諏訪哲史『アサッテの人』

Posted at 07/07/22 Trackback(1)»

諏訪哲史『アサッテの人』(講談社、2007)読了。感動した。ぼーっとした。しばらく余韻に浸っていた。読み終えたら忘れないうちに感想を書くようにしているのだけど、この本は感想を書いてしまったらその余韻が消えてしまうような気がして、なかなか感想を書くのに取り掛かる気になれなかった。読み終えて、しばらく転寝して、テレビを見て、散髪に行って、それから書いている午後4時。


アサッテの人
諏訪 哲史
講談社

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私にとってバイブルといえる本は今まで何冊かあった。主にマンガなのだが。高野文子の『絶対安全剃刀』など。そういうものに匹敵するのではないかという気がする。最近は同じものを何度も読むということもなかなかないのだけど。考えてみれば『NANA』がそういう感じになってるけど。

どもりだった叔父がある日突然どもりを脱したとき、言葉の罠に捕らえられていることに気がつく。私なりの読み方でいえば、言葉というのは表現部分(音とか文字とか、表象と言ってもいいが、私の感じでは表現というのがあう。シニフィアン。)と意味内容(シニフィエ)からできているのだけど、どもりというのはそのシニフィアンを発するときの困難だろう。そこに意識を集中していると、シニフィエとシニフィアンの結合の問題にはそんなに囚われないが、不自由なくモノをいえるようになると、どんなことばを発しても意味を持ってしまうという「不自由さ」に愕然としてしまった、ということなのだと思う。

人間の運命はすべて何物かによって定められているという強迫観念というのは私はあまり強く持ったことはないけれども、定型=ステロタイプに対する強い忌避意識というのがそこから出てきていて、意味から遁れるために「ポンパ!」とか無意味な、というよりその意味や定型を突破する力を持った「アサッテ」な表現をする衝動に駆られる、というのはしみじみと、というか心の底から、というか、よくわかる。

エレベーターの監視という仕事の中で誰も見ていない時間に奇矯な行動をとる「チューリップ男」への共感も、非常によくわかる。私は特に子供のころはそういう欲求が強くて、今考えると意味不明のいたずらをひとりでたくさんやっていた。あれもそういう「アサッテ」な欲求なのだ、と考えると非常に自分で納得できる。しかし大人になるにつれ、そういうことはなかなか出来なくなってくる。なるべく定型から外れたいという欲求はかなり多くの人にあると思うが、それを日常の中で実現することができるのはある種の才能が要求されるわけで、「芸人」や「芸術家」などの特別の地位を獲得しないと人前で奇矯なことをする「自由」はなく、たんに変人ないしはアブナイ人にされてしまう。

子どもの頃はだいたい何をやってもある意味許されるわけだが、その幅はだんだん小さくなっていく。たとえば、子供のころ「○○さんと結婚する」といっても誰も本気にせずすぐ忘れられてしまう。高校生の頃でもそうだろう。大学生の年代だと状況にもよるが、たいていは「若気の至り」とか「気の迷い」で片付けられてしまうことが多いと思う。つまり、「結婚」という意味の重さが、子どもの発する「結婚」という表現には伴っていると認められないわけだ。

大人になってそういう意味内容の伴わない発言は「冗談」という場の状況の設定に成功すれば許されるが、そうでないときはかなり妙な状況になる。たとえば27歳くらいになってしまえば、結婚という言葉は普通意味どおりに取られるだろう。逆にそういう言葉を冗談だといってしまったり適当に言ってしまったら今度は「無責任」という烙印を押される。意味内容から自由に「結婚する」という言葉を発することはもうできなくなっているわけだ。

そういういろいろなことを含めて、大人になるということは意味を離れては言葉を発せられなくなるということである。そのことに心の底から恐怖を感じるという感覚は分からなくはない。

私がそういう言葉の罠というものをそんなに強く感じなかったのは、芝居をやっていたことが大きいなと思う。シニフィアン、表現というものは言語だけではないということを実感を持って知ったからだ。非言語表現、非言語コミュニケーションというものを実感として押さえていると、あらゆるところにシニフィアンを感じることが可能になるし、それらは必ずしも意味を伴っていないということも知ることが出来る。ある意味子どものころと同じような「シニフィアンの戯れ」のようなことが言語表現だけに限定した場合に比べてはるかに大きくなる。これは絵画や写真、音楽など他の表現手段をもっている人はみなそうだと思う。

シニフィアンとシニフィエの強固な結合から逃れられなくなったと感じた主人公(叔父)は、「定型」から脱するための「アサッテ」に真剣に向かい合うようになる。しかしそれは「アサッテ」自体の定型化という必然的な悲劇的結末を迎え、そのある種の無間地獄の彼方で主人公は出奔してしまう。これはつまり、ポストモダンへの時期外れの挽歌とでも言うべき作品なのだと思う。脱構築が構築されしまうという悲劇。

芝居を始めたとき、「アサッテ」の突破力というものに最初は私も魅かれたが、私は稽古の段階から「アサッテ」そのものを追求するよりも、定型を磨くことによってステージでなんでも自由にアドリブができる、アサッテ的なものよりもつまりはジャズ的なものの方に行った。アサッテ的なものがある種の限界、強力な反社会性を持つことを子どものころの経験から知っていたということもあるのだと思うが。まあ自分語りばかりしていても仕方がないが、それだけ自分の中の奥深いところをこの小説は掘り起こしたと言うことだ。自分はポストモダン的なものの影響をあまり受けていないと思っていたけれども、何というか精神構造そのものがそういうものが出てくる前からもともとポストモダン的な部分を持っていたんだなと思い知らされた。用語がもっと自分自身にとって分かりやすいものだったら嵌ってたかもしれない。

小説の終わり方、付録、図、何というか泣かせる。こういうものを書けるなんて才能があるなあと思う。私もまだまだだなあ、もっと精進しなければと思わされる。

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「アサッテの人」は、甥である小説家が叔父である男を小説にしようとして書き始める。その叔父は日記を残す。幼い頃から吃音に悩み自分の吃音を分析をし、言葉という...

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