入沢康夫という詩人/詩が人々と、また世界とつながる可能性

Posted at 08/06/14

詩にかかわる
入沢 康夫
思潮社

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入沢康夫『詩にかかわる』読了。この本は、入沢の詩作品以外の雑誌に掲載された文章などを集めたもので、1971年から2000年という非常に広い時間的なスパンの中で書かれたものが集められている。文章のテーマも故郷・出雲への関心、それに関連してラフカディオ・ハーンに関するもの、フランスの詩人ネルヴァルに関するもの、宮沢賢治に関するものがあり、また数々の現代詩人たちに対する詩評や物故の際の追悼がある一方で、詩に関する問題、特に現代詩、昭和詩、口語自由詩、韻律、定型、等々の問題について語られた実にさまざまな文章がある。

そのほかにも、『宮沢賢治全集』の編纂の経験から本文校訂をめぐる問題についても言及しているし、また同じような問題意識からだろう、伝記的事実の確定という年譜作成に関わる問題についても語られている。こうした問題には私はあまり関心がないので読み飛ばしはしたが、極端なものでは、宮沢賢治が樺太に旅行した際、何時の列車に乗り、津軽海峡を渡ったときは昼だったのか夜だったのか、と言った問題にも突っ込んでいる。またネルヴァルに関しても、彼が死んだときの状況を確定するための作業についてなど、かなり細かいところに突っ込んで議論している。入沢は詩人であると同時に文学者でもあり、また文学を研究するアカデミシャンでもあるとともに、職人的な本分校訂の地道な作業(これは欧米では学問として確立しているが日本ではまだ立派なひとつの文学研究ジャンルとして認められていないという。2008年現在の状況がどうかは分らないが。)にまで踏み込んでいて、この人の活動の幅広さ、文学への関わり方の「厚み」のようなものが感じられる佳品だと思った。

昨日も書いたが、私が一番関心があるのは詩についての議論だ。入沢も現代詩の現状についていろいろなことを語っているが、彼は基本的に楽観的で、それには割合好感が持てる。詩は小説(純文学)よりもさらにハイブロウな印象があるし、詩を書く人間も小説を書く人間よりずっと少ないだろうし、「詩人」を職業としている人はさらにほんの一握りであるわけだが、入沢の目を通して見るとそうした詩の世界がかなりの沃野に見えてくるから励まされる。小説にしても、文芸誌が売れない、特に文芸誌の発行部数が伸びないということが常に問題にされている(「すばる」の発行部数は数千部だが、スバルの新人賞への応募は1万本以上あるというのが現状らしい)けれども、詩はもう最初から商売になるという次元を超越しているところがあって、逆におおらかなところがある。

ちょうど手元にあった『現代詩手帖』が入沢の新詩集『かりのそらね』の特集になっていて、今ぱらぱらと読み直してみたが、たとえば俳優の佐野史郎などが寄稿している。佐野は入沢と同じ松江の出身で、そのあたりからひろがるイメージが語られた豊かな稿だ。入沢の詩を佐野に紹介したのが状況劇場の先輩に当たる人形師の四谷シモンであるというのも非常に取り合わせがよい。詩は詩だけでは現代日本の状況において広がりを持ちにくいが、演劇やアート、それも人形などのキッチュな分野と親和性が高いのだなと思った。そのあたりから詩はひろがり、つながっていく可能性がある。

詩がつながらなければならない場所があって、それは大衆であり世界なのだとおもう。詩は本屋の片隅で朽ちていくべきものではなく、たとえごく一部の人であっても人口に膾炙し、普段詩とは関係のない人によって心に留められる言葉でなければならない。入沢が四谷シモンの人形展に寄せたという詩の言葉、

   わたしは誰? 誰? 誰? だれなの?
   そして ここ ここはどこ?
   どこなの?

などは、誰の心にも強く残る可能性を持っている。また、出雲を謳った『わが出雲・わが鎮魂』にでてくるという

   その国は地図の上にひろがるだけの国ではない
   目にみえる国の上に目にみえない国が
   目にみえない国の上にみえる国が重なり
   太鼓の音と 人柱の悲鳴と 松風の音が重なり
   その上に 象牙色の巨人の死体が重なり
   しじみ色の湖が重なり

という詩句なども、諸星大二郎の世界を髣髴とさせ、それは私の中にも既に呼吸している感覚を感じる。いずれも一部の愛好者の世界ではあるが、それは日常性の皮膚を突き破って表に、つまり大衆文化的な場所に露出する可能性を常に秘めた世界でもある。そのとき、言葉で書かれた『詩』というものの本当の力が現れるのだなと思う。

逆に、世界への可能性はどうか。日本文学で、最近世界的に定評が創られつつあるのは無論村上春樹だが、もっと広く文化現象一般として取ればサブカルチャー的なアートの世界、村上隆からアニメ、フィギュア、あるいは北野武の映画作品など言語の絡まない視覚的な芸術の分野がハイカルチャーの分野でもポップカルチャー、大衆文化の分野でも評価されつつあると言っていいだろう。詩は言語の可能性を最大限に広げるアートだから、逆に日本語の特質というものに強く拘束される面があることは否めない。しかし、詩は言語であるだけでなくイメージでもあるので、そちらを突破口に世界に評価されていくということも不可能ではないだろう。ただその際は、別の分野とのコラボレートが必要とされるのではないかと考えざるを得ない。詩のみの力で世界に広がることが可能なのかはよく分らない。

しかし、日本の現代の詩作品が世界に広がるためには、日本固有の問題だけでなく、世界が共通して抱える問題、それもまた明確に人々には意識されていないものがコアにあることが必要だろう。それだけのスケールを持った作品を作り出すことは意識されていいと思う。しかしまた、日常に、微細に、細部に徹することによって世界への通路が形成されるということが特に日本文化(とは言ってもやはり映画や浮世絵など目で見るものなのだが)にとってはよくあるという目配りも必要だろう。詩の音楽性、イメージの喚起力、言葉としての力のようなものを異文化の人に伝えるには、やはりまずは映像・音響・舞台作品とのコラボレートが必要になるのかもしれない。

いずれにしても私は、世界化が実現する可能性は大いにある、という楽観的な見通しを持っている。イタリア人とラテン語の詩について、フランス人とネルヴァルやボードレールについて語るのも言いが、世界の人と日本語の詩について語ることが出来るようになったら、日本人にとってもこれだけ誇らかなことはなかなかないような気がする。

朝散歩に出て、南沢の方でとてもいい道を見つけた。今度またいろいろな時間に歩いてみて、道の魅力を感じてみたいと思う。

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by Luke Peterson

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