澁澤龍彦の魅力/思い出すことと思うこと/世界が強暴なまでに危険だった日

Posted at 07/09/11

夜中に起きて(現在9月11日午前1時半)この文章を書いている。暑い。昨日は朝5時半に起きたせいか早く眠くなって10時半には床に着いた。そのせいで逆に早く目が覚めてしまった。ちょっと早すぎる。ただ、朝起きてから書こうと思っていた文章がいくつかあるのでついでに書いておくことにする。

昨日。午前中にいろいろ家事を済ましてからパソコンに向かっていたら友人から電話がかかってきて話す。だいぶ話したいことが溜まっていたので、かなり長くなった。昼までに出かける。地元のイタリアンレストランでベーコンとアスパラのトマトソーススパゲティを食べてから郵便局、東京三菱UFJ銀行、三井住友銀行と回って地下鉄に乗る。雨が降ってきた。そんなに長い雨にはなりそうではなかったので、その間どこかに行こうと思い、銀座に出る。銀座も小雨。地下鉄の出口から教文館に走る。二階で読むものを物色。特にこういうもの、という意識もなかったのだが、河出文庫の澁澤龍彦訳のものになんとなく引っかかり、ユイスマンス『さかしま』(河出文庫、2002)を買う。扉に書かれた「人工楽園」という言葉になんとなく引かれた。

さかしま (河出文庫)
J.K. ユイスマンス,渋澤 龍彦
河出書房新社

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私はどういうわけか昔から澁澤龍彦の文体に惹かれるところがある。今、そのことを書こうと思って一番印象に残っていた(と思っていた)福武文庫の『犬狼都市』(1986)を本棚から取り出して読み返してみたのだが、内容はほとんど覚えていなかった。これは「犬狼都市」「陽物神譚」「マドンナの真珠」の三つの小説を収めた短篇集なのだが、特に印象に残っている「陽物神譚」は古代ローマに東方のバール神の信仰を強制した皇帝ヘリオガバルスを取り上げた小説だということは覚えていた。帯に「超硬度の明晰な文体」というキャッチコピーが書いてあり、言葉を変えていえば硬い文章、いや無茶苦茶硬い文章ということになるのだが、実際相当硬い。(下は河出文庫版、三作とも所収されている)

澁澤龍彦初期小説集 (河出文庫)
澁澤 龍彦
河出書房新社

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「ひとつの都市が破壊され、多くの建造物が崩壊に遭い、数かぎりない神像が毀損され、そこに巣食うおびただしい白蟻の群が鏖殺(おうさつ)の憂目にさらされるのを見なければ、世界は新しい一匹の白蟻の誕生、新しい一体の石像の建立、新しい一基の記念碑の造築、新しいひとつの都市の建設を望み得ないのであろうか。おれたちは何の必要があって、積乱雲のように厚く地上に覆いかぶさる破壊の意志に手を藉さねばならないのであろうか。(「陽物神譚」書き出し)」

この硬さというのはつまり翻訳体の硬さだ。翻訳体に惹かれるということは、その向こうにあるヨーロッパの文物に惹かれるということでもあるが、それを日本に紹介する澁澤の華麗で衒学的で耽美的な文体の魔術に虜にされるということでもある。今読み直してみると、やはり内容的なものよりも、その文体そのものに魅せられていたのだなと思う。澁澤龍彦は私の若い頃の偶像の一つ、多分文学的にはほとんど唯一の偶像だったと思う。それは、私の理解の隔絶したところに、しかし確実に高度に構築されている神殿のようなものだった。今読み直してみると、理解しようともしていなかったのだと思う。その文章を読み、その文体を味わうこと自体が不思議な知的な快楽をもたらすものだったのだと思った。

しかし今本棚を改めて見てみると、澁澤の小説やエッセイは何冊も持っているけれども、彼の本来の仕事とでも言うべき訳業の作品は何も持っていない。彼が吸収したヨーロッパのエッセンスは彼の卓越した翻訳力にあるのだと『さかしま』を読んでいると思う。彼の小説やエッセイにある晦渋さに比べると、翻訳の方がずっと素直な文体に思える。普通は逆のことが多いのではないだろうか。よく理解できないのに訳しているから翻訳の文体が晦渋になり、あまり考えていないからエッセイの文体が単純になる、ということが多いように思う。私は澁澤という作家に興味はあったけれども、澁澤が訳したヨーロッパの作品には必ずしも興味がなかったのだ、ということに気がつく。しかし澁澤という人間を理解するためには、その翻訳という仕事を理解しなければならないと思った。村上春樹を理解するのにその訳業の理解が必要なのとどこかで通じている。

ああ、久しぶりに澁澤のことを考えて見たけれども、相変わらず私にとっては難しい存在だなあと思う。だからこそ憧れる部分が強いんだろうけどなあ。

『さかしま』を買ってからそういえば最近古典新訳文庫を買っていたんだということを思い出し、そうだせっかくだからと思ってドストエフスキー・亀井郁夫訳『カラマーゾフの兄弟1』(光文社古典新訳文庫、2006)を買う。これは5巻本になっていて、かなりハードなのだけど相当売れているらしい。ドストエフスキーというのも「読みたいけど読めない」モノの典型的な例だから、こうやってハードルは低いけれども中身がしっかりしている翻訳が出されれば結構みんな読むだろうなと思う。私も『罪と罰』を途中で挫折して以来『カラマーゾフ』には手を出していなかったので、気持ちを新たにして読んでみたいと思う。

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)
ドストエフスキー,亀山 郁夫
光文社

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教文館カフェでコーヒーとスパニッシュケーキ。窓の下を見下ろすと、傘の花は開いたまま。しばらくコーヒーを飲みながら本をぱらぱらと読んで、止んではいないけれども地下鉄の入り口まで走って地元に戻る。地元の駅で地上に出ると、もうほとんど止んでいた。
***

9月11日午前8時半。

澁澤を読み返してみて、当時の私は内容より形式、意味より言葉、主張より雰囲気の方を見ていて、自分には大事だったのだな、ということを思った。というのは、内容はあまり覚えてなくて、その雰囲気だけを覚えているからだ。

若い頃には理解力が足りないから、またそういう自分の知らないものに対する憧れというものも強いから、そういうものに対する好みに偏る、ということはあるかもしれない。また昔に比べると、言葉の一つ一つの意味を正確に読み取ろうとするようになっているし、また当時では分からない言葉の含蓄の深さのようなものも感じ取れるようになって来ているということはある。今では形式だけ、雰囲気だけで満足するということはほとんどありえないという気がするが、当時はそういうものだけで十分自分を賭けるに足ると思っていた気がする。

若い頃に持っていた、さまざまなもの、たとえば根拠のない楽観的な自信とか、すべての人にフレンドリーに接することが楽しいといったことが、いろいろな挫折の中で潰えて行き、今では自分の中で明確な根拠がないと自分を賭けることが出来なくなっているという部分がある。しかし、人生、明確な根拠などもてないことは数多いから、さまざまに試行錯誤しつつ賭けを張っていかなければならない。根拠なく賭けが張れた若い頃への懐かしさはないではないけれども、今では少しはしたたかになったかとは思う。賭けを張るところまで元気を回復するのに相当時間がかかったが、後は体調を万全にしつつ、できるところまでやるしかないのだろうと思う。

***

今日は9月11日。2001年のあの日は、台風一過の日だった。夜10時のニュースの直前に始まった、リアリティを欠いた映像。まさかということが起きた日。

あの日から世界が格段に危険になった、とは思わない。しかしあの日、世界は強暴なまでに危険だった。それだけは確かだ。

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