古典新訳文庫/良い文学作品とはどういうものか

Posted at 07/09/10

昨日。夜になってから、ポーっとした状態を少し立て直そうと、地元の本屋に出かける。城アラキ『バーテンダー』(集英社、2007)の9巻を買う。主人公佐々倉溜がホテルのバーテンダーになる、という展開。「サンチアゴに雨が降る」のエピソードが引かれていて、この事件(ピノチェトのクーデター)が9月11日に起こったということを知った。

バーテンダー 9 (9) (ジャンプコミックスデラックス)
城 アラキ,長友 健篩
集英社

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『嵐が丘』の後遺症が続いていてなかなか本を読む気になれなかったのだが、どういう風にしてでも少し流れを変えようと思い、本を探す。こういうときにいいのが光文社の古典新訳文庫だ、と最近思う。こちらの方も高く評価されていて、我が意を得たりという思い。ホイットマン『おれにはアメリカの歌声が聴こえる―草の葉(抄)』(光文社古典新訳文庫、2007)を購入。題名は金関寿夫訳『おれは歌だ おれはここを歩く アメリカインディアンの詩』(福音館書店、1992)を思い出させたが、たしかにホイットマンの一人称は「おれ」がぴったり来ると思った。

おれにはアメリカの歌声が聴こえる-草の葉(抄) (光文社古典新訳文庫 Aホ 2-1)
ホイットマン,飯野 友幸
光文社

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旧訳(岩波文庫・木島始訳)では

人に固有の自我をわたしは歌う、単純独立一個の人間を、
でも<民主的(デモクラティック>の語を、<大衆(アン・マス)>の語を口にする。

となっていた”One's self I sing”が、この本(飯野友幸訳)では

自己なるものをおれは歌う、つまり単なる一個人を、
それでいて民主的という言葉も、大衆(アン・マス)という言葉もおれは発する

となっている。原詩は

One's self I sing, a simple separate person,
Yet utter the word Democratic, the word En-Masse.

である。旧訳の方が格調があり、新訳のほうが力強さがある、といえばいいか。正直言って、古典を訳した文庫というものは、今までの古い訳は格調があっても伝わってくるものが少ない、ということが多かったのだけど、『嵐が丘』の岩波文庫の新訳にしても、また聞いた話では『ドン・キホーテ』の岩波文庫の新訳にしても、格段に読みやすくなっているという。これは村上春樹が、翻訳には寿命があって、せいぜい30年だろう、といっていることを考えると頷ける話だ。現代の読者は(私のような世代も含めて)、実際には格調や衒学的な要素というものを勘定に入れている暇はない、という感じだろう。とにかくストレートに分かりやすく、原著の持っている力感が伝わる方が正確な硬い文体の翻訳より求められていると思う。

それは、30年位前の普通の人のエッセイなどを読んでいても感じることだけど、昔の人の書くことは上品ではあるが回りくどいことも多いし、早く言いたいことを知りたいほうにしてみると悠長に過ぎる、という感じがする。結局現代のスピード感というかそういうものが新しい訳を要求しているのだろうと思う。何を書いているのか本当に正確に知りたければ原著を読めばいい、というのも現代ではかなり多くの人に可能になっているわけだし、文法的に正確な文体の硬いものでは現代に求められている翻訳ではないということなのだろうと思う。

ホイットマンというのは、ものすごく力強く、ものすごく肯定する力の強い詩人なのだということを、新訳を読んで始めて実感した。

良い文学作品というのはどういうものなのだろうか。この作品を読んでその力強さについていろいろ考えた。ホイットマンの力強さ、シンプルで楽天的な力強さは、ある意味アメリカそのものの力強さだ。ベトナムで挫折する前の、青年期のアメリカの力強さだ。とても楽観的に、個人や民主主義、自然、アメリカ、そして自分自身を肯定する。その肯定の仕方は、まぶしくもあり、またそのあまりの屈託のなさはうざったくもある。

ただ、他の作品とも照らし合わせて考えると、つまりはその「肯定の強さ」こそが良い文学作品、影響力のある文学作品の魅力であり、力なんだと思った。『嵐が丘』にあるあのキャサリンとヒースクリフの生き方、自然にみなぎる生命力に対する強い肯定、『目玉の話(眼球譚)』にあるエロチシズム、あるいは性行為そのものに対する強い肯定の力。それはスキャンダラスなものではあったけれども、今までにない価値観の力強い宣言であり、その魅力がカリスマ的な影響力を持つことになったのだ。『新潮』で金原ひとみが『眼球譚』に受けた影響について書いていたが、中学生の彼女が初めてこれを読んで、「こんなふうにセックスしたい」と熱烈に思ったそうだから、まさにそういうものなんだと思う。

それは必ずしも「知的であること」と一致はしない。知的であるということはある意味批判力が強いということでもあるから、「知性的な人間」においては「肯定する力」よりも「批判する力」のほうが強くなってしまう。そういう人間には新しいものを力強く肯定すること、つまり「創造」は出来ない、ということになるんだろうと思う。

しかしバタイユもエミリー・ブロンテも非常に知性的な人間であり、ブリリアントな人間だと思う。しかし知性によって涸れることのない、力強い生命力によって新しい創造を生み出し、自らの批判力によって磨き上げることが出来たのだと思う。生命力だけで新しい創造は出来ないが、生命力がなければもとより出来ない。人の批判ばかりして新しいものの価値を認めないのは知的であることをはきちがえた愚かな行為だと思うが、批評家を頭から馬鹿にするのもまた批評によって磨かれることに耐えられない創作家の弱さという面もあるのだと思う。

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