ビジネスの世界/権力が権力であった時代への郷愁/宮崎のグレート・コミュニケーター

Posted at 07/01/22

昨日。わりあい天気が良かった。体調もだいぶ良かったので、午前中に出かける。東西線に乗っていると、親子連れがたくさん。そうか、あまり午前中に出なかったから気がつかなかったが、休みの日の午前中は子ども連れが多いのだと納得。

丸の内の丸善で本を物色していると、普段全然いない子どもがマンガコーナーのあたりをうろちょろしている。なるほど休日の午前中だと思いながら本を探していると、中国語の会話がそこここで。なるほど外国人も休みの日の午前中には多いのだと納得。そんなふうに思ってみていると、アジア人系も白人系もかなり目に付くことに気がついた。

東京駅の地下を歩いているときに、バシッとジーンズをはいてブーツを履いている二人連れの若い女性を見かける。上にはダウンジャケット。あ、これは中国人じゃないかなと思っていたらどうもそのようだった。何というか、中国人というのは、「説明のしやすい服装」をしているのだ。何というか、私にも説明可能な、という意味だが。日本人の若い女性の着ているものは何というものなのか名前も、あるいは色の名前さえ見当がつかないものが多いから、それに比べるととてもシンプルだ。そして、なんとなく印象がバシッとしている。異国を歩いている、という緊張感なんだろうか。それに比べると普通の東京人の印象は、簡単に言うと「無駄なオーラを発散していない」、という印象である。それが自分の存在感をコントロールしているからなのか、ただ存在感が衰えているだけなのかは微妙なところだが。

丸善ではキヨサキ『金持ち父さんの投資ガイド入門編』(筑摩書房、2002)を購入。このシリーズ、最初読むのをかなり勧められたときはかなり嫌々だったが、読んでいるうちにいろいろな意味で面白くなってきた。この本の作者の人生に対する考え方のようなものがだんだん理解できてくるにつれ、かなり共感することが多くなってきたということなのだと思う。

金持ち父さんの投資ガイド 入門編 ― 投資力をつける16のレッスン

筑摩書房

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もちろん個々の内容については理解できないというか賛同する気にあまりならないことも多いのだが、ビジネスというのはやはり自分の知っている世界とは全然違う世界で、でもやはり人間の熱い血が動かしている世界なのだ、ということがわかってきたからだと思う。そして、キヨサキの父(実際の父親、貧乏父さん)がハワイの教育界の重鎮でありながら選挙で失敗し、その後フランチャイズビジネスに失敗して一文無しになり、健康も害して癌で死んだ、という話が何というか人事でなく感じられたということもある。教育関係者の多い親族で育った中で全く違うビジネスの世界に飛び込んだ戸惑いと、だからこそ何も知らない私のような人間に判りやすく語れるのだと思うその語り方が非常に魅力的だ。カーネギーやヒルのような成功譚も読んだことはあるがいまいち遠い国の遠い話のような気がするが、キヨサキは彼自身が日系人(4世)ということもあるのだろうけど、何というかそのセンスが共感可能なものを持っているように思った。とはいってもまだ読んでいるのは『起業する前に読む本』の方。こちらの方が新しいから、古いほうから読んだ方がいいのかも知れないが。

金持ち父さんの起業する前に読む本 ビッグビジネスで成功するための10のレッスン

筑摩書房

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昨日の夜は『あるある大辞典』の時間に納豆問題で関西テレビのアナウンサーが謝罪するのを見た。どれくらい視聴率があったのだろうと思ったが、裏番組は『華麗なる一族』だしこっちが思っているほどでもないかもしれない。『華麗なる一族』はちょっとだけ見たが、確かに配役的に相当ふんだんに日本の俳優資源をつぎ込んでいることは確かだなと思った。多分、最近やっているドラマの中では結構面白いものなんだろうと思う。

『白い巨塔』以来、という話もあったが、これもまたリメイクだ。つまり、60年代あたりのドラマが現在再評価されているということだろう。それはなぜかといえば、60年代というのは日本社会にドラマがあった時代だ、ということなのだと思う。現代にはドラマになりそうなドラマがない。身辺雑記的な物はたくさんあるが、権力と個人が互いにぶつかり合うようなギリシャ悲劇的なとでもいうのか、そういう大きなドラマがない。それは60年代が、『権力が権力であり、権威が権威であった』時代であって、現代では権力も権威もその神通力を失ってしまい、身近でわれわれ自身の延長線上にあるものとしてとらえられるようになってきてしまっているからだろうと思う。

ドラマというものが面白いのは、やはり主人公にとっての巨大な壁があるからであり、その巨大で強大な壁というのは揺るぎそうもない権威であり、近づくことも出来なそうな権力こそが一番それを代表するものだろう。人間はやはり壁があるからそれを乗り越えようとするのだし、そのためには壁は強く大きなものでなければならない。だからこそそれを乗り越えた人間が強く大きなものになるわけだから。

現代はそういう巨大な壁が不在の時代であって、人は無意識のうちにそういうものを求めているのではないだろうか。『華麗なる一族』が受け入れられる背景には「権力が権力であり、権威が権威であった時代」への郷愁があるのだと思う。

華麗なる一族〈上〉

新潮社

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今朝は『とくダネ!』を見ていたら小倉智昭が『あるある大辞典』の問題についてコメントするというので興味を持ってしばらく番組を見ていた。なかなか言い出さないのはこれは作戦に引っかかったかなと思っていたが、そのまんま東が宮崎県知事選に当選したニュースをやっていた。そのまんま東に対してはやはりタレント候補だという気持ちもあるし事件の記憶もある。田中康夫が長野県にもたらした混乱も知っているし、横山ノックや青島幸男の無残な顛末も見ているからちょっとどうなんだろうと思っていたのは事実だ。しかし選挙戦の映像を見ているうちにちょっと何だか泣けてきてしまった。まず演説がうまい。これはコメディアンの喋りでなく、もう政治家の喋りになっている。宮崎弁を駆使して話す話し方は、二人の官僚候補に比べて圧倒的に人の心に届く話し方だ。むかし原健三郎の演説をテレビで見て「これが政治家の喋りというものか」と感心したことがあったが、あんな感じに近い。事件のこともさらっと触れていて、隠し立てしない印象が返ってプラスになったように思う。

宮崎は保守王国で、今までも国会レベルで保守が分裂選挙をしても必ず保守が勝ってきた。薬害エイズ事件で厚生省時代の関わりが指摘された持永元代議士の子息で経済産業省出身の持永氏と林野庁長官の川村氏。結局この二陣営の足の引っ張り合いによる自滅というところは大きかっただろうが、そのまんま東の選挙戦のようすは全く真摯で、計算されていて、人の懐に飛び込んでいく率直さがあった。この厚い保守地盤の宮崎で県議会とどう協調していくかというのは最初からかなりの難問だと思うが、田舎では田中康夫のような切れすぎる人材よりもそのまんま東のようなパーソナリティーの方がうまく行くのではないかと思う。

今まで選挙でタレント候補の名前を書いたことはないが、もしこの選挙戦を目の当たりにしていたら、正直言って私はそのまんま東に投票したと思う。彼は政治家としての資質の、重要な部分を持っている。それはコミュニケートする力だ。アメリカの故・レーガン大統領は暗殺未遂事件のときの余裕ある対応ぶりによってインテリ層にも受け入れられ、グレート・コミュニケーターと賞賛されたが、そのまんま東はまさに「宮崎のグレート・コミュニケーター」になる資質があると思った。

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『あるある』問題に関しての小倉智昭のコメントは、不二家が存亡の危機に立ってるのと同じような深刻さでフジテレビは問題を真摯に受け止めなければならないという主張で、それはまあまったくその通りだと思った。オウムにネタ元をばらしたときのTBSもかなり深刻な状況に追い込まれていたが、今回の件に関してはフジにはそういう空気があまり感じられない。まあ結局は寡占企業である地上派テレビ局は一つや二つの番組不祥事で滅びることはない、と高をくくっている部分があるのだろう。「番組の品質」に関する今回の問題はしかし、やはり日本人は「食品の品質」ほどには深刻に受け止めていないように思える。それがなにを意味するかは別として。

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