表現と意味:日本が息苦しい理由

Posted at 07/07/23

諏訪哲史『アサッテの人』。読み終わってからいろいろなことを考えた、というか頭に浮かんだ。

アサッテの人
諏訪 哲史
講談社

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下のエントリの続きになるけれども、人が「大人」になるということは「表現」ではなく「意味」の世界で生きるようになること、といってもいいのではないかと思う。大人になっても表現の世界で生きるためには、表現を扱う特殊な職業に就く必要がある。しかし、表現は常に意味に絡め取られて行くため、表現は常に自由を求める戦いが必要になる。

特に日本は、「まこと」のくにであるから、意味の伴わない表現は空言として非難弾圧の対象になるわけだし、また「言霊の幸わう国」であるから意味(霊)に表現(言)が伴うだけでなく、「表現されたものは実現する」と無意識に信じられている。そこに祝い事はイコール「祝言」となり、不吉なことを言うとそれが実現するという無意識の観念に縛られがちである。

そのために、外交や政治など本質的にシニフィアン部分が肥大した駆け引きの部分において、日本は中国やヨーロッパなどのシニフィアン文化が発達した国にしてやられがちになると言うことなのだと思う。逆に実質を重視する点から、表現は朴訥だが仕事が超絶な職人技などが賞賛される国民性になっている。非言語コミュニケーションの重要性は、いわゆる先進国においてはもっとも重視されているように思う。

日本の「息苦しさ」というのはそういう「実質のみを重視」する「意味の専制」にあるのだろうと思う。「表現の遊び」が不十分だと言い換えてもいい。日本人の言語機能が衰退することによってその面ではさらに不自由さが強まっていると思う。マナーやしきたりなどが非言語的なシニフィアンとしての意味でコミュニケーションをゆたかにしていたのにそれが失われていくことによって「私」の存在を包んでいたオーラというかオブラートというか柔らかい包み紙のようなものが薄く破れがちになり、極めて自己中心的な「私」が何の前触れもなく社会にさらされるという困った状態になっているのではないか。

日本が力を取りもどすためには、意味・実質の部分を深めていくことも重要だけれども、表現の力をもっと豊かにしていかなければならないと思う。「分かりやすい」ことばかりを求めるのは既存の「意味」に妥協した表現ばかりが生み出されることになって衰退に歯止めがかけられない。かといって難解であるのに痩せた意味しか持たないような表現が量産されてもなおさら意味がない。ゆたかでなおかつ広がりや深みや味わいがある表現を生み出すことを、もっと重視していく必要があると思う。


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