繰言

Posted at 08/04/11

なんだろう、疲れが累積してきたのか、今日はあまり何もやる気が起きなくて困る。ただこの時間になって日記を書く気になったのだから少しは疲れが取れてきたとはいえるんだろう。やらなければいけないなと思いながらやっていなかった勉強を少しはじめてみたら結構骨が折れると言うことが分り、それで少々疲れてはいるんだろう。慣れてくればましかもしれない。一番大きいのは目の疲れだ。物を書いているときはあんまりものを見てないので逆に目は疲れないのだが、勉強というものは本当に目が疲れる。目の疲れをうまく取りながらやっていかないといけない。だからなるべく物を書いていた方が心身の健康にはいいという感じがする。

日記がこういう独白調になっているときはあんまり目を広い世界に向けていない証拠で、メンタルな内面の海の中でねじ式的に漂っていることが多い。いや、内面と言うのは不適切だな。内面と言うほど心の中が見えてるわけではない。漠然とした不快感とか、漠然とした倦怠感とかが心のように見えるだけで、心と言うほど実態が感じられるものでもない。むしろ肉体に根ざしたものなんだろうと思う。心と体を、からだの方から見ていこうというのが整体の立場だと『体運動の構造』にも書いてあったが、からだに触れば心の漠然とした部分はわかるということは事実ある。しかし、それを前向きに動かしていくにはやはり技術が必要だし、その人自身の動機を見出すことが必要で、そのへんが高度なのだ。

過去の読書記録の整理を続けているのだが、2007年の1月2月あたりを見ていると、経済書・経営書が並んでいる。この時期はかなり頑張ってお金というものやそれを獲得するための技術に関心を持とうとしてみた時期なんだな。そのときの頑張りが今から見ると少し重く感じられてしまうということなんだろう。知的な意味ではともかく本質的に面白くてやっていたわけでなく、強く可能性を感じてやっていたわけでなく、あわよくば出来るかも、という小賢しい期待で勉強していた気がする。なまじ知識を増やし、小手先の技術を扱うことにあまり根拠のない自信があっただけに「あわよくば」の欲望、期待に振り回されてしまっていたんだなあと思う。自分の生とあまり関わらない部分での努力は空回りになるということなんだろう。

そういうもの以外で読んでいたのは、サイト構築関係や、野口晴哉『体運動の構造』、中村明一『密息で身体が変わる』、寺門琢己『男も知っておきたい骨盤の話』といった身体系のもの。あとは宮下規久朗『食べる西洋美術史』、団野村『交渉力』、南雲治嘉『100の悩みに100のデザイン』、村山孚『勝つための哲学 孫子の言葉』、金子光晴『這えば立て』などバラバラだ。こういう雑多なネタは、いろいろな人と幅広く付き合って雑談の際にこういうことがあるよ、といって教えたり盛り上ったりするには生きてくるのだけど、今みたいな人付き合いの少ない時期にはあまり役に立たず、自分にとって本質的なものを希求するにはむしろ妨げになることもある気がする。一番引力があるのは金子光晴だし、やはり原点に帰って詩を頑張ってみるべきなのだろうと思う。

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