自分で自分に限界を設けてしまっていた

Posted at 08/03/11

昨日帰郷。朝6時前に出て、新宿7時発の始発の特急に乗る。なぜがチケットを取り間違えて7時半の席を取ってしまったので、自由席に乗っていった。かなり混んでいる。でも、朝の電車は気持ちいい。9時過ぎに到着、郷里は雨が降っていた。11時から祖母の17回忌。本当に10人ばかりの身内が出席。法事の途中で晴れてきた、でも寒い。場所を変えて直会(なおらい)、そのあと実家にほとんどの親戚が集まった。私は仕事なので3時に抜ける。

仕事はいくつか。そう忙しくはなく。早めに切り上げる。

今回の帰郷の際に持参したのは2冊。奈良裕明『小説のメソッド』の1と2。読むのにかかるかなと思ったが、今日(火曜日)の日中までに全部読んでしまった。プロット作りのところなど参考になる。また、「語り口が重要」という指摘は我が意を得たりという感。「変わった作品」は前後に「枠」をつけると読者が受け入れやすくなる、という指摘はなるほどと思った。よく分らない作品というのはまず、それが作品かどうかすらよくわからないのだ。それを、こういう作品なんだ、と定義してあげることでずっと受け入れやすくなる。受け入れられればそれを理解しようという意欲も起こるし、理解される可能性もずっと向上する。これはなるほどと思った。特に短篇において重要なテクニックだと思った。

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これを読むことで自分の「小説観」みたいなものがはっきりしてきた面があるし、自分が小説にしろなんにしろ、どう言うものに興味があってどういうものが関心がなくてどういうものが好みでどういうものが避けたいと思っているのか、ということが見えてきたところがある。で、自分で書いていて「こういうことを書いても理解されないだろうな」と思いながら書くことが多いのだけど、もっと理解されるためのテクニックというのはありえるのだということを改めて考えさせられた。

私はある意味、自分で限界を設けてしまっていたのかもしれない。自分の表現欲とは違う方向でも「理解される」ことを書くか、表現欲に添って「理解される」ことを半分あきらめて書くか、のどちらかになっていたように思う。やはりそれは韜晦した姿勢なのだなと反省させられた。「自分の書きたいこと」を何とか「理解されるよう」に書かなければだめなのだ。そんなこと基本中の基本なのだが、自分の中でどこか人間のコミュニケーションの可能性について絶望してしまっているところがあって、そういうところがみごとに露見してしまったのだなと思う。魯迅も言っている、「絶望の虚妄なること、希望もまた同じい」と。希望は虚妄かもしれない、しかし絶望もまた虚妄なのだ、と。

また基本に立ち返って物を書いていかなくちゃな、と思わされた。なんだかこの記述、書評としては落第だ。それはともかくこの本は、「小説の書き方」を書いた本としてなかなかよく出来てると思う。類書はたくさんあるが、もし「これ一冊」というのならばこのシリーズを勧めたい。あ、シリーズは3冊だけど。

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