隠れ関西人/書くという「芸」

Posted at 08/02/22

芥川賞受賞作家!川上未映子の文章を読む。小説「乳と卵」は、いまのところまだ読みにくいので、すこしずつ読んでいる。大阪弁ということで町田康と比較されることが多いというのだけど、センテンスが長いとかある意味シュールな表現があるとか共通する点はなくはないがあまり似てるとは思わない。むしろ、現実を饒舌に語る語り口とある意味でのフェミニズム性という点で笙野頼子に共通する部分の方が大きいと思う。

文藝春秋 2008年 03月号 [雑誌]

文藝春秋

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笙野は三重県出身、川上は大阪、関西圏ということで共通している。笙野・川上の二人の作家になんとなく懐かしいものを感じるのは、やや個人的なことになるが、私も小学2年生から高校2年生まで三重県にいて、あの関西ののりというものがある意味体に入っている、ということがあるからじゃないかと思う。

実際、関西圏ののりというものが成長過程にある人間に与える影響は強力だ。小学生から高校生の間にその洗礼を受ければ、まず確実に精神の一つの心棒みたいに体の中にはいってしまう、ということはかなり多くの人に同意してもらえるのではないだろうか。それを持ってる人とは話しが通じ、それがない人とは話が通じない、というものがあるのはもちろん関西圏文化だけではないだろうけど、「関西」というものはその中でも別格だよ、とつい言いたくなってしまう隠れ関西人。

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直木賞受賞作家・桜庭一樹へのインタビューをこちらで読んでへえと思った。(孫引き失礼)

「極端なストーリーでも書きっぱなしにせずに読者が共感できるようにわかりやすくしなくちゃ。読者の70%が自分のことを言われているような話だと思い、20%は自分にもこんな面があるなと思い、あとの10%は、何だ、この本はと思う作り方をするとたくさんの人に読まれるよ」

「コップでも把手があれば持ちやすいだろう。君はその持ち手の部分を小説につくるべきだ。それがあれば、いい面はあるから、もっと読まれる作家になれるはずだ」

「極端なストーリー」、という言葉は「自分の書きたいこと」、と置き換えてもいいと思う。それを「自分」とは何の関係もない読者に読ませるためには、70%の人に「これは自分のことだ」と感じさせる部分が必要で、20%の人にも「自分にもこんな面があるかも」と思わせ、理解できない人が10%くらいいるのは仕方がない、というような考え方ではないだろうか。

「持ち手の部分」という表現はとてもよい比喩だ。どんなに読みたい作品でも、たとえば時代の古い作品というのは読みにくい。外国の作品はなおさらだ。また、文学作品でなくモンテスキューだのルソーだのの作品を読もうとしても、まず本文に膨大な注がついているのにめげるだろう。

注を無視して読んでも意味がわからないし、注を参考にしながら読んでも隔靴掻痒だ。実際、古典的な著作もその時代においては「現代」の作品なので、「その時代の現代」を理解できないと何を書こうとしているのか本当にはわからないのだ。

現代の作品でも、読み手をあまり意識しないで書かれた文章はその文章の背景が分らず、内容にまでアクセスできないことがある。面白そうなんだけどどうも読めない、という作品は上記の編集者の言い方を借りれば「持ち手の部分」に対する気遣いが足りないということなんだろう。

だから、読まれるためには「持ち手の部分」がちゃんとしていなければならないということになる。質の高い「持ち手」が書けていれば、中には「持ち手」だけで満足してしまう読者もあるかもしれない。私自身、そういう読み方をしていることはときどきあると思う。きっとこういうことを書きたいんじゃないんだろうけど、この部分は面白いな、と思うことは多いから。そういう持ち手の作り方は、一つの「芸」と言っていいだろう。

桜庭一樹を私は読んでいないので彼女のことはわからないが、川上未映子に関しては、彼女は「芸」があると思う。「芸」はもちろん「持ち手」に関わるものだけではない。テーマだの内容だのそういうことが芸によってより鮮やかに、より秘めやかに表現されるということももちろんあるし大切なことだが、作品世界に読者を連れて行く「呼び込み」は、かなりの芸が必要とされるところだ。小説家が書き出しに凝る、書き出しに悩むというのは「呼び込み」に真剣に取り組んでいるということだろう。名作といわれるものは、やっぱり優れた書き出しが伴うことが多い。

そして、「書き出し」によって呼び込まれるのは読者だけではないのだ。自分で書いて思うことなのだけど、書いている自分自身が物語世界に入っていけるか、それが書き出しによって決まるということもある。うまく書き出せないとうまく世界に入れない。多くの作家が書き出しに苦しむのは、自分自身が作品世界に入っていけない、作品世界の扉をうまく開けることが出来ないという苦しみなのではないかと私は想像している。そうなると、「書き出しの芸」は作品世界の存立そのものに決定的に関わっているものと言うことになってくる。

しかしそう考え始めると、『ぼのぼの』ではないが(古いか?)、普通のことについて考えているうちにそれがだんだん「恐いもの」になってきて、乗り越えるられないものになってしまうこともあるかもしれない。それもまた考えすぎだと思う。川端康成も、あの有名な『雪国』の書き出しは最初からあったものではなく、あとで書き換えているそうだし、中里介山の『大菩薩峠』にしても物語が展開していく中で書き換えられているというから、書き出しだけにこだわることもないということも可能ではあるだろう。

ただ、面白い書き出しを書くということそのものがある種の通過儀礼、ある種の就寝儀礼だと考えることも可能なわけで、そう考えると書き出しで律儀に「産みの苦しみ」を苦しんだ方が「よい子」が生まれると思えることもあるのかもしれない。それはそれこそその人の芸の流儀によることなんだろう。

「持ち手」には書き出しだけでなく、こちらの方が言われるようにキャラクター設定、狂言回しの設定の仕方などもある。いずれにしても、「書きたいもの」を重視しすぎるとどうしてもこういうことは枝葉末節に思えてきてしまうのだが、一般に対して書くということにおいてはどうしても無視できないことだ。だから、それこそがむしろ「芸」なのだ、と肯定的にとらえた方がいい。その芸を伸ばし、鍛えた方がより自由に書きたいものも書けるようになると思う。

私もついものごとを難しく考えてしまいたがる質なので、「芸として書いてるか」というシンプルな問いを常に自分に向けておきたいと思う。

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