『アサッテの人』を買った/無知な友人ほど危険なものはない

Posted at 07/07/22 Trackback(1)»

昨日。朝起きるのが遅れた。お昼ごろ東陽図書館に出て本を返却。気がついたら累計4冊も借りていた。吉田修一『パーク・ライフ』(文藝春秋、2002)を借りる。現在18ページ。ちょっと変わった感じの小説。

パーク・ライフ
吉田 修一
文藝春秋

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その足で神保町に出かける。講談社のサイトでは発売日は23日だが、ひょっとしたら…と思って三省堂に行ってみたら、予感的中、諏訪哲史『アサッテの人』(講談社、2007)を既に売っていた。残数わずかだったから、ほんの少しだけ先行発売したのかもしれない。東京堂などを回ったがまだ売ってなかったので、神田では三省堂だけだったのではないか。ほくほくして購入。

アサッテの人
諏訪 哲史
講談社

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そのあとすずらん通りを歩いて文銭堂の前を通ると、地下に新しい店が出来ているのに気がつき、行ってみる。日比谷バーという名前で、もっと前にできていたようだが、ランチもやっているということは知らなかった。五穀米と味噌漬けチキンのカレー、見たいなヘルシー?なものを注文し、胡麻と豆乳のモンブランというものを食後にいただく。まあまあというところかな。

午後は戻って読書。堀江敏幸『熊の敷石』(講談社、2000)を読了。友人と電話で話す。長電話になってオールスターも相撲も見逃す。アジアカップもあまり見なかった。最後のPK、高原が外し中沢が決めたところは見た。準決勝は対サウジだろうか。頑張ってもらいたい。森本はムエタイボクサー、琴光喜は13勝。大関昇進は大丈夫だと思うが、日本人力士の大関は2001年の雅山以来だそうだ。6年間いなかったというのもすごい話だ。

諏訪哲史『アサッテの人』は現在38ページ。笑いながら読む手の本。自分は笑わないで人を笑わせるコメディアンのような芸。ポストモダン的な脱構築の手法を使いながら小説的虚構の構築の線は崩さずなかなかうまく作られていると思う。

***

堀江敏幸『熊の敷石』読了。小説的な構築性が低く、限りなくエッセイに近い感じ。しかしエッセイとして読むと虚構性が強く、変な感じがする。この作品の評価は芥川賞の選評を読んでも賛否両論のようだが、まあどうにでも書いていいものが小説だ、という定義に従えばこういうのもあっていいんじゃない、という感じではある。ただ作品として、その中間線を狙ったものとして成功しているか、というと、どうかなとは思う。でもこういう方向性のものも自分でも書いてみたいとは思った。面白くなるかどうかは分からないが。

熊の敷石
堀江 敏幸
講談社

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「熊の敷石」とはラ・フォンテーヌの寓話に出てくる話で、おじいさんの寝ている周りにうるさくまとわりついている蝿を追い払うために、熊が敷石を投げつけたらおじいさんに当たって死んでしまった、という話なのだという。「無知な友人ほど危険なものはない、賢い敵のほうがましである」という教訓なのだそうだ。へえ。「無能な友人より優れた敵を持て」というような言い回しを聞いたことがあるが、元はこれかもしれない。

日本人の主人公がフランスでユダヤ人の友人にいろいろなことを尋ねれば尋ねるほどホロコーストの話につながってしまい、話をそらそうとして別の話題を持ち出してもホロコーストにつながってしまう、という自分のうまくない会話について主人公が自分は敷石を投げてユダヤ人の友人のあまり触れたくないところに無遠慮に突っ込んでいる熊みたいなものかもしれないと思った、というのが話の中心なのだが、何だかナイーブ過ぎるんじゃないかという気がする。

結局はユダヤ人がホロコーストの神話的な原体験を受け継ぎ続けていることへの感覚的な違和感の表現ということなんだろうと思う。「終わりなき日常」を生きている当時の日本人のやや軽薄な、しかし善意に満ちた(人を傷つけないことを第一の信条としているという意味で極めてナイーブな)インテリと父祖の感覚とは断絶しながらホロコーストの「聖痕」について自問自答を続けているユダヤ人青年との間の世界のとらえ方のギャップのようなものを書こうとしているのだろうと思った。作者がこのことについてどの程度考えているのかは分からないが、これ以上小説の構築性を高めてしまったらどうにもならないところが続出するという危険性を冒してしまうために、構築性を求めることが出来なかったのではないかという気がする。

なんというか不思議なのは、日本のインテリとかそういった人たちが、1995年の阪神大震災や地下鉄サリン事件、2002年の北朝鮮による拉致の表面化といった「身近な問題」ではほとんど無反応(少なくとも政治的スタンスが変わったとは思えない)なのに、2001年の911テロという「遠いニューヨーク」で起こった事件に大きく動揺した人が多いように思えることなのだが、多分2001年9月11日の前と後では「終わりなき日常」感をテーマにしたような文章は大きく性格を変えている気がする。霞が関で化学兵器によるテロがあったことや阪神高速が横倒しになった事件より、ニューヨークでのテロが精神構造に大きな影響を与えるというのはどういう頭のつくりをしているのか、私にはやはりいまだに理解できない。頭の中がアメリカンなのだろうか。

そういう意味で、『熊の敷石』のような作品は現在ではちょっと違う物になるのではないかという気がする。ただ、ハイブロウなものを作品の中に取り込むというやりかたは、『パーク・ライフ』などでも見られるし、『アサッテの人』の言葉と意味のずれ(難しくいえばシニフィアン/シニフィエの問題)などにもある意味つながる。小説の世界の絞り方という点で個人的には興味深いものがあった。

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