの状態で少し感想めいたことを書いてみるのも意味のないことではないと思う、けれども、だからといって自分の中の地獄の釜の蓋をも一緒に開けながら読んでいるわけだから、何もかも書けるという訳ではない。

ただ、いいなとおもったのは天吾がふかえり(少女の名)と一夜を過ごした(性的な関係はない、もちろん挿入も)時の場面だ。ふかえりは『平家物語』の壇ノ浦の合戦の場面を暗誦する。「浪の下にも都のさぶらふぞ」というあの場面だ。(私はこのあとの入水の場面、「情けなきかな、ぶんだん(漢字不明)の荒き浪、玉体を沈め奉る」というくだりが好きなのだが、多分村上は意識的にそこを避けたのかなという気がした。)ふだん寡黙な17歳の少女がこの場面を朗々と語ったらそれだけで世界がひっくり返りそうである。そして天吾はふかえりにチェーホフの『サハリン紀行』を朗読してやる。ギリヤーク人のくだりである。「ギリヤーク人はずんぐりした、たくましい体格で、中背というよりはむしろ小柄な方である。もし背が高かったら、密林で窮屈な思いをすることだろう。…」この朗読の場面のリリカルさは、イシグロの『わたしを離さないで』を思い出させた。村上は、イシグロの新刊が出たら真っ先に買う、と言っていたから、ここで朗読の場面が出てきたのは何かしらそういう意図があったのかもしれないと思った。

もちろんストーリーのちょっとしたしかけとしてこれは用いられていて、あとで年上の恋人と行為をしているときにギリヤーク人のことを考え、ふかえりのことを思い出してしまって思わず射精してしまうという場面が出てくる。それまで射精の場面はやはり年上の恋人と行為をしているときに(どちらも挿入ではないが・挿入という言葉がこの小説では奇妙に屹立している)出てくるのだが、その現象そのものに何か意味があるのかは今のところはわからない。とにかく教訓としては、他の女性としてるときにはギリヤーク人のことを考えない方がいい、ということだ。

ギリヤーク人は道路を歩かず、密林の中を歩く。それをふかえりは「ドウロをあるくにはあるくことをはじめからつくりなおさなくてはならない。」という。生きることをはじめから作り直すことはできない。だからギリヤーク人は道路でなく密林の中を歩く。どんなに大変に見えようと、ギリヤーク人にはその方が楽だからだ。人の人生は大変そうに見えるが、その人にとってはそれ以外あるくことのできない人生である、ことがままある。

小説は物語を追っていくこともできるが、やはりよくできた小説には詩と同じように両義性もあるし啓示性もことばそのものの力もある。そのことについて、書きたいことはたくさんあるのだが、多分あまり書かない方がいいだろうという感じもある。少なくとも今は。29ページのメモが醗酵するまで待つのもまた、いいことかもしれない。

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