もう一人の自分/詩とか歴史とか

Posted at 08/03/30

昨日も書いたが、3月の読書記録をまとめてみたらこれは自分の関心の移り変わりを知るのにちょうどいい手段だと思ってさらに2月、1月とさかのぼってまとめてみた。今年に入ってからの関心の推移をまとめてみる。

1月は奈良美智・吉本ばななへの関心が前年末より続いていた。この延長線上で作品を一つ書いた。奈良美智に関心が行ったのは前年末の原美術館のピピロッティ・リストを見に行ったときに奈良の展示があったからで、原美術館に行ったのはD-BROSの製品を扱っていたから、D-BROSを知ったのは確か何かイラスト関係の本だったと思う。そんなふうに関心の連鎖が続いているのを再確認すると興味深い。

1月途中からはおがきちか作品にはまる。これはファンタジーへの関心の流れだ。1月終わりから2月にかけては山岸涼子『舞姫-テレプシコーラ』一色になり、そこからバレエ関係のものをかなり読んだり見たりした。これはもちろん舞台芸術への以前からの関心の流れがあるが、『テレプシコーラ』を読んだのは『ダ・ヴィンチ』で見たからで、『ダ・ヴィンチ』を買ったのは小説関係の雑誌をあれこれ物色していたことから来ている。いくつかの関心の流れが合流してバレエへの関心に結実した、と言うこと。

2月の初めはいろいろあって精神的にも厳しい時期だったが、これらへの関心がそういう状況を乗り切る慰藉や希望になっていたことは間違いない。アートは人を救う。

2月の末ごろに芥川賞受賞作、川上未映子「乳と卵」が『文藝春秋』に掲載され、それがきっかけとなって3月はまた文学へ回帰。もう一つのきっかけは村上春樹訳『ティファニーで朝食を』。私は村上は翻訳者としては非常に優れていると思っていて、『グレート・ギャツビー』以来「現代アメリカ文学の古典」を訳した物は全部読むようにしている。

もう一つのきっかけは奈良裕明『小説のメソッド』シリーズ。この3冊は「小説の書き方」の決定版のようなものだろう。実作が紹介されたり、参考になる作家の作品が紹介されていたりして、こういうところで紹介されなければ読まないと思われる作品をいくつか読むことが出来て自分の小説観にもかなり幅がでてきた気がする。やはり「目に付いた読みたいもの」を読むだけではどうしても広がりがない。有吉佐和子『悪女について』や山本周五郎『さぶ』などは、ここで紹介されなければいつまでも絶対読まない種類の作品だと思った。そして、こういう作品もいいなあと思えることで、小説に関する頭の筋肉が柔らかくなったなと思う。

こういうふうに自分の関心の流れをもう一度きちんと位置づけて見ることは良いことだと思った。自分が何をしようとしているか、何を書こうとしているか、と言うことはいつも意識を持っているが、自分が何を感じているか、何を必要としているか、といったことには私はあまり意識がないんだなあと思い知らされた。自分に見えていないもう一人の自分。その自分が見えなければ、ものを書くなんてできない。

***

図書館に出かけて本を3冊借りる。

俳諧辻詩集
辻 征夫
思潮社

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最初に目に付いたのが辻征夫『俳諧辻詩集』(思潮社、1996)。現代詩集でいいと思う作品はあまりないのだが、この詩集はお、っと思うようなフレーズがたくさん出てくる。「<蝶来タレリ!>韃靼兵ノドヨメキヌ」なんていいじゃないか。これはもちろん、安西冬衛の「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」という詩を下敷きにしている。「駝鳥が空を飛ぶとき/どうするか―― /飛行機に乗るのさ」というのもいい。詩の感想を書くというのは難しいものだが、簡単に言えば、とてもうまいのだ。この詩集は俳句と詩と散文を組み合わせると言う実験的なものだが、それがとてもいい具合に出来ている。「落ち葉降る天に木立はなけれども」これも一つの俳句としてはいいけれどももっと知りたい、もっと読みたい、という気がしてくる。辻はこれに続けて童話の中の世界と童話を読んだ世界の虚実の詩を続け、記憶と幻想と現実の重層的な森の世界を描き出すことに成功している。

もう一つ例を挙げよう。「下駄」と言う詩だ。

下駄

冬の雨下駄箱にある父の下駄
(うん 死んだ父の
下駄なんだよ
履き方に癖があって
へんな風にへるものだから
借りて歩くと頭にひびいた
先日みつけて
履いてみたらやっぱりひびいた
おこられてるみたいで
まいったね)

これなんかすごくいい。なんていうか、現代詩というのはどうしても観念的なものが多いのだけど、地に足が付いているし、日常性というか常識性のようなものの背後に詩情(ポエジー)があるということをちゃんと知っていなければ書けない詩だと思う。詩情を見つけるのが詩人の仕事なんだなと改めて思わされる。

***

あと二冊は、西脇順三郎『詩学』(筑摩叢書、1969)と高橋順子『連句のたのしみ』(新潮選書、1997)。

詩学 (1969年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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『詩学』は詩というものを理論化しようというもの、しかし最初から反科学を宣言しているので安心して読めそう。
連句のたのしみ (新潮選書)
高橋 順子
新潮社

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『連句のたのしみ』は車谷長吉の夫人で編集者の高橋順子が連句(連歌と同じ意味だろう)について書いたもので、このジャンルについて知識のない私にとっては参考になることが多そうだった。連句の先祖は古事記のヤマトタケルノミコトと火守の老人の、「新治つくはをすぎて幾夜か寝つる」「かがなべて夜には九夜 日には十日を」というやり取りなのだそうで、それからこの連句の芸道を『筑波の道』というようになったのだそうだ。室町時代の連歌集も『菟玖波(つくば)集』というのはこれから来てるんだなと初めて知った。

ルネサンスとは何であったのか (新潮文庫 し 12-31)
塩野 七生
新潮社

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夕方出かけて丸善で本を物色。塩野七生『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫、2008)を購入。まだ少ししか読んでいないが、共感できるフレーズがあった。

「きみの考えているのは、歴史ではない」
「歴史学ではないと言われるのならばわかりますが、歴史ではないと言われるのには納得できません」

日本はこのあたりの断絶が大きすぎるのだ。歴史は特に学者がアカデミズムの牙城に立て篭もりすぎている傾向があるように思う。塩野七生に対してもやっかみ半分の古代史学者からの非難は多いが、もう少しおおらかに意見交換が出来たほうがお互いにプラスだと思うのだけどなあ。

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